こんにちは!

南京の虐殺について、最近気になった事があります。
歴史のカテゴリーをさがしたのですが、社会になかったので、こちらで質問させていただきました。
私自身、中国の上海で何年か学生をしていた身分ですので、中国の歴史について興味があるのですが、南京事件についてはだいぶ意見が分かれるようですね。南京事件の是非はさておき、

南京事件の人数に問題がある理由のひとつに当時の人口よりも殺された人の数の方が多いという矛盾点をよく聞きますが、これはどういうことなのでしょうか?

現在の南京の人口は700万人ほどらしいです。中国最大都市の上海で1800万人ですので、南京の700万は妥当なところだと思います。そしてWikipediaによると1949年当時の人口は250万人。下記URL参照:
ニュースからです。私にも人数が正しいかどうかは分かりませんが、当時の南京には100万人弱の人が住んでいました。ので、被害人数の方が多いという事はありえないのではないでしょうか。

現在の南京の人口は約770万人です。1949年には250万人ほどいました。それが1945年には20万人もいなかったというのはありえないのではないでしょうか?(下記のWikipediaを参照)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC% …

この数から考えて、虐殺が起こったと言われる1940年代半ばに20万人以下だったというのはありえないのではないかと思うのです。

なぜ、多くの人の間で当時の南京の人口は20万人以下だったと言われるのでしょうか?なにか別のデータがあるのでしょうか?

宜しくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

生物兵器・炭素菌で・・・追伸です・・


つまり・・世界に生物兵器を使って、
色んな流行病(トリインフルエンザ?狂牛病?AIDSと同時並列的に流行ったC型肝炎・・当時すぐに薬関係者らは無料でディスポの注射器、針を配布している。。。
つまり・・・日本では、それほどC型肝炎は増大していないのでは?!?
肝炎訴訟は、他国で例、中国針などで感染した外国人が需給訴訟してる?!?
日本の年金の資金を食いつぶしてる?!?)
時流の病(花粉症?)などなど・・・
新薬開発し、高額で世界に売る

さて・・・
ユダヤ政商の黒幕工作員?次期知事か市長かで出馬しそうな気がするのが・・
西川キヨシ氏・・高知県高知市生
彼は
非公認国家?シーランド公国の伯爵・西川きよし氏・・・

単なるオチョケにしては
政治的活動色が濃い・・


1941:IWW~1918年
   ユダヤ人混血で経済逼迫してるドイツから
   ユダヤ人の移民計画を立て
   ロスチャイルドの部下・ウォーバーグの献金で結党したヒットラー、
   英軍のマスタードガスで一時的に失明し、
   化学兵器と生物兵器には反対し、
   開発の中止命令を出している・・?!?
   (世界史の書替えシナリオで私たちは過去を見て、
   現存している本当の悪魔を私たちは神のように信じ込んで、
   彼らの都合の良い烏合の衆として利用され
   自分たちが本当は協力し合うべき相手と、
   互いに敵意を燃やし、
   争ってはいないだろうか?!?再調査!再調査!再検討!?が必要??)

1941年(S16):英国国防省、グリュナード島(エディンバラの弁護士の私有地を£500で購入)で炭疽菌散布実験
      ポートンダウンにある国防省微生物研究所の所属(X基地)で立ち入り禁止となり
      (著書「エマージングウイルスの世紀」p. 304に記載)

