思考や判断について
例えば誰かが殴りかかってきたら、人は意識的にせよ、反射的にせよ、回避行動を取ると思います。
その一連の回避行動は、思考や判断も含めて、物質としての人間に起こった物理的、化学的法則に従った反応のみによって為されるのでしょうか?
そうだとすれば、脳内や体内の物理、化学反応と、人間の感情や行動は同時発生的というか、同一のものだと思います。
それなら、よく聞く「人間の痛みや苦痛は、それによって身体の危険を認識して回避するためにある」という話は誤りであるように思うのですが、いかがでしょうか?
極端な話、仮に人間に感情や思考がなくても、ロボット人間によって人間社会は成立するのでしょうか?
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No.19ベストアンサー20pt
ANo.6, 9, 11, 14,17です。
こちらこそ何度もすみません。
> しかし自然科学の立場に立てば、「物理法則のみをメカニズムの原理として認める」ということと「物理的に存在しないに等しい表象に意義を認める」ということは、明確にダブルスタンダードだと思います。
「すぎない」とか「……ないに等しい」のような修辞表現は、混乱を招くだけなので、あまり使用してほしくはないのですが……。表象は物理法則から外れたものと考えているわけではないので、いかなる意味でもダブルスタンダードではありません。心理学でいう生物学的制約です。物理法則を裏切るような表象についての理論は、基本的に支持されません。
> 認知科学っていうのは、自然科学と人文科学の融合ですよね。
そうともいえますが、質問者さんのイメージでいえば、完全に自然科学です。意識や表象といったものが自然科学として扱えるという点が大事なところだと思います(後述)。
> つまり認知科学は、表象と物理的変化を等値概念として包括することで、両者の関係性への考察をひとまず棚上げすることで成り立っているのではないでしょうか?
どこかで棚上げしているのは確かでしょうね。
> それゆえ、認知科学において表象と物理的変化は同義(一体)であり、「表象に意義がある」ということが命題化しているのではないでしょうか?
命題化とはどのような意味でしょう。大前提という意味なら、これは論理の飛躍です。どこかで棚上げが起きているからといって、表象に意義があるということをあらかじめ前提しているわけではありません。そこで棚上げが起こっているわけではありません。表象にどのような意義があるのかを経験的な問いとして、研究対象にすることができます。
> また表象に対して「意義がない」とか「付随的」というのはあくまで自然科学の立場を尊重するなら、ということです。
これは、何十年か前の自然科学なら正しかったと思いますが、そこまで強固な物理主義ないし(心理学なら)行動主義は、自然科学しても現在では受けいれられません。というより、そのような考え方の変化が認知科学の発展と関係があるのでしょう。表象を自然科学として扱うための考え方や、厳密な行動の実験統制、認知や脳を経験的に調べる方法が発達してきたということです。
しかし、質問者さんと私の立場は、実際のところ、対立してはいないだろうと思います。ポイントは、次の点。
「表象の意義」という言葉が非常に怪しいのだと思います。これは、表象の実在にかんする論理的な問題と、表象の意義の経験的な問題(実際のところ、どのような意義があって表象というものは進化なり発達なりしているのか)とに、さしあたり分かれるのだろうと思います(私の最初の回答ANo.6の最後で指摘したことです)。
後者は、自然科学的に(この場合は認知科学的と言い換えてもOK)意義を探っていくことのできる問題です。他方、前者は簡単に解決できるものではなく(テューリングテストなどに感じる違和感を考えてみてください)、後者のなかで棚上げされているところで、哲学の研究対象でしょう。
質問者さんの主張するように、表象に「意義がない」といえるのは、前者の問題を考えているときだろうと思います。反対に、自然科学では、私たちが実際に表象をもっている以上、その哲学的な難点はとりあえず棚上げしつつ、その意義を探っていけます(そして、現在はその準備がわりと整っています)。これは前提することとは異なります。どのような意義があるのか、または意義はないのかということを仮説にするということであり、前提とするわけではありません。
