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タイトルどおりです。
映画、小説、TVなどでよく登場する伊賀と甲賀の忍びの対立は事実なのでしょうか?
また事実であるとすれば対立の切っ掛けやその結末はどうなったのでしょうか。詳細をご存知の方は教えてください。お願いします。

A 回答 (4件)

家康は若い時から伊賀者、甲賀者を使っています。


「三河、宇土城攻めに甲賀の忍びの者80余人を招き城内に忍びこませた。」とあります。  これは臨時雇いですが、後伊賀者出身の服部半蔵が召抱えられ、伊賀者も使うようになりました。
本能寺の変で家康大難の折、伊賀、甲賀の者が警護して無事帰れたのですが、途中鉄砲で狙った者がおり、これが甲賀の別の一派のしわざらしいとの事で甲賀に不信感をもったようです。
これがもとで江戸幕府成立時、扱いに差がでました。
伊賀者は大身旗本の半蔵の下伊賀同心として多数召抱えられ、組屋敷も拝領の出世でしたが、甲賀者は在地のまま使われ島原の乱に出陣したりしました。    一部は江戸へ出て、幕府留守居役附きになり、駿河台に甲賀町がありました。
忍びの役をしたのは、江戸初期だけで、その後は御庭番に役目を奪われ伊賀、甲賀共警備など雑用係りになってしまいました。
大名の忍びになった者もあるようです。
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この回答へのお礼

>途中鉄砲で狙った者がおり、これが甲賀の別の一派のしわざらしいと

これはもちろん秀吉対家康以前の問題ですね。初めて知りました。
甲賀者の大半は江戸表に出ることも許されていなかったのでしょうか。在地のまま島原の乱に出陣とありますが、扱いに差が出てしまいましたね。
警備や雑用に落とされたのですね。いずれにせよその後も身分が上がることはあまりなかった、「日陰の身」であったようですね。

詳しい回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/04 20:11

時代小説をお読みください。

「忍びのもの」古いビデオでもありますよ。
柳生新陰流、伊賀、戦国、徳川幕府、集英社ジャンプコミック「花の慶次・・・雲のかなたに」全18巻、には、加賀前田家、上杉家、伊達家のおかかえ忍者たちがでてきます。
網野善彦の中世歴史に登場する、農民以外の職業集団のひとつに、忍者もあげられるかもしれません。
隆慶一郎「一夢庵風流記」(「花の慶次」原作)、「吉原御免状」「捨て童子・松平忠輝」「花と火の帝」「影武者徳川家康」など読んでみてください。どの作品にも忍者がでてきます。「死ぬこととみつけたり」
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この回答へのお礼

前田慶次は滝川一益の養子でしたっけ?その滝川氏は伊賀の忍者とつながりがあるようなことを何かで読んだ記憶がありますが、記憶違いだったらすみません。
小説においては敵対していますが、前出回答者様によりますと、豊臣と徳川の対立が大きな原因と思われますね。同業者での協力もあったようです。
小説での忍者の活躍は必ずと言っていいほど興味の対象です。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/03 19:16

http://www.2nja.com/what_2nja/iga_kouga.html

上記サイトが分かり易いです。
「歴史上は敵対すること無く同業者のよしみで協力関係を築き上げていたと言われている「とあります。
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この回答へのお礼

天正伊賀の乱、参考になりました。織田信雄と滝川一益が伊賀攻めをしたこと、滝川氏が忍者と深いつながりがあるとも何かの本で読みました。更に甲賀と六角氏、和田氏も何かの縁があるとのことですが、このHPは参考になりました。
前の回答者様の質問にも追加で質問させていただいたのですが、傭兵として存在した場合、味方同士で戦うことはなかったのでしょうか。正体を知られてまずい忍びにおいて中々敵の正体を知る前に戦闘にならなかったのか不思議です。分かりましたら追加回答していただくと嬉しいです。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/03 19:12

まず、ね。



映画などで見る「忍者」は、山田風太郎という小説家が定着させたもので、ほとんど彼の創作といっても良い。もちろん、講釈本等や、或いは江戸時代の小説などにその原型は見ることが出来るけれども。
なので、たとえば秘伝書などを口にくわえてがまに乗る、なんてのは完全に虚構の世界であって、今で言えばガンダムやドラえもんとおなじ仲間だと思って良いです。

で、伊賀と甲賀の対立ですが、非常に地理的に近いこともあり、また伊賀と甲賀は土地的に山間地であって収穫量が少ないので、今で言うところの傭兵や野武士となることが多かったわけだ。この時期はお互いに協力しあっていた。

後に、伊賀は服部半蔵など徳川方に、甲賀は豊臣側の領地になったことから豊臣方について関ヶ原・大阪の陣を迎えるわけだが、両者が対立して講談本なんかでよく戦うのはこの時期以降のことだ。

といっても、両者ともに、正体はなんのことはない普通の地侍なので、伊賀の地侍に命じて甲賀の地侍を追討した、という程度のお話であって、その内に天下が治まって、何事もなかったかのように今に至っています。

伊賀侍の一部は幕府に仕えて旗本になっていますが、大抵はかなり下級であんまり大身の侍はいません。むしろ、時代が下るとほとんど消滅していきます。甲賀の方は、大部分は帰農していくか、どこかの町で町人になっていったと考えられています。
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この回答へのお礼

追加質問できましたらお願いします。傭兵となる場合、伊賀対伊賀、甲賀対甲賀はありえませんでしょうか。

服部半蔵は家康を味方したので幕府寄りは分かります。甲賀については豊臣寄りだったのですね。
甲賀の方は自然消滅で終わったのですね。勉強になりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/03 19:00

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