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凄く毎日がんばって生きていて、みんなに優しくて悪口とか全然言わない人が病魔に襲われて死んでしまう人がいる中、凶悪犯とかのさばって生きてる人もいる…
良い事も悪い事も結局どんな形であれ、いつしか自分に返ってくるって言いますが、これが結果?みたいな時があります。
理不尽な世の中なのに、生死の判別でさえ理不尽なのはどうしてなのかって凄く疑問に思うのですが…

生きてるっていう意味も知りたいです。

解答頂けたら幸いです。
よろしくお願いします。

A 回答 (17件中1~10件)

すべての物事は因果関係があります。


自分が悪いことをすれば、自分が生きている間は罰を受けずに済んだとしても、子孫などが代わりに罰を受けるようになります。

生きる意味や、何のために生きているのかといった「人生の根本問題」は、
宇宙の第一原因者たる神について知らなければ解くことができません。
本来人間は、神が人間に与えた祝福、すなわち喜びを実現するために生まれてきます。
しかし、人間始祖の「堕落」によって、人々は、神が分からなくなり、
人生の意味も価値も分からなくなってしまったのです。
生きることに苦痛を感じている方への、天からの救いのメッセージです。
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「哲学を勉強することは何の役に立つのか。

もし論理学の深遠な問題などについてもっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら哲学なんて無意味じゃないか。」ウィトゲンシュタインhttp://www.mita.lib.keio.ac.jp/guide/publication …

「われ、こころみに汝のために妄言せん」荘子http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0726.html

徒然草第七段
http://www.tsurezuregusa.com/contents/7.html

「われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。」セネカhttp://www.qmss.jp/interss/03/materials/senvita. …

「災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」良寛http://www.enekan.jp/archives/2004/02/post_19.html

「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」孔子http://www.great-saying.com/w-rongo17.html

「ひとは『われはこれこれのものである』と考えるそのとおりのものとなる。それと異なったものになることは、あり得ない」ブッダhttp://www.great-saying.com/w-buddha29.html

「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない」ブッダhttp://www.great-saying.com/w-buddha13.html

「孔子は十五歳ほどの年少で学問の道に志を立てたところが聖人なのである。いろいろと修行を積むことによって聖人になられたのではない。」葉隠http://www.great-saying.com/w-hagakure07.html

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」歎異抄http://www.great-saying.com/w-shinran02.html

「あなたが生まれた時は、まわりの人は笑って、あながた泣いたでしょう。だからあなたが死ぬ時は、あなたが笑って、まわりの人が泣くような人生を送りなさい。」ネイティブアメリカンの教え
http://sakamoto.cside.com/sakamoto2006/ikiru.htm

まとめ
人生の長さは物理的な長さではなく、よりよく生きようとしたそのときその時の態度であると思います。
死が理不尽に訪れるかの様に思えることはいたし方ないと考えます。生まれる前のこと、死後のことではなく、あくまでも現時点で、与えられた環境の中で最善を尽くそうと努力することが重要であると考えます。
他人と比べることは有益ではありません。同じ事をするのに、人より二倍時間がかかることもあります。どうしてと悩むより、仕事を始めなければ達成できません。
しかし一方、他人にも理解してもらえるよう、温和な言葉や態度で接するようにすれば、努力に対する協力も得られやすいと考えます。

最後に
「願わくは花のもとにて春死なん その如月の望月のころ」西行http://www.otokuni-area.com/2005/01/post_79.html
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「生きていること」と「死んでいること」とは、単に我々の本質の二面性を表しているもので、この二つは別に相対峙しているものではないのです。

