ミラノ勅令の重要性について
311年の「ガレリウスの寛容令」は、キリスト教を公認する内容だったと思います。
そして、その後も迫害を続けていたマクシミヌス=ダイアの寛容文書も、312年末に出されたと本で読みました。
つまりミラノ勅令以前に迫害は終了していて、「公認」もされていたということになります。
そうすると、ミラノ勅令は一般に言われるほど大きな意味をもっていたのでしょうか??
回答(7件)
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コンスタンティヌス帝の時代では、まだキリスト教の制度が確立していません。
それまで迫害を受けていた時代ですし、統一された制度そのものが有りませんでした。
それらが整備されてゆくのが、コンスタンティヌス帝以降テオドシウス帝の時代になります。
テオドシウス帝時代は、キリスト教が完全にローマ帝国の国教とされていました。
つまりこの時点では、「洗礼を受けキリスト教徒である」と明言する事になにも問題はありません。
ましてローマ帝国が崩壊した後のメロビング朝時代の話を持ち出しても、何の意味もありません。
キリスト教の骨格ができるのは、381年のニケーア信条が決められてからです。
ニケーア信条ができる前のキリスト教をそれ以降のキリスト教と混同して考える事は、現在の法律で過去の歴史を裁くようなもので、無意味であるばかりか誤解を招く行為い゛しかありません。
コンスタンティヌス帝は、政治的理由から、洗礼を受ける事はできても意図的に避けていたのだとも思います。
キリスト教弾圧下で、洗礼を死の直前まで受けない事が広まっていたのを名目的理由として。
(ヨーロッパでカタリ派異端の弾圧が激しかった時、カタリ派信者は、弾圧を逃れるため死の直前までカタリ派の洗礼を受けない人が多くいました)
コンスタンティヌス帝が洗礼を受けなかった理由として考えられるのは、コンスタンティヌス帝の時代に一番信者の多かったミトラ教への配慮があったと思われます。
皇帝がキリスト教の洗礼を受け、キリスト教政策を拡大すればするほどミトラ教の信者は反発し、国内が混乱に陥る可能性があります。
しかし自身がキリスト教徒であるかないかを明白にせずに行った政策がキリスト教よりであるとしても、反発は少なくなる事は当然の事です。
これは、今の日本で、「アメリカさんの言う事は全て正しいので、イラクやアフガンに出兵します」というと反発が強いので「国際的要請により現地の治安回復とテロリスト殲滅のためにイラクやアフガンに出兵すべきだ」といったほうが反発が少ないのと同じことです。
その他に、「洗礼を受ける」という行為が、ローマ帝国の最大権力者として受け入れられないと思ったとも考えられます。
「洗礼を受ける」という行為は、「誰かから与えられる」という行為であり、神の直接の加護を受けている、神の地上における代理者としての皇帝が、神以外の人間から洗礼を受けるという行為に納得できなかったとも考えられます。
洗礼についてだけですが、
洗礼とはズバリ、「キリスト教で信者となるための儀式」を意味します。
少なくともキリスト教徒には、
臨終間際に洗礼するというような慣習はありませんでした。
(というか、洗礼を受けないとキリスト教徒とはいえないので。)
本人が非キリスト教徒で、死後にキリスト教的天国を希望する場合が
臨終間際の洗礼ということになります。
これは洗礼を受けてさえいれば、生前の行いが悪くても、
最終的には救われ、天国にいけるという信仰のためです。
こういう飴と鞭のようなやり方で、地獄や天国をチラつかせて
布教をするのが当時からの手段でした。
ちなみにコンスタンティヌス帝の母親はミラノ勅令の年に
洗礼をうけたと聞いています。その後、彼女は様々な奇蹟をへて聖人に列せられています。
メロヴィング朝のクローヴィスを改宗させた愛妻クロティルドも
子供の頃に洗礼を受けていて、王子たる嫡男を生後まもなく洗礼してます。
現代と同じように、基本的にキリスト教徒の洗礼は
死の直前ではなく、生まれてすぐです。
改宗の場合も、洗礼は儀式として不可欠です。
クローヴィスはさんざん渋った挙句でしたが、496年に
配下の騎士ともどもランス大聖堂で洗礼をうけてキリスト教徒に改宗してます。
王侯を改宗させるのは、政治的意味合いが強いので、
王が権力についている間ではないとあまり利用価値はありません。
コンスタンティヌスも家族や神父らから執拗に改宗の圧力をうけていたと思いますが、
恐らく彼ほどの人物ならば宗教が政治的影響力を強めるのを好まなかっただろうことは容易に想像できますね。
彼の場合は個人よりも国家優先なのは当然ですから。
2番です。
4番を読みまして、私の認識とは異なっていましたので、調べてみました。
コンスタンティヌス大帝が洗礼を受けたのはたいかに死の直前でしたが、それは当時のキリスト教において死の直前に洗礼を受けるのが慣例であったためのようです。
つまり当時としては、キリスト教徒でも「死の直前まで洗礼を受けない」、「洗礼を受けてから死ぬ」というのが当然であったようです。
コンスタンティヌスがキリスト教を信仰するようになるのは、やはり312年とするのが正しいようです。
ミラノ勅令において、ローマ神話、キリスト教以外に当てはまる宗教としまして、当時キリスト教をしのぐほどの広まりを持っていたミトラ教が
コンスタンティヌスの頭の中にあったのは当然予想できます。
しかし、キリスト教の信者であるコンスタンティヌスとしては、最大の関心事はキリスト教であり、ここでキリスト教だけを優遇すると、帝国の混乱を招くため、あえて全ての宗教としたにすぎないと思われます。
