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 関が原の合戦で、中山道を進んだ秀忠は、上田城の真田昌幸に手古摺って、合戦に間に合いませんでした。
 ところが、この遅参は【ワザと遅らせたもので、家康の陰謀だ。秀忠の軍勢を温存するためだ。】とする説があるようです。
 たしかに、実際の合戦に参加した家康の家来は少なく、大方、豊臣系大名同士の戦いになって、それぞれダメージを受けています。

 この説は珍説の部類にはいりますか? それともうなづけるところがありますでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちは。



私は以前件の説を聞いた時に「なるほど、そのような可能性もあるか」とひたすら感心してしまったものですが、今は「家康は積極的にそのようなことを行うような人物だったのか」ということを考えてみたりしております。
時代劇などのフィクションですと、本当に家康という人はかなり前から虎視眈々と天下を狙っていたかのように描かれていることが圧倒的に多いですが、詳細に見ていきますとそのようなイメージとは大分違う「守勢の人」であったということがわかるという話もあります。
生来持っていたものがそうであったのかもしれませんが、信玄に大敗してからはその傾向が一層強くなっているように感じられるとか。
まあ若いうちに勢いでどうかしようとしたことで手痛い目に遭いますと、どうしてもそうなってしまうものかもしれません(まったく懲りない人もいますが)。
関ヶ原後の諸大名の配置にしましても「天下を徳川家のものに」というよりは「関東だけは守り抜く」という消極的なものであるという評価もあるようですし、諸大名との婚姻についても「着々と地歩をかためる」というよりも「焦り」の証拠ではないかとも見られているようです。
そういうことから考えますと「謀略」というよりは「たまたま上手くいった」ということではないかというようにも思えてきます。
蒲生氏郷の評価などもあるように家康がケチ(性格からくるものだけではないので「ケチ」という言葉は妥当ではないかもしれませんが)だったことは確かなようなので、消極的な姿勢と相俟って結果見事兵力を温存することにもなったということなのではないでしょうか。
フィクションなどでは遅れてきた秀忠に激怒したのもお芝居であるかのように描かれていることもありますが、その時身を挺して弁護した榊原康政に秀忠は本気で感謝しており(ご存知の通りこのことによって榊原家は数代を経た後の改易を免れておりますし)、単に秀忠が本当の意味でお人好しだっただけなのかもしれませんが、個人的には康政ぐるみで騙していたとは考え難いようにも思います。
結果家康によって幕府が開かれているので後世から見ると「とるべくして天下をとった」というように思ってしまいがちですが、本当のところはいつどっちに転ぶ可能性もあったのではないかと最近は再度そのように考えてみたりすることが多いです。
当の家康には「ここにもワシの権謀術数を理解出来ない輩がおる」と思われているかもしれませんが・・(笑)
相変わらずあまり参考にならない意見ですみません。

昨日は冬至ということで、ご近所から頂いた柚子をお風呂に浮かべて良い香りのお湯で温まりました。
質問者さんもくれぐれもお身体を冷やされることなどありませんように。
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この回答へのお礼

>後世から見ると「とるべくして天下をとった」というように思ってしまいがちですが、本当のところはいつどっちに転ぶ可能性もあったのではないかと
・・・そういわれれば、そのように思えてきました(ホントに自主性が無い(笑))。戦争を伴う血なまぐさい権力争いで、「他に抜きん出ていて大差で勝つだろう」と予想されていて、実際にその通りになる例はあまりないんじゃないでしょうか。
 100円の元返しにしかならない競馬の大本命でも、結構危ないものです(笑)。
 さすがに回答者さんのお考えは、いつものように奥が深いです。
>柚子をお風呂に浮かべて良い香りのお湯で温まりました。・・・いいですね。我が家も遅ればせながらやってみましょう。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/24 17:37

「徳川家主力を秀忠に指揮させて敢えて行軍が困難な東山道を進ませた」


江戸時代まで、都から関東への主経路は中山道(東山道ではありません)です。東海道には多くの難所があり、決して行軍が容易な道ではありませんでした。

現在はトンネルや橋梁で難所を全て通過できますから東海道がメインルートとなり得るのですが、当時は自然の地形のままに道を作るしかありません。中山道は途中に大河も険しい峠も海に迫った断崖もなく、通行は本来楽な道でした。秀忠軍が非常な苦労をして通過したように言われているのは、上田城攻めでの遅延を取り返すために常識外れの速度で行軍したからで、道のせいではありません。