このことを別の言い方をすれば、ちょうど「起きている」と「寝ている」と言ってもいいかも知れません。実は我々の本質、ここでは「生命」と表現しますが、その生命というものは、永遠に存在するものであり、生まれたから出現し、死んだから無に帰すというものでは決してないのです。たとえば、水の本質はH2Oですが、時には水や氷のように目に見える形態をとることもあるし、水蒸気のような気体となって目に見えない状態にもなりますが、その本質であるH2Oは決して無くなることなく存在し続けるのです。つまり、縁するものによっていろいろと形態は変われども、その本質は変わらずに存在するように、我々の生命も時には「生きている(目に見える)」状態もあれば「死んでいる(目に見えない)」状態もあるのです。ですから、死んだからといって無くなるわけでなく、状態が変化しただけで、あなた自身の本質である生命は存続するのです。そして、何らかの縁によって又「生きている」状態、つまり、生まれ出ることになるのです。この生死の繰り返しは、解りやすく捉えやすい表現をすれば、はじめの方にも言いましたが、いわば生命の「寝起き」みたいなものかと思われます。
 それで結局、本質は永遠に続くために自身が過去に為した善悪の行為は、その生命にいわゆる業(ごう)として蓄えられ、いつかその善悪の報いの結果を受けなければならないのです。つまり、自分でまいた種は必ず善きにしろ、悪しきにしろ自分で刈り取らなくてはならないのです。たとえ現時点の人生が清廉潔白であっても、前世にどのような行為をしていたかは分からないので、仏法では次のように言っています。「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ」と。つまり、自身の今の現状を見れば、自分が過去にどのような行為をしていたかが、大体は分かるでしょう。というもので、確かに、たとえば同じ生まれ出ても、戦争の国もあれば平和の国もあるし、また金持ちの家や貧乏の家、病気持ちか健常か等々、様々な差別があり、それらは何らかの報いとしての結果と見て間違いないでしょう。このように我々の本質である生命は、自身が蓄えた善悪の業によって、幸不幸の境涯を送ってゆくのです。
早い話が、今の時点で為す善悪の行為は、未来の自分にしていると思えばよいのです。それさえ分かれば、どうすればよいかは自ずと分かるはずです。
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貴方の考えと、私の考えが同じものだとしたら「生きている事の実感を感じたい、と言う事と死を恐れないでこの人生を有意義にたくましく生きてゆくには、どうしたらよいのだろうか?」と言う事かと思います。

この線で回答します。

人間はどうして、生きていることを素直に認められないのか。今自分が息をして、食べて、水を飲んで、歩いていても、「自分が生きている事」の実感が伴わない時があります。又どんなに親しい人と一緒の時でも、愛しい人と一緒の時でも孤独を感じてしまう事があります。

何も問題が無い時でもつまらないと思えることを問題にして、悩み、苦しむときがあります。乗り越えた時には分かるのですが、相当時間が掛かる時があります。

その事を説明します。---人間の心には二つの心が在ります。その事が悩み、苦しみの元になっています。又存在感の喪失の元になっています。一つは説明の必要が無いと思います、今の意識です。もう一つは人間の「無意識」の中に在る意識ですお釈迦様が「仏性」と言ったものです。人間の心は、気が付く人が少ないのですが、本当は「二つ在ります」

深く悩んでいる時には分かりやすいと思います。考えが二つあってその考えの違いとその違いの差、すなわち、矛盾の大きさと言ったら分かりやすいかもしれません。その矛盾が人間を悩ませています。

悩みとは、自分の中の二つの心の矛盾なのです。心が二つになる前の心の事をキリスト教では「天国に一番近いのは幼子」と言う風に言います。仏教でも子供の心でと言います。心が二つになる前の心。

この事を説明します。人間の脳が完成に近くなる頃、いわゆる思春期の頃から悩みが始まる場合が多いと思いますが、中には人生における問題によって、年とは関係なしに生まれることはあるかとは思いますが。

昔から宗教家が無常に気が付いて出家する年代は14から15歳位が多いような気がします。この事が関係します。

心が二つになって、思い悩む事を「二元論」と云ってそれを超えないと悩みが消えないと言います。

人間は「二元論」に落ちてしまうのは仕方が無い事なのです。脳の構造が「二元論」で出来ているからです。

「分離脳」の研究でノーベル賞を授与された、アメリカの脳生理学者でスペリー博士が1,981年頃発表した研究によると。「簡単にその研究の内容を書いてみます--当時テンカンの治療のために左脳と右脳を繫いでいる脳梁を切断するというと治癒が行われていました。現在では弊害も有って行われていないようですが。その分離された脳を色々な実験によって調べた結果です。」