軍獣防疫廠から「満州第100部隊」と改称)
S7年の追記は省略。
さらに、この後に、炭疽菌の製法を簡略に記しているが、これも省略。
当時から70年(H10年以降)以上経った現在、
牛炭疽菌は生物兵器の代表的存在で、米軍もソ連軍も鋭意研究してきた
1942年:英軍が北海の沖合約10kmの地点に海上要塞を建設:
第1回英国国防省微生物研究所グリュナード島炭疽菌散布実験
1945年:終戦で英軍が海上要塞を放棄
1967年9/2:ロイ・ベイツ氏、
 (元英軍少尉:海賊放送局運営)
 海上要塞を占拠
 シーランド公国独立宣言
1978年:独投資家のアッヘンバッハを首相に任命し
カジノを作ろうとしたが、
ロイ・ベーツ公の息子・マイケル皇太子を人質に取られてクーデターを起こされ、
公国から追放される
20人の武装友人を率いて
ヘリコプターで要塞を急襲し反乱を鎮圧。
アッヘンバッハたちは
蘭へ追放され、
シーランド公国から「反逆罪」として7万5000マルクの罰金支払いを命じられた。
この事件について
西独政府は
英政府に善処を求めたが、
68年判決を理由に「管轄外」だと無視し
西独政府はシーランド公国へ外交官を派遣し交渉すると
ロイ・ベーツ公は「わが国が西ドイツ政府によって承認された」と喜んで、罰金支払い命令を取り消した
1976:ルクセンブルグでシーランド$のコイン製作していた3人が「偽造貨幣製造」容疑で逮捕されたが
ルクセンブルグ警察が
ロンドン警視庁に問い合わせたが、
シーランド公国は
英の管轄外と言われ、
「英の偽コイン」であることが立件できず起訴を断念。
シーランド公国はこの1件も「我が国が独立国家である証拠」だとしている
この後、
1989年:「憲法改正」を行い、公国としての国体は維持するものの、
国家元首は空位で
枢密院議長(アッヘンバッハ)が元首代行と決め
西独で亡命政府を樹立。
公用語・・・
シーランド公国:英語
亡命政府:独・英
切手(ベルギー宛の郵便だけには使えるらしい)や
コイン(米$と等価のシーランド・$)を発行し
106人に市民権を与えパスポート販売
1997年:発行したパスポートの無効を宣言

ロイ・ベーツ公の息子のマイケルが跡を継ぎ、
タックスヘブンに加え
インターネットのデータへブン、
(インターネットの完全規制撤廃)国として売り出そうとした。
1933年のモンテビデオ条約によれば、
国際法で認められるべき国家の要件は、
(1)国民、(2)領土、(3)政府、(4)外交能力(1978年)の4つとされている。
(西独政府は国家として認めて交渉したわけではないと主張)。
1982年:国連の海洋法では、
島について「自然に形成された陸地」と定義しているので、
人工島は領土として認められず、人工島だけを支配するシーランド公国は、領土を持たないから国家とは認められないということになる。

2006年6/23:発電機から火災発生し廃墟と化し、
住民(留守番をしていた守備兵1名)は英救助ヘリに助けられて病院へ運ばれた。
その後、シーランド公国を「借用」していたインターネットの会社により復旧されたが、
2007年1月:マイケル皇太子スペインの不動産会社を通じて、シーランド公国売却発表。
「シーランド公国」という国名は変更してはならず、購入者はこれまでの法や国体を維持することという条件付き。となると、ベーツ家が今後もシーランド公国の王家を続けることになるわけで、国を売ると言うよりテナント募集といった感じ?

値段・・・6500万ポンド(約149億円)だの、7億5000万ユーロ(約1175億円)だの、50億4000万ポンド(約1兆1600億円)だのと様々な値段が言われていて、果たして買い手は見つかるのか?それとこれを機に亡命政府が巻き返しを図る???


東条英機内閣:翼賛選挙で、岸信介政界入。
ミッドウェー海戦
  12月 米、原子核分裂成功
1943年:第2回英国国防省微生物研究所グリュナード島炭疽菌散布実験
   ヒツジ(人間と同体重、炭疽菌に高い感受性)
   炭疽菌を詰めた爆弾を地上4フィートで爆発させ、ヒツジは死亡し実験成功
   夏:ポートンダウンの科学者たちは島の枯れ草に火をつけ島を焼いたが、
   清浄化に失敗
    8月:米国がメリーランド州フレデリックの空軍の滑走路に
   キャンプ・デトリックが設置され、
   炭疽菌の大量培養
      ↓
   フォートデトリック生物兵器開発
    ~45年12月の間に、17種類の動物使用
   (ハツカネズミ60万匹、モルモット3万匹、猿166匹←人間対象?)