「また表象に対して「意義がない」とか「付随的」というのはあくまで自然科学の立場を尊重するなら、ということです」を言い換えるなら、「自然科学が規範とする物理主義をつきつめると、心の哲学的には「表象」という捉え方そのものが意味をなさなくなってくる」とはいえるかもしれません(ただ、こういえるかもしれないということであって、私はここでこれにたいして何の論理的な裏づけもしていません)。しかし、まさしく現在の自然科学の営みのなかで、自然科学の立場において表象に意味がないということであれば、それは現実の自然科学にそぐわないことです。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
そうですね、「意義」という言葉がかなり怪しいですね。
それでも今回の一連のご説明、だいたい理解したと思います。
棚上げの部分、回答者さん言うところの「表象の実在にかんする論理的な問題」も、認知科学の趣旨からすれば大きな問題ではなく、研究の障害にはならないことも理解できます。
ただ、実在にかんして論理的な問題をもつ表象が、それでも自然科学に受け入れられる背景には、表象が物理的変化との関係性において、強固な経験的裏づけを持つ、ということがあるのは事実だと思います。
逆に言えば、この関係性について、一切ほころびが無いことが認知科学成立の前提ですよね。
>表象は物理法則から外れたものと考えているわけではない
>物理法則を裏切るような表象についての理論は、基本的に支持されません。
つまり、認知科学において、物理法則は表象に対して全責任を持つ(表現はむちゃくちゃですが)ということですよね?
そうであれば、理論的には、すべての表象は物理的作用に還元して分析できるということになりますよね。
その関係性が、生物の物理的作用側として細胞単位までなのか、分子、原子まで及ぶのか分かりませんが、いずれにしてもそれは心をシステムとして捉えることができるということですよね?(勿論、理論的には、ですが)
そうなれば、本当に心も自然科学の対象になりますね。
物理法則にしたって、突き詰めれば最後の部分は棚上げなんでしょうから。
>倫理観は学問的成果を行使するときに持ち出せばよいもので、知的探求そのものに偏った倫理観を持ち込むのは思想統制です。
科学scienceの語源は良心conscienceだと言われています。詰まり科学は良心即ち倫理観に立脚して行われる行為です。科学者も社会人としての倫理性を常に問わなければなりません。反社会性を前提に知的好奇心と嘘ぶいて追求する事は,社会破壊更に独裁的な思想統制への道が覗けて懼れを覚えます。
因みに私の言う社会とは,独立した自由な存在が集まって成す協力体です。これ程,独裁的な思想統制と程遠いものはないでしょう。私は民主的な共和制や,或いは合議制の規律社会がこの様な社会だと認識しております。
この回答へのお礼
倫理観だけならまだしも、政治的イデオロギーを科学の話に持ち込む方を私は絶対に信用しません。
ANo.6, 9, 11, 14です。
視点に偏りがあるのでは。そのせいで認知科学の成果を正当に評価できていないように思えてしまいます。
> この場合の、抱き合わせとは、「両者が不整合な動きをすることは絶対にない」と同時に、「両者が干渉しあうことも絶対にない」ということを意味すると思います。
後者には賛同しかねます。表象のあるかぎりにおいて、表象とそれを起こすメカニズムとはつねに干渉しあっていると考えられます。
> 両者が干渉しあわないとすると、両者が並存する機能面での必然性は無く、両者の並存は経験的事実以上のものではなくなると思います。
おそらく意識の生物学や認知科学にかかわる人たちは、機能面での必然性があるからこそ、両者は抱きあわせになっていると考えているはずです。
> 今回の質問で私が確認したかったのは、現状の生物学の見解として、心(表象)が身体に対して全く不干渉であるという点です。
