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哲学で再度質問を・・・といわれたのでカテ移動しました。
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なぜ、神?救い主?とあがめる人が
見るにも耐えない磔にされている十字架をシンボルとしているのでしょうか?

もっと普通の、尊い姿(マリア像のように)のキリストを崇めるべきなのではないでしょうか?

それとも宗教的な意味があるのですか?

よろしくお願いいたします。

A 回答 (10件)

十字架というお墓を拝んでいないです。

あくまで僕達の罪のために身代わりとなったイエス様を見て「主よありがとうございます」と
パッションごらんになりましたか?もしイエスが主ではないといえばイエスは釈放されました。そして十字架にかけられた時に大悪党のバラバという方が釈放されましたよね。その方とダブらせているという言い方すればわかるかな?僕達の罪をイエスが引き受けてくれました。そして本来十字架にかかるはずの私達が解放された。だから十字架を見てるのではなく、イエスを見ていると・・・
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この回答へのお礼

なるほど。
>僕達の罪のために身代わりとなったイエス様
その姿を描く為に十字架に磔された姿で無いといけないわけなんですね。
まだ本当に理解できたわけではないですが
今までずっと疑問に思っていたものがわかってスッキリしました。

映画「パッション」を正月間にでも見てみようとおもいます。

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その他、回答をくださった皆さん
大変ありがとうございました。

ポイントの振りに悩みますが、こちらが欲している回答内容に近い方に
独断と偏見でいれさせていただきます。

お礼日時:2007/12/28 17:58

前回 わかったような わからないような とおっしゃっていましたが、、、



キリスト教がいつ頃から十字架をシンボルとしだしたのかは、今もって誰も知らないんですね。

3世紀のキリスト教父 ミヌキウスはラテン十字架を崇拝するキリスト教徒に対して、「それじゃあ 異教徒じゃないか。木の十字架を崇拝するなんて、異教徒のすることだ。 お前達の記章や旗や標識といえば、ぴかぴかの美しい十字架だけではないか。そしてお前達の勝利の記念品はただの十字架だけではなく、その上に人間を乗せている!」と断罪したんですね。

で、異教においては、呪術的要素で十字架を使っていたんですね。
案山子ってありますよね。 あれです。
十字架に人形を吊るして畑に立てていたんです。
どうしてそんなことをやっていたかというと豊穣を願うおまじない。
案山子を聖王にみたてていた。
聖王は豊穣のため、殺されていたんです。
ところが身代わりを立てるようになって、その身代わりに紫の衣を着せ つまり 権威の象徴が紫色で、(オウムもそうでしたよね) 王冠をかぶせ、女性たちと交わらせ、後に紫の衣を剥ぎ、天と地の間に吊るし、 (つまり 十字架に貼り付けるってわけですね。)鞭討ち槍で刺していたんです。
で、その血が大地に流れ、生命 つまり 再び生命が大地から芽吹き豊穣をもたらす (つまり 再生する)とされていた。

この時 その十字架にかけられた者が涙を流せば翌年豊穣になると信じられており、その者の血が大地に流れ、地上に消えた食べ物が再生すると考えられていた。

つまりイエスの磔刑となる話の原型は異教の儀式だったんです。
これがラテン十字架の形。


で、Τ型十字架ってのもありまして、これが古代ローマの処刑道具と同じ形。

で、その当時、処刑されるものは、Τ型十字架を背負って歩かされてはいなかった。
横木だけだったようです。


十字架に人間を乗せてそれを拝むというのは、もともとキリスト教より以前にあった異教の呪術だったわけです。

では、何故キリスト教は異教の呪術を自分達の崇拝のシンボルとして活用するようになったのか。

どうしてでしょうね。

キリスト教は拡大とともに、他の宗教も吸収していったんですね。
例えば救世主ミトラの誕生日は12月25日とされていたのですね。
これには理由があり、その当時 一年で一番太陽が短いのが冬至のその日だったから。
そこから再び長くなる つまり 太陽の復活って概念があり、、太陽神ミトラの誕生日は冬至の12月25日となっていた。
それをキリスト教がやはり再生の概念をイエスにしたときに、イエスの誕生は12月25日としたようなんです。