1924(T13)年:石井四郎(のち731部隊長)京大医学部卒直後、
       四国で当時、なぞの死病(後に日本脳炎と判明)に遭遇(3万5000人、死)
       がきっかけで、
  1928(S3)年から石井四郎、世界一周をし、
      細菌兵器のプログラムがないマサチュウセッツ工科大学にまで滞在
  1930年:ロンドン軍縮と金解禁⇒農業の恐慌⇒一般の恐慌へ発展
  1933年:米陸軍軍医大佐レオン・フォックス著『細菌戦争』出版
      (米では、フォートデトリック生物兵器研究が作られる)
      直後、日本語訳され、731部隊で大いに利用される
  1939年:731部隊の準備のために、
       内藤良一(ミドリ十字の創立者)、ロックフェラー研究所を訪ね
       炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者・コッホ(1910年5/27没、英王IIジョージが1737年たてたゲッティンゲン大学研究者)の研究を引き継いで、
       野口英世(1928(S3)年5/21没)が研究していた
       黄熱ウイルスのサンプル入手が結局は出来なかった?と記述。
  1941年:英国国防省、グリュナード島(エディンバラの弁護士の私有地を£500で購入)で炭疽菌散布実験
      ポートンダウンにある国防省微生物研究所の所属(X基地)で立ち入り禁止となり
      (著書「エマージングウイルスの世紀」p. 304に記載)
  1942年:第1回英国国防省微生物研究所グリュナード島炭疽菌散布実験
  1943年:第2回英国国防省微生物研究所グリュナード島炭疽菌散布実験
        ヒツジ(人間と同体重、炭疽菌に高い感受性)
        炭疽菌を詰めた爆弾を地上4フィートで爆発させ、ヒツジは死亡し実験成功
       夏:ポートンダウンの科学者たちは島の枯れ草に火をつけ島を焼いたが、
         清浄化に失敗
       8月:米国がメリーランド州フレデリックの空軍の滑走路に
         キャンプ・デトリックが設置され、
         炭疽菌の大量培養
          ↓
         フォートデトリック生物兵器開発
         ~45年12月の間に、17種類の動物使用
        (ハツカネズミ60万匹、モルモット3万匹、猿166匹←人間対象?)
    1945年:IIWW終戦後、英国政府は元のオーナーに実験地の返還拒否され、
       島を清浄に戻せば、元の£500で買い戻すことを約束
       (結局!1986年:5%ホルマリンの大量散布後、
                翌年、再散布し、炭疽菌の芽胞が消滅し、
                   ヒツジ放牧確認の後、元の持ち主に返還)
   1949年:米フォートデトリック生物兵器、セラチア菌を
        ペンタゴンの建物の空調取り入れ口に散布する模擬実験、
        サンフランシスコ沿岸では硫化カドミウム亜鉛の粒子(紫外線で蛍
光)を散布実験
      ↓
      サンフランシスコ住民の1/80万人が
      5000個以上の粒子を吸い込んだと報告書
   1950:8-Ball(容量100万ℓの巨大な地球儀のような建物)が完成:
      野兎病菌を詰めた爆弾の最初の実験のあと、
      炭疽菌実験:アカゲザルだけで2000頭
      同年、ユタ州のダグウェイDugway実験場で
         第1回8-Ball生物兵器爆弾の野外実験
   1951年、ユタ州のダグウェイDugway実験場で
       第2回8-Ball生物兵器爆弾の野外実験
       ブルセラ菌爆弾が実戦さながらに
       B29から投下され3000匹のモルモットで効果確認
   1952年夏:アメリカは生物兵器での戦争準備が整う・・(対ソ、ベトナム等々)
        38種類の病原体を21種類の動物で確かめ、
        残るは人間となり・・・
        ボランティアは
        セブンスデイ・アドベンチスト派のキリスト教徒である兵士で
       金銭報償はなく、勤務地の選択がゆるされるだけで、
  1955年:セブンスデイ・アドベンチスト派のキリスト教徒である兵士は
       Q熱をダグウェイで散布されたのち、
       フォートデトリックのスラマーと呼ばれる検疫施設に隔離
        ↓
     発病はあったが、死亡者は出ず
  1956年、キャンプ・デトリック、恒久的な施設として、
      正式にフォートデトリックと命名。
      大統領命令により、即座に生物兵器攻撃態勢が整う
  1960年代:CIA支援で都市攻撃実験段階
  1965年:グレイハウンドバス・ターミナルと
       ワシントン・ナショナルエアポートで
       炭疽菌に類似の、しかし病原性は示さないBacillus globigiiによる
      模擬攻撃実験
  1966年6月:ニューヨークの地下鉄で5回実験
  1964年~:ホノルル南西800マイルのジョンソン環礁(米軍化学兵器部隊所属。200万ポンド≒100万kgのサリンガス貯蔵地)での
        海上攻撃実験、始まる
       アカゲザル(対人間を想定?)に
       野兎病菌と
       Q熱病原体散布が20回実験
  1968年:同様に、ホノルル南西800マイルのジョンソン環礁で 
      アカゲザル(対人間を想定?)に
      ブドウ球菌エンテロトキシンB散布実験し、
      とても効果的な結果をだしたが、
      1969年11月:のち、ウォーターゲート事件で角栄氏のロッキード事件と同じシナリオで、
         米政界から追放されるニクソン大統領は
         攻撃的生物兵器開発の中止を決定し、すべて終了させる・・!!
         (地球市民にとっての『英雄』ですが
         彼の部下閣僚はオール!?ロックフェラー資本系人脈が側近させられてる!!?
         クリントン大統領時のゴアのように!!)
         この両事件の発端は小委員会・・日本で言うと・・安倍氏の渡辺・二橋が企画した
         専門家委員会??
   資本主義の原則として、
   投資に対するリターンを最重要視するが・・
   実際!生物兵器は、ベトナムの枯葉剤ぐらいしか知られていない・・
   一般の実戦で使用されないまま、
   米軍はじめ資本主義国は、どこでそのリターンを収益してるのか?
   英米軍は、他の兵器は開発されれば必ず!
   マスタードガス、フォスゲン、さらに原爆と、
   実戦に使われてるが、
   生物兵器は一体、どこに使われてるのか?!?
   工作員にターゲット国の経済流通状況に関与する手段として?!?
   鳥インフルエンザ騒ぎなど、O15騒ぎなど、狂牛病騒ぎなど・・
   古くは・・英蘭人の長崎時代には狂犬病、欧州では黒死病、
   731部隊をのちに作る石井四郎氏が
   最初に四国の日本脳炎をきっかけにして、
   英国防省微生物研究所へ至っていることを忘れてはならない?!?
   