その結論は
1--「左脳に一つの人格が有る。右脳に一つの人格が有る」
2--「左脳の役割と右脳の役割は違う。言い方を替えれば左脳のやる事は右脳には出来ないと言うことです。その逆もそうです。」

その事を分かりやすく説明するために「禅問答」を取り上げます。この問答は今の意識では解けない問題です。左脳の役割である論理的、理知的、早い話が「分別」と言う事ですが。左脳の分別する能力では不可能なのです。そのために「分別を捨てなさい。」と言います。

ではどうすれば解けるのかと言いますと、命掛けで「禅問答」或いは本人の悩みでも良いのですが、取り組む事です。命掛けで取り組まない限りは解けないのです。それで禅の方面の人たちは「生死の問題」が解決したかどうか?と言う言い方をします。

はからいが尽きた事を、「我」が死ぬ「大死一番」と言います。その時に右脳「無意識の中の意識」「仏性」が出てきてその問題を解いてくれます。その時二つの意識が出会う事になります。その事を「見性」したと言います。悟りが開いたとも云います。その時心の矛盾が解消されます。その矛盾の無い心の事を「道」と云っても「幼子の心」と云ってもいいかも知れません。仏教では「涅槃」と言う言葉もあります。

その時には自分が抱えていた問題が全て解けます。左脳が主導権を握っている世界は「人間苦、二元論」の世界です。辛いです、不安です、孤独です。

右脳が主導権を握っている世界は、心が他の人達と繋がっているのが分かります。命は愛なんだという事も分かります。そしていつも「神」と共に生きていて、神の思し召しのままにということが分かります。
生きてよし、死ぬ時もよしという心になります。
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言葉遣いからお若い方と推測します。


私も昔、そんな思いに駆られたことがあります。おそらくあなたは正義感が強く、よのなかのオトナたちの「間違った」ことが許せなかったり、社会的な「弱者」たちが法の保護もなくて苦しんだりすることに目を留めて、何かして上げられないものかと考えるたちなのではないでしょうか。

その問題に入る前に直接とりあえず「答える」必要があると思います。
「生きている意味」というには二つあります。一つは単なる生物としての生死に関わることです。
もう一つは人間が「社会的動物」であることから生まれる「意味」です。他者との関係の中で持つ意味です。
こうしたことを考えた青少年のころ読んだ本を思い出します。
実存主義の一人といわれるカミュという作家は、『異邦人』などの小説で、<不条理>という言葉を使いました。そのカミュも交通事故で死にます。交通事故もとんでもない不条理です。
翻訳で言うと、ヘッセの『デミアン』は、当時としては面白く読みました。キリスト教についてあまり知らないころだったのですが、異教的なところに興味を覚えて、その後勉強一般が面白くなりました。
日本のものではこれも古いものですが、今も手元においているのは、
吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』です。岩波文庫版には丸山真男があとがきで解説しているのでこれも興味深い文章です。
もっとも丸山真男は大学生になってこの本を改めて読むことがあったときにてにしたのですが。
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<<死ぬことの意味、生きてることの意味>>



意味はないと思います。

<<良い事も悪い事も結局どんな形であれ、いつしか自分に返ってくるって言いますが、これが結果?みたいな時があります。>>

世なのかは思いどうりにいかないものですね。

他人の心の仕組みやその人に死後について理解できるわけではないので、その表面的な結果で、その人の心の中で善いことなのか悪いことなのか…私には判断しかねます。

物質的に恵まれていてもココロに苦しみを抱えていれば不幸でしょうし、病気や貧困にさらされていてもこことが幸せならば幸福でしょう。

大事なのはココロですからね。

<<生きてるっていう意味も知りたいです>>

憶測するに、生き甲斐ということも含んでいると思います。

生きてることに意味はなくても、「他者の役に立っている」「認められている」ここに生き甲斐が生まれるんだと思います。

慈悲の心によって生き甲斐が生まれるんだと思います。

感情的にいるより慈悲の心でいたほうが自分も他人も幸せを感じるでしょうしね。

個人に出来ることはここら辺にあるのではないかと思います。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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生きるという事は苦行です