> つまり、人の主体的(だと思っている)意思や感情、痛みといった表象が、実際の人間の行動面では(表象そのものとしては)全く意義がないということです。
これはまったく現在の科学(とくに認知科学)とは逆行する考え方です。認知科学が興隆するにつれて、意識や感情なども、ワーキングメモリやメタ表象などの観点から、実証的にとりくまれているようです(私自身はそれほど多くを知りませんが)。
おそらく、質問者さんは、このような論理をもっているのではないでしょうか。
(1) メカニズムと表象とは、抱きあわせで動いている。
(2) 物理的な言葉だけで、メカニズムは完全に説明できる(「不干渉」の実質的な意味はこれではないでしょうか)。
(3) 表象のほうはそれに付随している現象である。
(4) 表象に意義はない。
しかし、意識にかかわる仕事をしている人らはこう考えているのではないでしょうか。
(1) メカニズムと表象とは、抱きあわせで動いている。
(2) 物理的な言葉だけで、メカニズムは完全に説明できる。
(3) 表象のほうはそれに付随している現象である。
(4) では、そのメカニズムにあわせて表象はどのように動いているのか。それ自体、機能として意味はあるのか。
メカニズムによって、どのように生物が動いているのかを知ることができます。しかし、なぜそうなっているのかは、表象を機能として解釈していくほかありません。それは、たとえば極端な例では、進化的な適応に証拠を与えます。解釈というと抽象的ですが、実際は認知実験(ないし行動実験)として証拠が積み重ねられます。この認知実験が表象の説明として成功することで、表象がメカニズムに付随する意味を明らかにできる。つまり、「表象がメカニズムに付随しているにすぎない」という表現から「すぎない」という言葉をとることができる。言い換えると、なぜそうなっているのか、表象を機能として明らかにできれば、表象が身体にたいして不干渉であるとか、副次的なものにすぎないとはいえなくなります。(もちろん、だからといって、メカニズムの物理的な側面の説明が不完全であったというわけではないことは、わかると思います。それは「どのように」というメカニズムの問題として、完璧であるはずなので。)
このように進む科学(認知科学)にたいして、質問者さんの論理は、表象の意義のなさを主張するには弱すぎるように思います。ただ、質問者さんが、感情や知覚などを説明の言葉として不要であると考えるなら、それは消去主義(eliminativism)と呼ばれる立場です。以前紹介した信原の編集したアンソロジーのI巻に概説があります。しかし、上の私の回答はそれを押さえたものではありません(あまり消去主義を押さえる気がないもので、読んでいません……)。別の本でちょっと消去主義について読みましたが、突きつめればけっこうおもしろいかもしれないとは思えたので、質問者さんならもっとおもしろいと思っていただけるかもしれません。
この回答へのお礼
何度もすみません。
私の認知科学に対する理解不足は当然あると思いますが、認知科学の成果を否定するものでは全くないつもりです。
表象と物理的変化の「両者が不整合な動きをすることは絶対にない」という前提さえあれば、表象面から現象を解き明かす研究は、何の問題もなく成立すると思います。
むしろ方法論的には大いに有効であるとも思います。
しかし自然科学の立場に立てば、「物理法則のみをメカニズムの原理として認める」ということと「物理的に存在しないに等しい表象に意義を認める」ということは、明確にダブルスタンダードだと思います。
認知科学っていうのは、自然科学と人文科学の融合ですよね。
私より回答者さんの方がお詳しいと思いますが、自然科学と人文科学は由って来るところが違いますよね。
その自然科学と人文科学の融合は、(成果はともかく)学問の本質的な部分においては、妥協点を内包しているように思えます。
つまり認知科学は、表象と物理的変化を等値概念として包括することで、両者の関係性への考察をひとまず棚上げすることで成り立っているのではないでしょうか?
それゆえ、認知科学において表象と物理的変化は同義(一体)であり、「表象に意義がある」ということが命題化しているのではないでしょうか?