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陥落直前の南京に20万人いたという説は国際安全区委員会(委員長ラーベ)の文書をもとにしています。

しかし、国際安全区委員会のだれかが市民の数を数えたわけではありません。戦火が迫っているのに数えられるわけがありません。だいたい、これくらいだろう、という瀬踏みに過ぎません。当時、南京にいた中国人の間では40万人いた、という瀬踏みもありました。実際に数えた数字はないので、陥落前の数は慎重に判断しなければなりません。

それから、国際安全区委員会は「安全区に逃げ込んだ市民の数=南京城内にいる市民の数=南京市の市民の数」と考えていました。つまり、城外の市民はすべて、城内に逃げ込んだ、城内の市民はすべて安全区に逃げ込んだ、その数が20万人である、と考えていました。実際には城内の安全区以外の地区にも、城外にも市民はいたことがわかっています。
それでは、市民の数は実際にはどれくらいいたのかというと、南京爆撃開始前には約100万人、1937年11月末に南京城内に50余万人でした。その後、南京を脱出した市民も多数いましたが、その数はわかっていません。戦争を避けるには揚子江対岸に逃げるしかなかったのですが、船賃が高騰し、逃げられる市民はあまりいませんでした。残ったのは貧民ばかりでした。

大規模な虐殺が終了した3月中に戸口調査を行ったところ、26万人が南京市に残っていました。しかも、陥落以来、南京に戻って来た市民はほとんどいなかったことが資料からわかっています。

それから、南京市にいた人間は南京市民だけではありません。南京防衛軍が守備しており、その数は10万人とも15万人とも言われます。中国兵捕虜、敗残兵多数が不法に虐殺されたのは歴史的事実です。防衛軍のうち対岸に逃げ延びた数が2万人、戦闘で死亡した数が2-3万人と言うのは日中の学者で同意されています。したがって、5-10万人の兵士が虐殺された、と考えられます。

仮に南京市民が40万人で中国軍兵士が15万人いたとすれば、19-24万人が虐殺された計算になります。この数は日本の歴史学者が推定する数です。

「20万人いたから、30万人は殺せない」というのは虐殺否定派の合い言葉ですが、前者は市民だけの数、後者は市民と軍人の数ですから、一種のトリックです。
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私の近所のおじさんが戦時中に中国に通信兵として渡りました。


