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私は北海道の生まれで妻は九州の生まれ、子供が二人いて、現在S県S市に
住んでいます。2000年前の日本列島の人口が仮に10万人だとして、
現代日本の平均的日本人には、その10万人のうちの何人の血が流れている
のでしょうか? (平均的日本人なんていないぞぉ~とツっこまないで
くださいね)
昔から興味を持っている問題です。純粋に数学的な考察でもいいですし、それ
以外に、研究結果のようなものがあるのでしたら、教えてください。
「2000年前」にしたのは、日本という国の原型がモヤモヤと出来初めて
いたころだろうと思われるし、今が2001年だからという、その程度です。
当時の人口も、もっと正確な数字が分かっているのでしたら、教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

 2000年前は縄文後期から弥生時代ですよね。


 2000年で世代交代(子孫を作るまでの年齢)が20年だと仮定すれば
 一世代で2人必要ですから(親は2人:当たり前か)自分の先祖の人数は

 2^(2000/20)=2^100=1.21765×10^30

 なんて、すごい数になります。これは、両親および親族に同じ人がいない
 また、それぞれの祖先に同じ人がいないと仮定しての計算です。
 http://nazca-e.hoops.ne.jp/kodai/jo-ya.htmlによると当時の人口は
 推定で60万人だそうです。
 この計算では、日本の人に移動が無ければ、全ての人に同じ血が流れている
 可能性が高い。つまり、祖先を同じにしなければ、上記の計算のような天文
 学的数字が出ませんから。あとは、確率論ですから・・・誰か計算して
 それから、奈良時代・平安時代またそれ以前から、朝鮮半島を中心とする
 渡来人が多く流入しています。あとは、これらを考慮に入れた計算ですが、
 それでも、すべての日本人が血がつながっている確率が高いと考えられます。
 そうでなくても、姻戚関係はあるでしょう。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Technopolis/1041/koda …
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この回答へのお礼

dragon-2さん、回答ありがとうございます。お礼が遅れてすみませんでした。
> すべての日本人が血がつながっている確率が高いと考えられます。
やっぱりそうなんですね。たとえば1000年前のだれか一日本人を考えた
場合、その人から下をみた系図はピラミッド構造で、その人から上をた系図も
逆の、やはりピラミッド構造。ひとりひとりの人間は、ちょうど砂時計の節の
ようなところに、いる訳ですよね。受け継ぐものと、受け渡すもの。なにか
思考のイメージがぐーんと広がってくる感じがします。

お礼日時:2001/02/06 01:39

余計なことですが...



現象Xが起こったり起こらなかったりすることが観察される(明らかに両方ある。確率的現象だ)という場合を除いて、
「Xの確率は?」
と問う場合の答は大概、ほぼ0%かほぼ100%か、どっちかになります。この場合は後者ですね。
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この回答へのお礼

stomachmanさん、いつも感謝しています。
> ほぼ0%かほぼ100%か、どっちかになります。この場合は後者ですね。
??? 後者って「すべての日本人が血がつながっている」の確率が100%と
いうことですか?
すべての日本人の2000年間の系図を三次元立体モデルで表現すると何か
面白いことが発見できるような気がするんです。それは何か神経の束みたいな
もので、信号の散逸と集合が同時発生しているような、、、うーーん、
うまく表現できませんけど。

お礼日時:2001/02/06 01:50

最近のミトコンドリアDNAの研究で、日本人の祖先がおおむね判って来ました、系統別では、一番古くから日本にいたのは、アイヌ、沖縄系統の人で、アイヌは北海道から日本に、オキナンチューは、大陸方面(多分、陸続きだった、中国大陸から、)渡ってきたようです、アメリカインディアンや、南米の人々と同じ系統です。

九州のクマソなども、この系統だった可能性が高いです、一般的に言われている縄文人は、この系統だそうです、その後、稲作をする現在の福建省の辺りから、大陸系の人々が渡ってきました、そして、朝鮮半島からも、朝鮮系の人が渡ってきました、このアイヌ、大陸、朝鮮タイプが、現代日本人の大半を占めます、平安京には、大陸などから渡来した人々が、部族毎に町を造っていたそうです、渡来人の町は、50を超えていたそうです、いろいろな大陸の文化を取り入れようと、優遇して都に来てもらっていた事がわかります。他には、大陸で政変が起こって亡命してくる人々もいたようです、たとえば、”秦(はた)”という苗字の人がいますが、この人たちは、始皇帝で有名な秦の国から亡命してきた人達で、王から”秦”という苗字を貰って日本に定住した人々の末裔です、古くは”鉄器”、"文字”、”陶器”、”法律”、”宗教”など、新しい文化を求める度に、日本人に新しい種族が混じってきたと言ってよいでしょう、世界中で、DNAのパターンが、入り混じって存在する、国家は、たいへん珍しいそうです、お隣の韓国でも、朝鮮特有のDNAパターンの人が、70%を越えているそうです、つまり、朝鮮の人達は、ほとんど同一の種族の末裔です、中国でも大半の人は、大陸系と呼ばれる、DNAパターンの人で占められているので、日本人固有のDNAパターン(あることはあります)の人は、10%を切るようですので、思いっきり混血国家です、ですので、日本人が、民族主義を主張するのは、笑ってしまいます、面白いのは、東北地方に多いDNAパターンですが、白人固有のDNAを持った人が多いのです、東北の美人が色白なのは、偶然ではなく、白人の血が濃く残った人種だからです、中国のウイグル自治区には、白人種(金髪、碧眼)の部族が現在でも住んでいますので、アレキサンドリアからの移住者か、それ以前の民族の移動かによって、日本にまでたどり着いた、白人の末裔が東北の日本人です。もちろん、混血が続いて、ほとんど、アジア人種化していますから、見分けはDNAでしかわかりませんけどね。
えらく脱線しましたが、つまり、2000年前の日本にすんでいた人、倭人100余国に分立しって頃ですから、
その頃から、すると移住者の方が多かったでしょうから、日本人のほとんどは、移住者との混血でしょから、地域によって差はあるでしょが、ほとんどの人が、子孫と考えてよいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

