桃山時代から江戸時代あたりの支配構造について。
桃山時代から江戸時代あたりの公家社会と武家社会について興味があるのですが。。。
(1)高校の頃、荘園制は太閤検地により完全に姿を消した。みたいなことを習った記憶があるのですが、荘園制がなくなったあとの公家の収入源は何だったんでしょうか?
(2)江戸時代に禁裏御料という天皇の所領があったかと思うのですが、ここに住む天皇領直轄の農民や町人などは、身分的なことやその他のところで他の一般の藩の農民などと差はあったのでしょうか?何かしらの特権があったりして優遇されたりしていたのでしょうか?
(3)徳川家康の征夷大将軍就任から大坂の陣までの間のことなんですが…この間、徳川と豊臣の支配関係はどうなっていたのでしょうか?一応、豊臣は関白で天皇を補佐する役割ですよね。ということは、天皇や豊臣から命令が行って、それに徳川が従うというような構造が成立していたのでしょうか。それともそんなものは関ヶ原後に消滅してしまい、天皇の言うことは聞くが豊臣のいうことには耳を全く貸さない(=表面的な面だけでなく細かな事務的な面においても)、というような一触即発の分断状況だったのでしょうか?どのような位置づけだったのかがいまいち手元の資料や本ではそのあたりのニュアンスがつかみにくいので教えていただけたらと思います。
参考になりそうな書籍等をご存知でしたら併せてご紹介いただけると幸いです。よろしくお願いします。
回答(2件)
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No.2ベストアンサー10pt
(1) 公家領の形で幕府から生活費が献上されていました。
(2) 江戸時代の皇室御領・公家領は一括して京都郡代の
管理下の元で、行政や司法は京都郡代によって行われました。
特に差はなく幕府直轄領と同じ様子だったと思われます。
(3) 1603年-1614年の関白は、九条兼孝、近衛信尹、鷹司信房、
九条忠栄、鷹司信尚と五摂家の人物が就任していました。
また、石高においても位階においても、家康>秀頼 です。
形式的には豊臣家が徳川家の主筋ですが、政(まつりごと)は
徳川家が実権を握っていました。秀頼は65万石の一大名ですね。
> 天皇や豊臣から命令が行って、それに徳川が従うというような
> 構造が成立していたのでしょうか
形式的には、天皇→徳川(間に豊臣は入らない)ですが、
実体は幕府が天皇・公家の行動に関与していました。
皇室も公家も、幕府から生活費を貰っている身ですしね・・
それが形になったのが、1615年の「禁中並公家諸法度」。
この回答へのお礼
ありがとうございます。
歴史の教科書やその筋の中級編クラスの書籍では(2)あたりは全く分からなかったので助かりました。すっきりしました。ありがとうございました。
No.1ベストアンサー20pt
1公家領が天皇と同様に家領をもらっていました
江戸時代の初期で近衛家1800石
2特権はなかったと思います
3:豊臣家は関白ではありません。
家康が従一位右大臣
秀頼が正二位右大臣
秀忠が正二位内大臣
(家康辞職後に秀頼が右大臣です)
ということで 位階としては 家康>秀頼です。
戦争の日本史 17 関ヶ原の合戦と大坂の役
などはどうでしょうか
この回答へのお礼
ありがとうございます。
とても勉強になりました。
どうも自分の中で豊臣=関白というようなイメージがあったので
すっきりしました。
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