聖書を読む限り 主人公イエスの誕生は冬じゃないと誰でもわかるのですが、、、
異教のその概念を借用したためイエスの誕生日は12月25日となったわけです。
ただし、信者の人はイエスの誕生日だという認識はないそうです。
その日にイエスが誕生したことをお祝いしているだけだそうです。
じゃあ 1月1日でも3月19日でも、一番聖なる月の9月でもよかったんじゃないか って思うんですけどね。


冬に設定しているのは、異教の概念を取り入れてから。

こうやって あっちこっちの概念をくっつけてイエスという崇拝対象の形を作っていったわけです。

教父がかんかんになって怒ったからには、恐らくその教父が生きていた時代、十字架刑になったというそれらのストーリーはまだ作成されていなかったのではないかと推測されます。

異教を取り入れた際に、異教の身代わりに生贄になる聖王の話を取り込んだため、イエスは鞭を打たれ十字架刑になったって話を作ったのだと思います。

でも福音書は1世紀頃できたと言われているじゃないか。
基本はそうでしょうけど、加筆をしていたし、別のところに書かれたであろう文節を、違うところに挿入したりした形跡があるようなんですね。



というわけで、キリスト教の崇拝対象とユダヤ教の崇拝対象は違う と前回言いましたが、こういう意味もあって違う って言ったわけです。
キリスト教が崇拝したもの、なんでしょうね。
メルクリウス(メリークリスマス) かな? マーキュリーのこと。 つまりヘルメス。
で、ヘルメスの杖。
  ↓
http://pro.tok2.com/~bymn/karakusa/egypt/hermes. …

タウ十字架。
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問題点を次のように特定されました。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
自分が疑問だったのは、そのシンボルになぜ自分たちのリーダー的存在?の死体をくっつけてるんだ?ってことです。
(実際には存在しませんが)仏教の方が首から即身仏のミイラを型とった首飾りをしてるのと同じなんじゃないか?と。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
信仰者が特定の集団をつくる宗教の立ち場にはいない者ですが キリスト者として考えた場合 磔刑によるイエスの死は 象徴となりうるとは思います。死体を強調してはいないでしょうが 《人間としての死を死んだ》ということは キリスト・イエスの存在を象徴するものと言っていいし 言うべきだと思います。

福音書記者ルカによれば イエスが あるとき弟子たちに 《あなたがたは わたしを何者だと言うのか》と問うと 《神からのメシアです》との答えがありました。そこで

   イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて
  次のように言われた。
   ――わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字
   架を背負って、わたしに従いなさい。
  (ルカ 9:18-27〔=文脈として〕)

このようであれば キリスト者の存在は 十字架と深くかかわっていると思います。
 あるいはさらに マタイによれば イエスが人びとに声をかけるその表現として

   ――疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさ
    い。休ませてあげよう。
     わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたし
    に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
     わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
   (マタイ11:25-30)

と言っているように 《軛や荷》ということばが使われていますので やはり十字架上の受難は 入り口でもあれば 途中の過程でもあり また 最終の結論(つまり復活)につうじる内容を持っているようです。

わざわざなぜ死体を持ってくるのかと問うなら たしかにおっしゃるとおりで もう反論はありません。

さらにそれが形ある像であるかどうかを超えて やはり十字架の意味を捉えておくのがよいと思うのですが。《人間としての死を死んだ》ということです。

もしイエスが 《神からのメシア(=キリスト)》であって 神であるなら そして その神の力によって 十字架上で何らかの奇蹟を起こしたとするなら そのときには あぁ やっぱり神だったのか 神なら何でも出来るわけだよと思って もうそれで おしまいとなります。
 この世において多少の人間の努力をするだけでは その目的を達成することなど出来るわけがないと思ってしまいがちになります。

ですが もしイエスが キリストではなく神ではなかったとしたなら おそらく何の罪もないのに この十字架にかけられるという受難を引き受け 生前には 死んだあと三日で復活すると大法螺を吹いていたとしても そんなこたぁ どうでもよい ちょっと人並み外れた力の持ち主だったってことだけだよ / あるいは やっぱり大法螺だったじゃないか ただの噂だよ 人間にしては広告宣伝がうまいが それだけのことだよということで終わってしまうでしょう。