私は良く戦争の話を聞かせてもらうのですが、南京事件の話は、あまりにも話が大きすぎて、ばかばかしいにもほどがあるそうです。

[日本軍が南京に行くまでには当然逃げて、皆いないだろうが]と言っていました。

私がそのおじさんの言うことが信じられるのは、このおじさんは日本よりも中国のほうが好きであり、どちらかというと反日思想なのです。

私によく中国の話を聞かせてくれます。
自分の青春時代のほとんどを中国で過ごしたので、中国にはすごく愛着があるらしく、孫文や蒋介石なども尊敬しているようです。

日本軍の悪いところも、さんざん聞かされました。
中国女子に対する強姦なども実際にあったそうです。
これは、戦意を高め、恐怖心から自分を奮い立たせるためだそうです。

しかし、そのおじさんは南京での事件は20万はおろか10万でも否定しております。

私にとっては、本多氏、東中野氏、など左右の思想家、専門家のどのような本よりも、おじさんの言うことのほうが信憑性があります。
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先日、テレビで実際に中国人の一般人を無差別に撃ち殺したという元軍人の日本人の老人が南京に行き花を手向け、現地で謝罪を兼ねた講演を開いた場面を放送していましたが、女も子供も関係なく何十人も堤防に並ばせて機関銃で右から左へ打ち続けたと、そして死体が川原に何十メートルも山のように重なっていたと、日本人として信じたくないですがそれが真実だと思います。

戦争という異常な極限状況では、倫理や人道など忘れ去られ、まさに狂気の世界なのでしょう。殺すか殺されるかのギリギリの状況です。だからこそ、戦争は絶対にしてはいけないのです。ベトナム戦争で大量に犠牲者を出しながら、軍需産業によって景気が高揚するために肯定してきたアメリカでさえも、あまりにも道理に合わないイラク戦争で、再び多くのアメリカ兵が死に、一気にいかなる理由でも戦争は良くないという風潮が多くなってきました。また9.11テロ自体もアメリカが戦争を起こして景気を良くしたいがために仕組んだ自演自作だという説もあります。真実はわかりませんが、同じ人間同士殺しあうことは異常です。毒ガスはいけないが、銃やミサイルはいいって人殺しなんだから同じことじゃないですか?日本(自民党)も安保条約の維持のためになんて理由で、軍艦への給油を再開する法案を可決してしまいましたが、今の議員の中で、実際に戦場の第一線に行った経験者がいるでしょうか?私の父は今85歳です。2等兵として第一線に出征し、運良く戻って来れましたが、未だに戦争の悲惨さを話してくれます。戦闘行為もなく、ただ二千何百キロも大砲を引き、歩いて行軍しただけで、一人減り二人減り結局1/10も生きて戻れなかったと。
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内務省を作った岩倉具視周辺自体が


英香港印系ユダヤ政商らの工作員として日本で岩倉家に養子入りして、
朝廷近くに入り込み、
公武合体派に見せかけ、憲法でも西郷どんが親韓大使として朝鮮派遣してくれと自分の辞表を提出し、講義したにもかかわらず!
朝廷の名を使い、却下させた人物でもあり、
その結果、600人もの官僚が辞表を出し、
その後も辞職が続いたといいいます・・
反対陣に入り込み、そのリーダーとなったとき、
本音に翻る・・・
これがユダヤ政商らの常套手段ではないでしょうか・・??
(毎日放送の大阪平松市長?大丈夫かな??)
こういう英香港印米ユダヤ政商らに行政制度を作られた明治政権での
内務省(元々は、地方に任されていた徴税権と裁判判決権?が
外国の威嚇勢力と対抗するために、
日本本位の政治家らも明治政権の中央集権化は賛同したのでしょうが
そのときに、大蔵省に徴税権も使い主としての主導も集約され、
現在、トヨタといえども英香港$系の社長が経営する事態となり・・
今度は、日本国家として官僚らが国民に実態を知らしめて、
反対運動が起こることを恐れている??
そこで、官僚を失墜させ、国防機能も占領してしまおう・・
というのがシナリオのように思えます・・??