ただ、くれぐれも申しあげますが、それがおかしいとか、間違っていると言っているのではありません。
また表象に対して「意義がない」とか「付随的」というのはあくまで自然科学の立場を尊重するなら、ということです。
本当に表象に意義がないのか?実際に表象と物理的変化のどちらが「主」でどちらが「従」なのか、については私は持論を持ちません。
そしてどちらかといえば私の関心の比重は表象の方にあります。
>つまり、心の存在は証明できないし、心がなくても生物は機能するはずだと仰っているわけですね。
「生物」となるとまた話は別ですね。細菌や植物に心があるかという議論になってややこしくなります。
「証明できない」と「ない」は論理的に全くの別物である事は理解してください。正確に言いますと「心の存在は証明できない。従って心がなくても『動物』は機能する事も証明できないし、心がないと『動物』は機能できないという事も証明できない。しかし対象に心があると思い込むことはできるしその対象は生物に限らない」です。
デカルトは、「心の存在は証明できるし、人間以外の動物には心はない」というように考えていたふしがありますが、その後いろいろな人が検討して批判というか否定されてますね。まあ最初はそんなもんです。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
仰っていることはよく分かります。
知的好奇心を標榜した所で,其処に倫理観が欠如しておれば何の価値もないでしょう。「汝自らを知れ」で衆生のひとりとして身の程を悟った上で,世に知的好奇心を正すならいざ知らず,生活信条を蔑ろにする態度では他者を批判する値打ちもない様に思います。
ロボットと生命体の大きな違いについてお話したいと思います。ロボットは,多くの部品の寄せ集めで出来ていますが,生命体の場合は細胞それぞれが,生命体の設計図を全て持っています。それぞれ独立した存在が集まって,それぞれの立場でそれぞれの成すべく役割を果たして生命体を維持しています。社会に付いても同様で,構成員のひとりひとりがそれぞれ自律し独立した存在で,お互い協力して個々人の立場で役割を果たして成り立っています。ロボット社会では他人任せの部分が多く,自律性に乏しく永続性は保ち難く自滅し易いでしょう。各自自律し独立した者が,協力し合うことで,より強固な社会を築く事ができます。独立した体として,痛みも確り自覚し,自らの回復力を持ち,社会への依存性を減らし,かつ同じ立場として強い共感を共有することで,確りとした絆に繋ばれて磐石な社会を構築できると言うものでしょう。
ワンマン社長の会社の脆いのは,社員がロボット化して判断能力が低下する為だと言えるでしょう。ワンマンな或いは独裁者に取っては,使用者や奴隷が感情や思考を持つ事は脅威でしょうが,その我侭な思いが自らの身を危うくしている事に気付くべきです。
この回答へのお礼
倫理観は学問的成果を行使するときに持ち出せばよいもので、知的探求そのものに偏った倫理観を持ち込むのは思想統制です。
ANo.6, 9, 11です。
> メカニズムに影響を与えるのは表象ではなく、表象と抱き合わせで身体に発生する物理的変化の方ではないでしょうか?
実際のところはそうです。しかし、質問者さんの疑問に答えるうえでは、そこから「物理的変化だけが発生しさえすれば表象は必要ない」ことは導かれないということが重要です。
逆に私からの質問としては、現在の動物(とくにヒト)で「表象はないが、まったく物理的変化は同じ」ものを想定できる理由を知りたいです。大事なことですが、これが想定可能であることが質問者さんの疑問の前提ですけれど、これは無根拠に想定することはできません。どうしてこれは可能なのでしょうか。
これが想定できない理由は、質問者自身も認めているように、物理的変化と表象とが抱き合わせで発生する(と考えられている)からです。本当にまったく同じ物理的変化が起これば、自動的に抱き合わせで表象は生じてしまうし、表象のない状態をつくろうとすると、かならずそれに対応する物理的変化のほうを欠いてしまうからです。
今回の回答に即するなら、今までの回答で述べてきた痛みを痛みとして表象する意義は、この抱き合わせにたいする経験的な裏づけとしても位置づけられると思います。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
>現在の動物(とくにヒト)で「表象はないが、まったく物理的変化は同じ」ものを想定できる理由を知りたいです。
逆説になりますが、表象と物理的変化は完璧に抱き合わせだからだと思います。
この場合の、抱き合わせとは、「両者が不整合な動きをすることは絶対にない」と同時に、「両者が干渉しあうことも絶対にない」ということを意味すると思います。
両者が干渉しあわないとすると、両者が並存する機能面での必然性は無く、両者の並存は経験的事実以上のものではなくなると思います。
まして物理化学を拠所にする自然科学からすれば、むしろ生物にだけ表象が存在する現状の方が不可解なのではないでしょうか?