YUZURUさん、回答ありがとうございます。お礼が遅れてすみませんでした。
古代のことを考えると、本当に想像力がかきたてられます。
> 世界中でDNAのパターンが入り混じって存在する国家はたいへん珍しいそうです
日本列島にはいろいろなものが集まっていると考えることができるのですね。
人間だけでなく、いろいろな生物とか文化とか、他に何があるのでしょう。
不思議に思うことがひとつあります。例えば鑑真は日本にくるとき航海に失敗して
失明するなど大変な苦労をしています。阿倍仲麻呂は結局帰ってこれませんでした。
それほど航海は困難を極めるものだったのに、古代の人々はどうして日本列島に
やってくることができたのでしょう? 国家成立以前の時代は、朝鮮半島からの
流入はたやすいことだったのでしょうか?
(再回答のお願いではないです。自分への問いです)
(でも何かご存知でしたら教えてください。勝手ですみません)

お礼日時:2001/02/06 02:09

YUZURUさんのいう、「オキナンチュー」って、沖縄人の意味でしょうか?正しい発音は「ウチナンチュー」ですよー。



さて、アイヌと沖縄の人は、同じ縄文系の血をひいている、といわれていましたが、ミトコンドリアDNAの配列で、2箇所ばかり違うそうで、実はそれほどつながりが深いという事ではないそうです。

2000年前の社会がおよそ100人ずつの村単位であって、かつ、その村がもともと、ある一族が大陸から渡ってきて形成されたと仮定すると、血のつながりが違うのは、10万/100=1000グループに分かれます。
一つの村の周りに4個から6個の村が存在すると考えると、1世代で平均5つのグループの血が交わります。
すると最初のグループから、一番遠いグループの血が混ざるまで、1000/5=200世代必要と計算することは出来ないでしょうか。
人間が20年で次の世代を生むと考えると、2000年の間で100世代。
日本の真ん中あたりの村では、両端からの血がちょうどたどり着くくらいでしょうか。
というわけで、およそ5万人から10万人の血が流れている、と私は考えます。

かなり乱暴で穴だらけっぽい仮定ですが、こんなんでいかがでしょう?
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この回答へのお礼

riv20さん、回答ありがとうございます。お礼が遅れてすみませんでした。
> というわけで、およそ5万人から10万人の血が流れている、と私は考えます。
なるほど。血の共有をグループ単位で考えた場合の結果ですね。興味深いです。
近代以降は「農村」は徐々になくなりましたから、現代日本人の血の濃さは
ここ百年でいっきに薄まった(血が広まった)と言えると思います。それが
遺伝学的にどういう意味を持つのか、想像をふくらませています。

お礼日時:2001/02/06 02:25

家系図の立体像CG。

想像しちゃいました。博物館あたりでやってくれんかな?ミトコンドリアDNAを使った母(の母)^nを尋ねて3000年、なんて宜しいんじゃないでしょうか。「400人のおばあさん」てSFがあったなあ。
stomachman家伝来の家系図(巻物が本図と非常携帯用の2本あります。)を見ますと大昔は天皇家に繋がっている。実はこれどこの家系図でも大抵そうなってる。つまり根っこの方のデータはカナリイイカゲンなんですね。それから養子養女が区別されていない。過去帳の方がデータとしては信用できると思いますが、焼失紛失してるやつが多いだろう。むしろ韓国のように「同姓相婚せず」なんて大昔までさかのぼって親戚じゃ無いことを確認するルールがある国では、家系図は非常にしっかりしているでしょう。
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回答じゃなく、感想文みたいなのです。