しかし、自殺すると生前より厳しい業が課せられます

まあ、なんとなくでも良いので生きていてください
寝る間を惜しんでいき急いでも、のんびりでも、人間の歩みに大差はありません
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はっきり言って


生きていることにも死ぬことにも意味は無いです。
それは誰かから与えられた、客観的な外からのものとして。

いろんな人がいろんな事を言います。

それなのに、生きてる意味が一つしかなかったら
あなたそれを信じます?そんなの人を支配するだけでしょう。

それに人は唯物的ではないといえます。
概念的な文字を理解している時点で。

好きなように意味を作り上げていけば良いと思います。
それをする能力と自由を人は手にしたのですから。

万象に意味をもたらすのは、あなた自身です。
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生きている「意味」なんて無いのだ思います。


そもそも、自分が「生きる」と意識して、この世に誕生したのか、どうかさえも分りませんよね?
ある宗教では前世だとか、誕生した意味などを示しているようですが
無宗教の私は、「無意識」から「意識のある状態」が誕生だと考えてます。
ですから、毎晩のように眠ることで「無意識」になれば
死んだも同然だと考えても不思議はありません。
いや、生物活動は続いているので「生きている」のだと人は言うでしょう。
実際に死んでいるとは思えませんが、私の意識がない(意識を感じない)のであれば
それは死んでいるのと同じではありませんか?
そのまま、目が覚めなければ(意識がもどらなけらば)
死んでいる訳ではないけれど、自分が生まれる前の状態
つまり誕生していない状態と同じですよね?
私は、死ぬまで、生まれる前と同じ無意識状態と意識状態を繰り返す事でしょう。
それが人生だと思います。
私の生きる意味(人生の意味)は、私が死ぬ時に分るだろうと考えてます。
あるいは、私でない誰かが、私の人生が何であったのかを感じてくれるでしょう。
少なくとも、自分が生きている間は、生きる意味(人生の意味)など考えても仕方なく
生きることに精一杯で、意味を考えている暇など無いのかも知れません。
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生や死は、単なる生物学的な現象であって


そこに特別な意味を見出そうとするのは
多分、私たちの脳の仕組みがそうさせるのだと思います。
つまり「生きることの意味」「死ぬことの意味」は
脳内で組み立てられるイメージであり
私は、生死それ自体は意味を持たないと考えます。

つまり
> 良い事も悪い事も結局どんな形であれ、いつしか自分に返ってくる
と信じているいるから、そういう前提で現象を見ているから
これが結果?みたいな感想や
生死の判別が理不尽であることに疑問を持つのではないでしょうか?
むしろ
> 理不尽な世の中
という前提に立つのであれば、生死の判別だって例外ではないと
考える方が無理がないように感じます。

ANo.5さんが仰っているように
> 生死の判別でさえ理不尽なのはどうしてなのか
というのもある種の煩悩・執着であり
悪い例えをすれば「良く生きたので、良い死を迎えさせて下さい」というのは
発想としては「ギブ・アンド・テイク」であり
行為としては「おねだり」だと捉える人もいます。
(例えば浄土真宗本願寺派如来寺住職:釈徹宗氏など)

皮肉を言ったり天邪鬼をやっていると誤解しないでください。
私は仏教でいうところの「縁起の法」を紹介しようと思っているのです。
仏陀は「いつしか自分に返ってくる」といった思い込みが
謝った認識作用を生じさせ、それが最終的に「憂・悲・苦・悩・絶望」を生むと説きました。

仏陀が正しい、と言いたいわけではなく
そのような、違う見方もたくさんありますので
納得する考えをお選び頂ければ幸いと存じます。
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