ただ、本当のところ、心のない人間の実現性にはそんなにこだわりません。
今回の質問で私が確認したかったのは、現状の生物学の見解として、心(表象)が身体に対して全く不干渉であるという点です。
つまり、人の主体的(だと思っている)意思や感情、痛みといった表象が、実際の人間の行動面では(表象そのものとしては)全く意義がないということです。
そして表象は身体的変化と抱き合わせですから、生物の活動を物理化学的反応でしか認めない自然科学の立場からすれば、表象は意義がないだけでなく、物理的変化の反映にすぎないということになると思います。
(ここから先、少し論理的思考を離れます。)
そこで、やはり表象の意義が疑問なのです。
生物という、これだけよくできたシステムを製造しうる自然の摂理が、その活動に全く資さない表象を意味無く生物に付与するとは、個人的には信じられないんです。
もちろん、現在の生物学ですべてが解明できているとは思っていません。
やはり心というのは圧倒的に謎なんだと思います。
ただ、前の方のお礼にも書きましたが、何が謎なのかという、具体的謎の範疇については、自然科学で提示してもらうことができないのかなあと思います。(勿論、研究成果の端々には、その裏返しとして不明点も示されているのでしょうが…)
そこに、哲学か、宗教か、オカルトか、更なる科学的探究か、何をあてはめるかは各人の勝手として…。
>人は心のあるものにも、ないものにも、心をイメージすることがあります。
確実なのは、心がないはずのものにも心を感じ取ることができるという事です。客観的には心は存在するという証拠はまったくなく、心があると思い込む事だけが心が存在する担保なのです。
思考実験の類ですが、自分に知能はあるが心や想像力が全くないと仮定してみてください。その時貴方が、自分にはないが他人には心が存在する、と判断できる客観的な証拠はありますか?
先に言ってしまうとそういうものはありません。
いろいろと批判されているようですが、もし正しく思索を進めれば、ひょっとしてデカルトが最初に辿り着いた地点あたりまで自力で辿り着けるかもしれませんよ。そのあたりが哲学の初歩の入り口付近です。
逆に言うと、そこまで行かないと哲学や科学の土俵にも入れなかったりするわけですが。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
つまり、心の存在は証明できないし、心がなくても生物は機能するはずだと仰っているわけですね。
最初のご質問への直接の答えではないのですが,「心」と「痛み」と「社会」に付いての私の所感を参考の為お送りします。
他の方へのご返答を見させて貰って思う事ですが,ご質問者が果たして自らの現在のお立場に付いて確りご認識なされていらっしゃるのか,物凄く疑問に思えてきます。済みません。衣食住や道路等のインフラ,通信等にお多くの方が携われたご苦労の恩恵を受けて成り立っている現状を認識できれば,感情不要論や心不要論など到底思いつくことも無かろうにと思われます。どうやらロボットにお憧れの様ですが,ないものねだりの憧れを抱く事よりご自身が社会に対して何がなせるかを,お考えなさるべきだとご察し申し上げます。
そして,1人の社会人として精一杯頑張る中から,身の回りに科学者が日夜励んで研究を積んで得られた成果が至る所に活かされている事に気付けて,その有り難味が痛感できるかと思われます。答えを全て他人任せにせず,自らも携わる中で他人の苦労も共感できる様になれば,他人の心が痛い程感じられて,痛み不要論を説く事の無礼を感ずる事も出来ると思います。痛みが解るからこそ,他人への思いやりも生まれ社会の絆も深まりますよね。1人1人を支える為に,心不要論等を考える余地の無いほど,精一杯頑張ってる者を慮る事を忘れてはなりませんよね。
ANo.6, 9,11さんも仰っていましたが,心の問題は心理学や哲学の問題ですよね。
お気を悪く為さらない様にお願い致します。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
No.2で般若心経に言及されていますね。
般若心経は「痛み」や「感情」どころか、「一切が空」を説いて、それでいて衆生済度の教えのはずです。
ともあれ、私の知的好奇心と、実際の生活信条は全く関係ありませんので、混同なさらないで下さい。
ANo.6, 9です。