ところが 人びとは ふつうの人間イエスであったし 同時に 完全なる神であったと うわさすることになったのでした。すべては 《人間としての死を 十字架上に 死んだ》からです。この井戸端会議は 現代・現在にまで続いているようです。
 だとすれば やはり 十字架が欠かせない象徴になるでしょう。

ちなみに かれの《軛は負いやすく 荷は軽》かったのですが 荷がいつまでも 二十年三十年と長く尾を曳くしろものだったのでした わたしの場合。
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No.4です。



他の人への補足を見て
私の回答はだらだら違うことを書きすぎたなぁ
と思ったので改めて。

ざっと
救世主を磔にしたものを拝む神経が分からない。
もっと神様っぽいものにしたらどうだろう。
だってどうも見ても残酷だよ。

という感じでよろしければ以下↓

no.4にもちょっと書いたのですが

贖罪の羊。贖い。犠牲。受難。
わかりやすい話だと、映画のパッション。
あれもなんだって拷問される様を延々と見せつけれらるのか。

それは、やっぱり「贖罪」なんです。

罪を贖う。罪を(代りのものによって)償う。神様ごめんなさい。

きちんと論じようとするとユダヤ教の祭儀の話までする
必要があるのですが、とりあえず。

キリストが全人類の罪を背負って、自分を犠牲の羊として
屠られた。その紛れも無い、証だからです。
だから、キリストは受難の姿でなくてはなりません。

残酷…なのは仕方ないとこといえば仕方ないところです。
動物を殺して神に捧げていたものを、今度は救世主が…って
ヒドイ。それはそうなのですが…。

どんなに「愛くるしいイエス様」を描いたところで
いつかは戻ってこなければならない
根本的に譲れないところであり、宗教としての特色。
といってしまえばそれまでですが。

そして、それが嫌だ。その暗くて残酷な雰囲気が。
と言う人も大勢います。キリスト教圏にも。
それについては私はなんとも言うべき立場ではないです。
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慣例的なものだと思います


キリスト以前にもT十字(ティージュージ)という
アルファベットのT型の十字架のようなものがあったそうです
例えばお祓いで塩をまきますがなんで塩なのというと
慣例であって特に理由はないはずです
キリスト以前にもシンボルとして十字架を使っていて
キリスト以後も慣れで使ったという事だと思います

この回答への補足

シンボルが十字架でもハーケンクロイツでも三角でも
それは、宗教それぞれの思いがあってのことでしょうから
構わないんです。
自分が疑問だったのは、そのシンボルになぜ自分たちのリーダー的存在?の死体をくっつけてるんだ?ってことです。
(実際には存在しませんが)仏教の方が首から即身仏のミイラを型とった首飾りをしてるのと同じなんじゃないか?と。

補足日時:2007/12/27 08:13
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十字架は、真を象徴しているのです。



十字架の横は時空間宇宙を表しています。そこに縦の精神、意識、気が直行して貫いているのです。交点がまさに人間であり現在であって、左右が過去と未来となります。そこに救世主を磔ることで確固たる象徴にしようとしているのです。

曼荼羅が包括的に表現しようとしているのに対して、十字架は象徴的に表現しようとしているのではないでしょうか。どちらも同じことを表現していると思います。

この回答への補足

十字架そのものの意味よりも
その十字架に救世主の安らかな状態を描くならば
そんなに疑問には思いませんでした。
なぜ、死んだ状態の救世主を象徴にしたのかが疑問ですね。

補足日時:2007/12/27 08:18
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十字架は処刑器具です。

ローマの。
(ユダヤの間では石を投げて殺しましたが。)