南京事件をまるで予想していたかのように?or重要関係者ように??
第一報を報じたのが、
内務省・正力松太郎が社長となって関東大震災時、
王希天事件(暗殺されたことになってるが、実は上原陸相の下で、野方村(後に中野町)字上高田の【上高田救命院】で、
炭疽菌増殖技術を渡辺政雄に教え、それがのちの石川四郎731部隊に使われ、本物の周恩来、呉達閣、張学良ら抗日地下活動家らと連携)と連動した(日本国民?恐らくは抗日活動家らが口封じに殺害?が誹謗中傷で虐殺したということになってる)朝鮮人殺害事件をマスコミ業界で
もみ消すために、
1924年2/25、前警視庁刑務部長(のちの衆院)正力松太郎が読売を買収し、社長就任し、朝日新聞(元々は読売とも日本の新聞・・毎日が黒幕??)も支配下に置き、
早稲田卒の橋本登美三郎を朝日新聞に入社させ、
満州特派員として記者として中国に駐留させている・・(中国人?)
1936~37年8月、橋本登美三郎、南京支局勤務、南京通信局長を務め
  12月、南京を日本軍が占領した際、
    まるで予想していたように!?
    15人もの大所帯の部下の記者を引き連れ、
      一番乗りし、
     橋本は南京大虐殺については、否定的な証言をしてるが、
       外信部長、 元朝日新聞社東亜部長を歴任している・・
     
終戦とともに、橋本氏は新聞社を退社し、
     佐藤内閣(岸系が英香港$資本人脈を育ててる?)で内閣官房長官となり、
     政界にも基盤を作り、
1968年佐藤内閣時、旧姓橋本の額賀氏は、
   橋本登美三郎氏とまったく同じ学歴、学科、クラブ出身ということで、
   産経新聞静岡支社政治部入社し、
   いきなり!三木武夫と角栄さんの番記者となって・・
1978年2/1、退職し、
   12月、茨城県議選挙で初当選し、以後、堂々たる橋本登美三郎後継者として
   1980年、橋本氏を落選させ、その後継者として国政へ踏み出す・・
   浜幸に一杯食わされた社会党飛鳥田氏スキャンダル事件で衆院ハプニング解散した時、
   ダグラス・グラマン事件、松平永芳氏が自衛隊から湯好くに宮司に就任し、真の戦犯である松岡、白鳥両氏の合祀をこっそり行ってしまい、
   昭和天皇はご立腹され、
   以後、靖国にはご参拝にはならなかった・・
  つまり・・白鳥、松岡(岸、安倍氏の祖先。満州で岸氏が若い官僚のころ、英香港ユダヤ政商資本のキーマンと結び合わせた人物、叔父さん)は、
   戦争の黒幕をご存知の昭和天皇が
   心底立腹されてる両氏を靖国に合祀することを許した政治勢力であるということ・・

  いつも通り、、取り留めないのですが・・
  南京事件が実際に起こった起こっていないという問題の前に、
  どういう経過で、そうなったのか・・という点を再度、洗いなおす必要があると思いますし・・
  そうすれば・・
  なぜ、急に南京に多くの人が集まったのか・・
  彼らはどこから誰に導かれてきたのか、
  それらが浮かび上がってきますでしょうから、
  日本人が南京虐殺をしたということを前提に問題究明をするのはまずいのではないでしょうか??!?
   
     
  

(ちなみに・・抗日活動お表舞台で堂々と推し進めることが可能になった岩倉具視を支えた?導くこととなったキーマン・・・
松平春獄、由利公正、山内豊信(土佐藩主)らは、
海晏寺を墓所にしています(一般のお参りは不可)

この寺は『吾妻鏡』では
・・
下河辺行秀(源頼朝の御家人)が、
鎌倉幕府が成って間も無い頃、

那須野の狩に名誉の射手に選ばれたが、
鹿を射損んじ出家
執権北条泰時の頃、後の天福元年(1233)三月、
僧智定坊となった行秀は鎌倉に遺言状を送り、
熊野の那智浦から戸を釘で打ち付けた舟で補蛇落山へ渡ったとあり、
孫の時頼が、
鎌倉建長寺の蘭渓道隆を迎えて開山
補蛇落山海晏寺の創建し、
墓地には、熊野三苗とわざわざ記録が残されてる鈴木幸純(日本で鈴木姓が一番多いそうですが、、
戦時中の企業鈴木商店などが現在も安倍、渡辺、額賀、斉藤明政権時
もスキャンダルで潰されずに生き残ってるということは・・??)

また、熊野神社、おイセさんもいつの間にやら歴史を塗り替えられてしまったようで。。

現三重県知事体制がある・・??