さらに、当時の道は東海道や中山道であっても「人がすれ違える程度」の細いものです。徳川全軍を東海道経由で行軍させることなどできません。

上方へ向った軍勢は、

1. 福島正則などの東軍に組した豊臣武将:東海道を先行、清洲で待機、その上で岐阜城を攻略して美濃へ進軍。

2. 徳川本軍:秀忠が率いて中山道を行軍。

3. 家康旗本:上杉や佐竹が関東に乱入しないと見定めた所で、諸城に徳川の武将が城将として入って、既に徳川の勢力圏となった東海道をゆっくり行軍。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/12/25 20:54

多くの回答と似た答えで恐縮ですが、「遅れてくる可能性は計算はしていた。

ただし、本来は関が原の決戦への参加を期待していて、ワザと遅らせるつもりはなかった。」ということだろうと思います。

10年近く前に読んだ本で、タイトルなどを忘れてしまいましたが、家康本陣と本田忠勝の陣は、小身の足軽メインで構成されていて、鉄砲や騎馬、弓槍など、攻撃力の大きい部隊を動因できる大身の家来は、秀忠軍に回していたそうです。(確かに、関が原での井伊直正は一番槍から島津戦まで可愛そうなくらい奮戦しているが、本田忠勝はほとんど活躍した話を聞きませんね。)

本田忠勝と並ぶ榊原康政も、秀忠軍に随って実質的な部隊指揮を行っています。

そういう意味で、秀忠軍は徳川家のむしろ主力で、本来は西軍との決戦で使いたかったのでしょう。

その本では、「家康としては、徳川家主力で西軍を叩くことで、豊臣恩顧の東軍諸将への加増を最小限にして、来るべき徳川幕府を磐石にしたかったが、秀忠遅参により豊臣恩顧の武将に頼らざるを得なくなり、徳川幕府初期の段階は豊臣政権と同様、地方の諸大名が大国を領する不安定な状態となってしまった。」と書いてあったと記憶しております。

しかし、東軍と西軍の関が原が1日で終わるとは誰も考えていなかったので、中盤以降の勝負を決する段階で徳川主力投入を、と考えていたとしたら、その通り後で遅れてくる形にはなったけど、決戦に対する読みが外れて、わずか1日で終わってしまった・・・ということですね。

確かに、恐らく西軍内の造反の様子を見れば、家康自身が東軍に味方している諸将を完全に信じる気にはなれなかったでしょうし、長期戦になればむしろ東軍からの造反者が増えるという考えもしていたそうですから、あらゆるリスクと今後の展開を想定して、東軍の諸将も消耗はさせたい、但し戦いの決着は徳川軍主力でつけたい、という理想は持っていたでしょう。

遅らせることはワザとではなかったにしろ、徳川家主力を秀忠に指揮させて敢えて行軍が困難な東山道を進ませたことは、家康の計算だったのだと思います。
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この回答へのお礼

>多くの回答と似た答えで恐縮ですが・・・
 いいえ、いいえ、そんなことはございません。同じように見える回答もありますが、やっぱり、みんな違います。いろいろな見方があって大変面白いです。
>「家康としては、徳川家主力で西軍を叩くことで、豊臣恩顧の東軍諸将への加増を最小限にして・・・。」 しかし、1日で・・・。
・・・大変参考になりました。
>遅らせることはワザとではなかったにしろ、・・・。
・・・なるほどと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/25 21:05