ルカ福音書から
「私の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを救うのである」9章23節

マタイにもマルコにもあるので、かなり有名なイエスのセリフだったのではないでしょうか。

すると、何せ本人が言ってるんだし。ということにもなります。

キリスト教が復活や永遠の生命をあれこれ強調するのに
処刑器具である十字架を看板に掲げるというのは不可解かも知れませんが、

復活するためには死ぬ必要もあるわけです。
復活ばかりが強調されて、死ぬ必要があるのが、よく見をとされますが…。

ま、アダムの子として生まれてるから、後は
イエスによって生きるだけ…なんて話もありますが。

わざわざ磔になって殺されたイエスの立場を忘れてはならないかな、

ちなみになんでわざわざ死んだかというと
贖罪の羊です。神と人間の和解の捧げ者に
自らをそうしてささげたからです。

神がもう、焼き尽くすささげものは嫌だと随分前から
拒否していて、いくら人間が祭司を行っても無駄だったわけです。

それを神の子イエスが間を取り持った、と。

ちなみに死んだ人間が生き返るわけ無いじゃん。
と思えば普通の感性なので。大丈夫です。

じゃあ、死とか罪とか復活とかなんなのさ。
というので、当然、話が分かれますが、それはそれで。

この回答への補足

キリストが磔での処刑で良かったですね・・・
もし他の方法だったら・・・と思うと・・・('A`)
象徴も変わっていたんでしょうかね?

補足日時:2007/12/27 08:29
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マリア像などをシンボルとしてしまうと、偶像崇拝になってしまいかねません。


ただでさえ十字架のキリスト像が偶像かどうかで大問題になった経緯(偶像崇拝問題)がありますから。
基本的に「十字架は、神のいる方向を示すマークでしかなく、十字架を拝んでいるのではない」というのが基本的な見解になっています。
では、なぜ十字架が神のいる方向を示すのかは、キリストが十字架で磔刑になり、神の国に行かれた事から、神のいる方向を示すマークとなったのではないかと思われます。

キリスト教において、信者最大の夢は、現世ではなく死後に神の国で生きる事にあります。
よって、磔刑にされたキリスト像もみるに耐えない物ではなく、神の国への導きに見えたのでしょう。
特にローマ帝国内で迫害が厳しかったころでは、自分達の境遇と重ね合わせ、厳しい迫害にあっても信仰を捨てない根拠となったのだと思います。
キリスト教が迫害される歴史が無ければ、十字架をシンボルとする事も無かったでしょう。

過去においては、十字架をシンボルとしない教派もありました。
ブルガリアやセルビアに一時期広がったボゴミール派は、十字架を見つけると破壊してゆきました。

この回答への補足

偶像崇拝
この言葉の意味を調べ「あぁ、なるほど」と思いました。
十字架のキリスト像も微妙にアウトのような気もしないではありますが・・・

補足日時:2007/12/27 08:23
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 #1さんがおっしゃったように、磔になったキリストの像は『贖罪』の象徴で、こんな目に遭ってまでしてわたしたちの罪を肩代わりしてくれたイエスに対する感謝の気持ちを忘れないようにね、ということです。


 で、イエスの磔刑像に象徴される『法』と『裁き』の宗教としてのキリスト教だけでは息苦しいので、キリスト教にはマリア信仰という『愛』と『赦し』部門があったりするのです。
 この構造は、ムスリムのムハンマド/ファティマの関係にも共通しているようでもあります。

 また、あなたがマリア信仰のほうに親和的なのは、日本仏教の観音菩薩とマリアの持つ役割が似通っているためではないかと。
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この回答へのお礼

>感謝の気持ちを忘れないように・・・
>イエスの磔刑像に象徴される『法』と『裁き』
>マリア信仰という『愛』と『赦し』
んー。なるほど
おおよその流れは理解できました。

でも個人的には、血を流し苦しんでいるキリストさんが
見るに耐えないんですけどね。

お礼日時:2007/12/27 08:12

キリスト教が十字架をシンボルにしているのは、宗教の歴史に関係しています。


諸説言われていることがありますので、私が共感できたものを上げておきます。
キリストは磔にされ一度死ぬことにより、地上の人々の『罪』を背負ってこれ浄化したことになっています。
この死はキリスト復活に繋がるための死であり、終わりだけでなくキリストが更に神聖なものとなるための『始まり』を意味しています。
そういった理由から、キリストのある種の『始まりの死(終わり)』に関係の深い十字架をシンボルとしたと言われています。

以上、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

>キリストは磔にされ一度死ぬことにより、地上の人々の『罪』を背負ってこれ浄化したことになっています

この出来事を忘れない為に・・・

という思いがあるのでしょうか。
少しだけ理解できた気がします。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/27 07:57

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