神社の紋が荒波で
江戸時期の古文書によると、
サメの歯を報じたというので、
熊野水軍(海賊)時代には、
すでに!この地も拠点とされていたのかもしれませんし・・

そうなると・・
『おかげ参り』などの非日本的な庶民の言動や文化も理解できるように思えます・・

『エベス(夷もとは当方の異国)さん』という商売の神様が
元々の菅原道真(中国の国花、梅に象徴)など海辺におかれた偉人を
シンボライズして利用し、
その宗教施設にお金が集まるようにしている・・??
伏見稲荷が『正一位』を乱用し、
自分の末社まで神格化させている・・

日本の神道は英香港ユダヤ政商らの祖先の代から
日本文化の壊滅を意識的に行っている・・


他方で、日本古来の神道の機能を牛縄させている・・
大阪の上本町に20年程前にはあった神主さんの協会?だか・・??もなくなっている・・

コンクリート化され、
柵で人を拒み、
かつての鎮守の森の気配が失せている・・

破壊されずに現存しているのは・・
殆ど!英香港米ユダヤ政商由来の遺跡と習慣が伝えられている・・・

Huuuuuuuu・・・
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この回答へのお礼

詳しい回答をありがとうございます。
すみません・。。私には少ししか理解できませんでした。

お礼日時:2008/01/21 04:20

もう答えが出ているようですが


Wikipediaの
南京大虐殺論争 人口推移に解説があります
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC% …

南京事件については
東京裁判でパール判事が意見書で 以下のように書いています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80% …
南京事件については「すでに本官が指摘したようにこの物語の全部を受け入れる事は、 いささか困難である」と
十数万~数十万もの大虐殺に関する証言や証拠に強い疑問を呈した上で
「残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた  
戦時ふ虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」として一定の犯罪行為が存在した事を指摘した。
そして「弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。
彼らはたんに誇張されていることを愬ているのであり、かつ退却中の中国兵が、
相当数残虐を犯したことを暗示したのである」
という弁護側の主張で締めくくっている

これが客観的に見た南京事件の事実ではないかと思います
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
リンクのほう、参考になりました!

お礼日時:2008/01/21 04:18

日本軍が南京を攻略する前の12月1日に、南京市長が全市民へ安全区(難民区)内へ避難するように命じました。


安全区というの仏人宣教師ジャキーノ神父が、日本軍の承認する「難民地区」を上海南市に設立して良民の保護に当たった先例にならい設けたもので、この管理は南京市長の申し入れを受けて南京安全区国際委員会の外国人15名による自治組織でメンバーは、米人7名、英人4名、ドイツ人3名、デンマーク人1名で組織されている。

この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。
主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。
この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されている
翌年の1月に難民に食糧供与をするため、人口の掌握をしたときには25万に増えている、これは近隣の町へ避難した人が戻ったと考えられるが食料を得るために難民として着ただけとも考えられる。
また日本軍も難民区に潜入している便衣兵を摘出するため「良民証」を給付しました。良民証は10才未満の子供と60才以上の老人を除外して給付された物であり、この給付数が16万に達しています。

また当時の日本軍も国際委員会からの情報をもとに食料や物資を南京に送っており人数の差異があれば相応の餓死者等が発生したはずである。

南京市内の人は安全区に避難していたが郊外にも人はいたのではと思われるかも知れないが、国民党軍は焦土作戦を用いており城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村は軍事作戦として焼き払われました。現在では非常識に思えるかも知れませんが戦力が劣った方が敵の侵攻を緩めるために行うのは常套手段です。独ソ線しかり、アフリカの独英戦では逃げるときに井戸にガソリンをいれ飲めなくするなどWW2でも行われる事です。
 
余談ですが、日本占領後の翌年の2月に国際連盟で日本を非難する決議が出されていますが、このときの中華民国代表は
南京では捕虜を含めた2万人程の虐殺が行われたと主張しました。
しかしながら、日本批判の決議に中華民国の意向は含まれず、南京での事件は扱われませんでした。
これは各国が南京安全区国際委員会により南京市内での状況をある程度認識可能であった事が理由なのでしょう。

なお南京市の人口は、1937年3月末(占領の9ヶ月前)の時点では101万人程であったとのことです。

占領前について
ラーべの南京の真実を引用
11月28日、
察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した
12月6日黄上校との対話
なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄を付けても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
12月8日
われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き上げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人達がつぎつぎと送られてくる。
12月10日
日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ

南京アメリカ大使館通信
I、十二月十日後の主な報告
 南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり逃亡説が有力そうですね。詳しい回答をありがとうございます!