#6です


後で考えていて思ったことがあったので追加&補足です。
家康が江戸をたってそう日がたたないうちに織田秀信の籠る岐阜城が降伏しており、そこで豊臣系武断派を長く留め置くのは士気の低下につながり西軍に寝返るものもあり、西軍からの寝返りも少なくなってしまい勝敗はどちらに転ぶか測りません。
仮定ですが、伊勢は西軍におちているので、挟みうちで清州にいた軍を殲滅することも西軍の選択肢にはあったでしょう(小早川&吉川がその気になれば)そうすれば家康、秀忠軍の個々撃破で豊臣の天下だったかも(笑)
そのあたりも考慮していたしかたなく決戦にのぞんだという結論に至りました。机上の空論は尽きないのでこのあたりでやめておきます。
話が少しずれますが、長期政権を保つためには武断派と文治派の手綱をうまくとることが重要な気がします。例をあげると大内家の陶氏や浦上家の宇喜多氏でしょうか、もちろん豊臣氏もです。内部分裂>滅亡の道をたどっています。
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この回答へのお礼

>(小早川&吉川がその気になれば)・・・こういう仮定を立てて想像して見るのは実に楽しいですね。この仮定、面白いです。
>長期政権を保つためには・・・。
・・・おっしゃる通りと存じます。何事もバランスをとるのが肝心と思います。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/24 17:44

No7です。

回答に一部誤りがありました。
彦根城ではなく佐和山城でした。

家康は関ヶ原戦で必勝を期していたとおもわれます。
その証拠に、後世ドイツ参謀本部から来日した将校が関ヶ原の布陣図を一目みて西軍の勝利とさけんだ位、敵中深くに布陣しています。

これは事前の根回しの効果を信じていたから出来ることで、また赤座、脇坂軍の寝返りは戦いの戦況を見て寝返りしたと咎め、家禄没収や減封に処しており、事前の約定を重視しています。
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この回答へのお礼

>ドイツの・・・。メッケルさんでしたっけ。
>これは事前の根回しの効果を信じていたから出来ることで、
・・・なるほど、そういう見方ができるんですね。
何度もご丁寧にすみませんです。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/23 15:27

苦労人で老獪な政治家である家康にとってはいかな優秀な官僚とはいえ三成とはくぐってきた「修羅場」の数が違います。

関ヶ原戦役はその家康の集大成のような戦略であったと思います。
家康は、ありとあらゆる状況に備えて二重三重の手を打っています。吉川広家や伊達政宗を懐柔し、結果的に彼らを騙してもいます。これで少なくとも「積極的に敵に回る」リスクを減らしたりしていたわけです。

秀忠軍に中仙道を通らせたのはそういった不測の事態に対する備えに他ならないでしょう。もし東北戦役で不測の事態(例えば上杉と伊達が同盟し江戸を後背から突く)ようなことがあれば秀忠軍を向かわせればいいですし、何か状況が変わって長期戦になりそうなら、そのまま北上させて北陸ルートから西軍の後背を突くオプションもあります。
それなら最初からなぜ北陸ルートを使わずに中仙道から家康軍と合流するルートを採用したのかというと、ひとつは西軍が思いの外積極的に活動し、東軍が三河のラインまで後退せざるを得なくなった場合と、東軍の諸将が家康に反した場合のリスクに備えてだったと思います。もし東軍が三河ラインまで後退したら、中仙道から合流してもいいですし、東から美濃を攻めるという作戦もとれます。

そこから考えるとわざわざ秀忠軍が上田城に引っかかったのも、もしかしたら榊原康政あたりが家康から上田城もやっとけと指示されていたかもしれません。もし負けたとしても兵力比からして全軍崩壊のリスクはほとんどないですし、それによる遅参も家康の「計算のうち」だったかもしれません。あくまで私個人の意見ですが、遅参した秀忠に会わなかったのも家康のパフォーマンスだったのではないかと思います。

もしかしたら「もし家康自身が敗北しても秀忠軍がいれば反撃できるから」という説を唱える人もいるかもしれませんが、それは机上の空論だと思います。およそ戦史上、敗北した軍が反撃して失点を回復したというのはありません(たぶんないはずです)。あの桶狭間の合戦でも、信長が今川義元を討ち取った時点でさえ今川軍は織田軍の5倍以上の兵力を有していました。その後ももし力攻めをすれば到底信長は持たなかったでしょう。また、あのミッドウェー海戦でも、日本軍が空母を失っても後には戦艦隊が控えていました。米軍は航空機をほぼ消耗していましたから、もし日本軍が戦艦隊を押し出してミッドウェーに攻めてきたらもう兵力はありませんでした。
しかし両戦役とも、敗北した軍は退却しています。全軍の士気が崩壊すると反撃は不可能なのです。家康は桶狭間の戦いを経験していますから、自分が敗北することは全く考えてなかった(そのときは「ゲームオーバー」だと自覚していた)と思います。
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この回答へのお礼