ポイントを外していると思います。(はじめに改めて断っておきますが、藤田[2007]の概説は感情に関するもので、直接に痛みに関するものではありません。)
> そうなら、研究対象は「痛みのメカニズム」であり、「痛みの意義」とはイコール「痛みのメカニズムの意義」であると思います。
藤田の概説で述べられている研究対象は、感情のメカニズムではなく、感情の感じのほうです。藤田の概説は神経科学に関するものではなく、認知科学に関するものなので。感情を「感じる」ことのおかげで、ヒトや動物がどのような行動をとりうるのかに目が向けられます。
> ただ、私の疑問は「痛みのメカニズム」において、メカニズムに痛みが付随する必要があるのかどうかなのです。
そういうわけで、感情を感情として(痛みが感情に準ずるなら、痛みを痛みとして)表象する意義を明らかにするために立てられているのが認知モデルです(痛みが感情のモデルで説明できるかは別の問題として……)。
神経メカニズムのほうから話をすると、その認知モデルにのっとるかぎり、神経メカニズムが痛みを痛みとして表象することを含んでいると考えます。つまり、
> 痛覚への刺激は、信号としてだけ受け入れればメカニズムは働くわけですから、
という前提を否定するということです。痛みを痛みとして表象してはじめてメカニズムは健全に機能している。逆に、痛みを痛みとして表象しない場合、痛みを痛みとして表象していたときにできたことができなくなる、と考えます。(前に述べたように、これは痛みを感じられるようになって柔軟に反応できるようになったということですね。)
質問者さんの質問は、神経科学よりは心の哲学(という名前の分野があります)で議論されていることで、けっこう前にアンソロジーが組まれていてお勧めです。テーマ的には、I巻目がとくに読みやすいのでは。
信原幸弘 (Ed.) (2004). シリーズ心の哲学 I: 人間篇. 東京: 勁草書房.
http://www.populus.est.co.jp/asp/booksearch/deta …
信原幸弘 (Ed.) (2004). シリーズ心の哲学 II: ロボット篇. 東京: 勁草書房.
http://www.populus.est.co.jp/asp/booksearch/deta …
信原幸弘 (Ed.) (2004). シリーズ心の哲学 III: 翻訳篇. 東京: 勁草書房.
http://www.populus.est.co.jp/asp/booksearch/deta …
養老の本も話がおもしろいですが、脳関係は日本語でもよい教科書もあります(専門書ではありません)。
Pinel, J. P. (2005). ピネル: バイオサイコロジー: 脳: 心と行動の神経科学 (佐藤敬, 若林孝一, 泉井亮, & 飛鳥井望, 訳). 東京: 西村書店. (Original 5th ed. published 2003)
http://www.amazon.co.jp/dp/4890133356/
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
>痛みを痛みとして表象してはじめてメカニズムは健全に機能している。逆に、痛みを痛みとして表象しない場合、痛みを痛みとして表象していたときにできたことができなくなる、と考えます。
これが何故だか分からないのです。
痛みを痛みとして表象してはじめてメカニズムが健全に機能するとすれば、表象がメカニズムに影響を与えているということになりませんか?
なぜ質量もエネルギーも持たない表象がメカニズムに影響を与えられるんでしょうか?
メカニズムに影響を与えるのは表象ではなく、表象と抱き合わせで身体に発生する物理的変化の方ではないでしょうか?
あるいは研究上、表象の側から現象にアプローチするための便宜として、表象に軸足を置いた表現を用いて、表象がメカニズムに影響を与えていると「看做している」だけなようにも思えるのですが…
私の疑問に対しては、哲学がより直接的な示唆を与えてくれるであろうことは感じています。
ただ、偏見かとも思いますが、哲学って自然科学が手詰まりになった領域について、実証を免除して自由な議論を許容する免罪符のようなものに思えるんです。
それはそれで好きなんですが、とりあえず自然科学でどうなのか知りたいと思いまして…
ご紹介の本、興味深いです。
一度読んでみたいと思います。
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