お礼日時:2008/01/21 04:16

南京大量虐殺はありませんでした。


なぜなら写真がないからです。
当時中国の武器は日本軍より劣っていた。
よく考えてください。虐殺された側の武器はなんですか? 30万人が虐殺されたのならあたり一面死体の山です。わたしが中国人の立場なら虐殺死体の写真を撮りまくって国際世論に必ず訴えます。
「日本軍はここまで極悪非道な軍隊なのだ!」
とやるでしょう。そうすれば世界が中国に同情してくれ味方になってくれるはずです。戦車100輌より大きな武器になります。
いいですか。30万人ですよ。死体はあたり一面にあるはずです。どうして写真がないのか? 虐殺がなかったからです。真実は東京裁判でアメリカ人の証人が述べた通り「たった一人」なのです。
ではなぜ単なる噂が真実になったか?
それはアメリカがこの戦争を正当化し、さらに原爆投下さえも正当化するためにはナチスのユダヤ600万人虐殺に匹敵する日本の悪事を探していたからなのです。この噂は「渡りに船」だったのです。あなたがもし純粋の日本のかたであるならありもしない虐殺を信じてはなりません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
写真はありますし、実際に中国の友人の祖父に直接聞いたこともあります。彼自身は割りと日本に友好的な方でしたので、嘘をついているとは思えません。

純粋な日本人、純粋でない日本人はこの際関係ないと思います。私は愛国心というものに縛られず、物事の真実、本質を知る事が何より大事だと思っています。

お礼日時:2008/01/21 04:15

南京事件の人数に問題がある理由のひとつに当時の人口よりも殺された人の数の方が多いという矛盾点をよく聞きますが



20万の都市で30万人殺せるはずが無いうんぬんですね。

まずそれは、歴史を顧みない人間のタワゴトだと思ってください。
よく言われる(わかりやすいため本を読まないネット民にうけているようです)トリックですが、
20万人というのは、南京市の一画(約1/10の面積)の「南京安全区」の人口です。

ですから、「南京市」の人口とは全く違います。
両者を意図的に混乱させるトリックですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
安全区の人口を南京市全体といっているのですね。

お礼日時:2008/01/21 04:11

> 現在の南京の人口は約770万人です。


多分、もう少し多いと思います。中国では転居の自由がないので、南京へ働きに出ている人は「一時滞在者」扱いとなり、人口にカウントされないことが多いためです。


さて。
南京陥落直前の人口(民間人)は、概ね20万人、多くても25万人程度というのが妥当な線だと思われます。プラス、軍人が9万人ほどです。
合計で、30万人前後、と考えるのが現実的な線ではないでしょうか。


戦闘前の日本軍の爆撃の時点で 50 万人以下まで減り、日本軍が進軍を始めたことで市民は脱出を図りますが脱出路である長江を中国軍が優先的に使ったことなどにより、結局 20 万人ほどが取り残された、ということになります。
この20万人という数字は、ドイツ人ラーベが本国に報告した数です。
また25万人という数字は、陥落後に調査団が入って調査し報告された数字です。

中国側の主張としては南京での民間人虐殺数は30万人であった、ということであり、陥落後一ヶ月の時点で人口が25万人以上いたことから、計算が合わない、というのが
> 当時の人口よりも殺された人の数の方が多いという矛盾点
の意味内容です。

民間人はほぼ全員安全区域にいたのですが、この安全区域自体、4平方キロ弱で、千代田区の1/3程度の広さしかありません。ほとんどの建物は平屋ですから、現実問題として、50万人や100万人もが数日であれ暮らすことはちょっと難しいのではないかと思います(日本軍が南京市郊外に着いてから陥落までは9日です)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり逃亡説が主流のようですね。

>民間人はほぼ全員安全区域にいたのですが、この安全区域自体、4平方キロ弱で、千代田区の1/3程度の広さしかありません。ほとんどの建物は平屋ですから、現実問題として、50万人や100万人もが数日であれ暮らすことはちょっと難しいのではないかと思います

そうですね。新しい情報をありがとうございます。

お礼日時:2008/01/21 04:07

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