長文のご回答ありがとうございます。
なるほど、よく考えておられますねえ。
>敗北した軍が反撃して失点を回復したというのはありません
・・・すぐに反撃というのはないでしょうなあ。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/23 15:23

秀忠軍の遅参が家康の陰謀とするのは半分正しいとおもいます。


関ヶ原の合戦では東軍に大義名分があり、事前の周到な根回しで多くの裏切りないし戦闘不参加が続出することは予想されていました。

また野戦は家康の最も得意とする所であり、大垣籠城を力攻せず、彦根城を攻めると見せて野戦に持ち込む工夫をしています。
しかも東軍は歴戦の部隊で西軍の戦闘経験のあるのは宇喜多、小早川軍、島津軍くらいでしかない状態、しかも石田憎しで固まった戦意旺盛な連中ばかりで、小早川軍の裏切りが予想どうりに進めば勝利間違いなしの状態でした。
そうであれば秀忠軍が到着すればダメおしになる位で遅参は明らかに予想外だったとおもいます。
この為秀忠には目通りを許さず譴責しています。  結果として徳川軍の戦力温存になっただけとおもいます。
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この回答へのお礼

>結果として徳川軍の戦力温存になっただけとおもいます
・・・やっぱりそうですか。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/22 16:59

上杉対策に伊達、南部と東北に配して、結城秀康の軍を宇都宮に配して、越後に堀を配していたので万に一つ家康、秀忠がいなくなったとしても旗頭が残るように配置しています。


その点を考えるとただただ信州上田で足止めをされていたという可能性があります。秀忠に徳川四天皇やらを家康より多い目にいい武将をつけているので秀忠軍が徳川本軍の可能性は高いです
間に合わなかったのはただの誤算でしょう
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この回答へのお礼

>秀忠軍が徳川本軍の可能性は高いです 間に合わなかったのはただの誤算
・・・なるほど、明快なご解説です。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/22 16:54

「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」 講談社選書メチエ


笠谷和比古/著 講談社
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=18948060

で、「秀忠遅参」について専門家が詳細な論考を行っています。この本を読めば、「関が原の秀忠の遅参は家康の陰謀?」なる説が珍説であるか否か質問者様が納得できると思います。絶版書ですが、図書館かネットの古本屋で容易に見つかるでしょう。

また、私は未読ですが、同じ著者による

「関ケ原合戦と大坂の陣」戦争の日本史 17
吉川弘文館
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31967389

が最近出ております。前記の著書の論考をより進めている可能性が高いので、どうせ読まれるならこちらの方が良いかもしれません。

なお、私見では「関が原の秀忠の遅参は家康の陰謀?」は珍説に過ぎないと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
>珍説に過ぎないと思われます。・・・そうですかなるほど。

お礼日時:2007/12/22 13:09

関ヶ原戦後の加増を見れば明白ですが、福島政則、加藤清正など豊臣系の大名が関ヶ原の戦功による大きく加増されています。


もちろんその結果、東海道の要衝から外されて中国や九州の遠方へと追いやられてはいますが、このときの加増で大大名になった豊臣系大名は幕府にとって少なからぬ脅威となり、その後の対豊臣戦略でも「大大名となった豊臣系大名と大坂城の連絡を絶つ」ことが主目的の一つとなり、豊臣家滅亡後も彼らの勢力をいかに削ぐかが大きな政治課題になっています。
家康にとっては関ヶ原で勝利する事が至上命題であった以上、豊臣系大名に戦功を譲るのは次善の選択として仕方の無かった事ではあるでしょうが、故意に行ったとは考えられません。
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この回答へのお礼

>故意に行ったとは考えられません。
・・・そうですか。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/22 10:36

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