それは、その後の彼の政策を見れば明らかです。
ガレリウスの寛容令についてWikiで調べてみましたところ、その寛容令は、東の正帝ガレリウス、東の副帝リキニウス、西の正帝コンスタンティヌスによって出されています。
つまり、ローマ帝国の3/4の地域で通用する法令として出されています。
これによりキリスト教を認めないのはマクセンティウスのみとなります。
コンスタンティヌスがマクセンティウスを破った時に、キリスト教の支持があっつたため、コンスタンティヌスがキリスト教を信仰するようになったとされています。(神話でしょうが)
No.4ベストアンサー20pt
コンスタンティヌス帝がキリスト教に帰依したのは、
337年の臨終のときです。
しかもこれは家族の懇願を受け入れてのことで、本心からではなく、
本人は厳密に言えばキリスト教徒ですらなかったと
考えられています。
ただ帝は新約聖書の編纂を命じた張本人ですけど。
(聖書が異教徒の命令作られたというのはキリスト教徒が認めたがらない真実ですね)
コンスタンティヌス帝が発布したミラノ勅令は、
”すべての宗教”に信仰の自由を与えるという内容です。
(当時、キリスト教以外にもメシアを崇拝する似たような宗教がいろいろありました)
対して、ガレリウスの寛容令はディオクレティアヌスが出したキリスト教迫害勅令を
無効にするためのものです。ここが違います。
しかもガレリウスは東の皇帝の一人にすぎないので、勅令の効果も東のみでした。
寛容令以前は、ガレリウスはキリスト教の迫害を続けて言いました。
ちなみにコンスタンティヌスは元は西の皇帝で、
彼の母親はエルサレムから西欧に真の十字架の断片を持ち帰ったほどの
熱心なキリスト教徒で、妻もそうでした。
身内にキリスト教徒のいる彼は最初から迫害には積極的ではなく、
帝国の統合の過程で、あらためて信仰の自由を認めることを公認したわけです。
キリスト教以外も対象にしているところが、ミラノ勅令が完全に政治的な動機から
行われたことがはっきりわかるところでしょう。
(キリスト教ではなくて)信仰の自由を認めたという点において、
ミラノ勅令は大きな意味がありますよ。
後に新旧宗教戦争が起こったときも、この勅令のもつ精神がみなおされることになります。
この回答へのお礼
全体的な「信教の自由」という点に大きな意味があったんですね。
どうも高校世界史の影響か「キリスト教の公認」というイメージにとらわれすぎていたようです。
多くのご意見をありがとうございました。
皆様にお礼申し上げます。
ローマ皇帝は政治家です。多数の宗教が混在するローマ社会のトップに立つ以上、政治的スタンスは多数の国民から『公平』であるという印象を持たれなければなりません。
更にその上で、自己の統治に有利な、比較的目立たない実質的な手を打つことを行ったのです。
・過去に没収されたキリスト教会の財産の返還
・皇帝による教会への寄進
・キリスト教聖職者への公務免除(多くがボランティアであったローマの公職に就くことへの免除と兵役の免除)
そもそも、多神教(神が絶対的でないので、国家権力と両立が可能。)が一般的であったローマ社会において、神を絶対的なものとする一神教を認める(神と国家権力とは両立しない。)ことは、見かけ上はどの宗教に対しても同等の『信教の自由』を認めたようにみえますが、実質的には「国家権力の宗教に対する後退」を意味するのです。
一神教と国家権力が両立しないにもかかわらず、国家権力のトップが一神教の完全な公認をしたという真意は、『宗教と国家権力』の一体化を目指したということに他なりません。
上記のような、比較的目立たない手段によって、この政策は実行に移されコンスタンティヌス帝の統治の安定に貢献しました。
No.2ベストアンサー10pt
311年の寛容令も313年のミラノ勅令も、共にコンスタンティヌス1世が出したものですが、この2年間における彼の地位に大きな変化があります。
311年当時のローマ帝国は、4つに分裂しており、コンスタンティヌスはそのうちの一人でしかありませんでした。
4分割されたローマ帝国を統一するためにキリスト教徒を利用しようとして出されたのが311年の寛容令です。
つまり、この時点では、コンスタンティヌス自身は、キリスト教徒ではなく、キリスト教徒への迫害も残っておりました。
312年マクセンチウスを破った時にキリストの加護による勝利により、コンスタンティヌス本人が、キリスト教に帰依する事になります。
そうして出されたのが、ミラノ勅令です。
311年当時は、単に「コンスタンティヌスの支配下であるイタリアでの迫害を止めて、帝国内での宗教の1つとして認める」という事にすぎませんでしたが、313年では、皇帝みずからがキリスト教徒となり、「キリスト教が実質的にローマ帝国の国教とされた」という点で、大きな差があります。
コンスタンティヌスのローマ帝国の統一は、324年で、同年キリスト教を中心とした都市コンスタンティノープルが起工それます。
ミラノ勅令を出したコンスタンティヌス一世は初のキリスト教徒であるローマ皇帝だったと思います。
彼は二ケーア公会議や、例のXPの文字での戦勝などキリスト教に深く関わっており、聖人となっています。
ローマ法はよく知りませんが、ミラノ勅令の純粋な法的意義よりも、聖人であるコンスタンティヌス大帝の
勅令であるということが、キリスト教徒の歴史家たちに重要視されたのではないでしょうか?
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