 riv20さんの定住型1次元拡散方程式モデルより、もうちょっと動きが激しいと思いますよ。
 まず、村と村の繋がりが1次元的でなく、かと言って広い荒野に整然と並んでいる2次元配列でもない、中間のフラクタル次元Dであると思われます。ある1つの村の血の広がりは、世代gにおいて[g^(D-1)]K位増える、というモデルとすれば、K=5, D = 1.2として(根拠無し) 100世代だと、integral {g=0~100} (g^0.2)5 dg = (5/1.2) 100^1.2~1000。
 それから、農耕社会が確立して移住が不自由になる以前の時代と言うのが1000年ぐらいはありそう。縄文時代からかなり離れたところと交易していたと聞きますから、これも加速要因。海の産物・山の産物の交易も多かった筈で、未だに山の中に行くとごちそうとして海の魚が出てくる。車に乗らなきゃ動かない現代人に比べて結構行動範囲は大きかったんじゃないでしょうか。
 一方、閉鎖的集団というのもあって、均一化しちゃってみんな同じ顔をしている。時々意図的に外部の血を入れて遺伝病に対処している、そういう集団もかなり拡散してしまっているでしょう。戦時中の集団疎開は特別としても、中学生の集団就職の記録映画など見ると、ここ数十年の間に夥しい人口の移動があったでしょうねえ。
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この回答へのお礼

stomachmanさん、ありがとうございます。
私、このテーマ、好きなんです。
数学、遺伝学、生態学、人類学、進化論、地学、民族史、文化文明史、宗教信仰史、、、
切り口がとってもたくさんあって、それぞれが深くて面白い。
全部の見渡して考察すれば、きっとスゴイことが見えてくると思うんですけど、、、

お礼日時:2001/02/10 23:14

riv20さんのご指摘通り、「ウチナンチュウ」ですね、あー恥ずかしい。

若干の補足をDNAの変異率なのですが、霊長類におけるミトコンドリアDNAの塩基置換速度は百万年あたり千塩基あたり23.7と推定されており、ミトコンドリアゲノムの数は、37で、1つのゲノム辺りの塩基数は、10~15kb(キロベース)です。(ミトコンドリアDNAの変異率は、核ゲノムの変異率の10倍です)、配列が2個違っているという事実で、だれか、沖縄の人とアイヌが別れた年代を計算してみてくださいませんか?(笑)
あと、縄文人の日本への流入は、日本が地続きだったので、かなり容易だったようです、大型獣のマンモスの亜種の化石が日本から見つかるのは、その証拠です、大阪の地下鉄工事現場で、ワニの化石が出てきたことから、南方の沖縄台湾大陸が、繋がっていたこともわかります、ただ、大陸系弥生人が、本土に渡ってきた頃には、既に、飛び飛びの島伝いに渡って来たと考えられています、稲作による、労働力の集約と元々、河川の沼地のような所に住んでいた人々ですので、船の技術は、かなり持っていたようです、稲作によって食料が確保でき、それによる人口の爆発的な(当時にしてみれば)増加によって、新しい耕作地を求めて、大規模な移動が在ったようです、これが第一期の流入で、その後、この集団は、なぜか沖縄にすむ縄文人とは、交戦せず、九州に上陸してある程度の規模の集団になってから、当時、今の三重県の辺りまで進出していたアイヌ人と大規模な交戦状態に入ります、ヤマトタケルの大征伐で、各地で交戦しながら、本土のアイヌは平定され、一部、混血をしながら、江戸時代、松前藩が進出するまで、北海道はアイヌの占有となったようです、ちなみに、出雲や吉備にあった国家は、朝鮮系の住民だったようです、出雲の国家は、ヤマト朝廷に戦闘後、恭順し、吉備民族は、最後まで抵抗し、全滅したようです、ヤマタノ大蛇は、出雲の鉄器を持った戦闘集団をさし、退治してお腹からでてきた、草薙の剣は、当時すでに、朝鮮から到来していた、鉄器を指します、桃タロウの話は、敵味方が途中で入れ替わってしまっていますが、吉備津彦命は、後にここを統治した人で、吉備津一族は、もともとは、”鬼”側の”うら”のことです、鬼城後からは、朝鮮式古城後が出土していますから、鬼退治どころか、ヤマト民族による侵略だったことがわかります。まあ、出雲が生き残っていますので、よほど、言うことを聞かなかったのでしょう、徹底的に文化を破壊したようです。ちなみに、かなりの数の服従者があったようで、その後のアイヌ人との戦闘には、ヤマト人より、朝鮮系の人達が、矢面に立って戦ったようです。この征伐はかなり短期間に行われたようですから、この時期に日本人の混血が進み、平均的な日本人の原型が出来た時期ではないかと思われます
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この回答へのお礼

YUZURUさん、再回答ありがとうございます。
私の漠然とした知識では、日本が大陸と地続きだったのは、縄文時代よりも
さらに数十万年前だと、思っていたのですが、思い違いでしょうか?
日本国成立以前の古代史にも、お詳しいのですね。
もし差し支えなければ、参考文献やURLを、お教えください。

お礼日時:2001/02/09 01:23

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