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私はよく物事をたとえて話をします。歳をとるにつれこの傾向が高まってきているような気がします。最近では比喩(アナロジー)を出さないとうまく説明できない気すらします。たとえ話をよくする人は全然しない人と何が違うのでしょうか。

A 回答 (15件中1~10件)

> 判断力はあってもなくても外側に傷ができるかどうかだけでも同じ


> ことだと思いました。

他人を傷つける人がその行為を正当化するための論法に活用できそうですね。「悪気はないんだから、気にするなよ」と‥ (笑)

ちなみに、私ならば次のように例えます。
「鈍感さというものは、それ自体が一種の兇器と言えるだろう」

「鈍感な人は、ある面飲酒運転をする者に似ている。何となれば、自分の行為が他人を傷つけることになるとの認識をまったく欠いているからだ」

比喩は人を煙に巻くための道具ではなく、話の意図を正しく理解させるための一手段ですから、聞いただけで誰もが「あっ、なるほど~」と思うようなものでなくてはいけないと思います。したがって内容的に一定の普遍性があり、かつ明快であることが求められるでしょう。比喩の意味を理解させるために別途説明が必要になるようでは、比喩失格です。
また、あくまで手段である以上、あまりでしゃばりすぎてもいけないと思います。そこで一つ比喩が浮かびました(Parukia196 さんの癖が移ったかな?)。

「比喩とは調味料のようなものだ。匙加減ひとつで文章を美味しくも不味くもする」

くれぐれも「入れ過ぎ」にご注意ください ( ^^
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頭の固い人→自説に固執する人→他人が理解できない人→自分勝手な人→自分ひとりは社会的規範を守らなくてもいいと思っている人



意味のない難しい論議よりも、常識を身につけ、足元を見据えてしっかりと歩んでゆきたいと思います( ~ё ̄)。
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#12です。


もう一つ述べておきたくなったので、付け足します。

抽象化の能力とは、
(1)「幾つもの具体的な事象」=>「それを統一する抽象的な概念の認識」
という、方向だけを指すのではありません。その反対の流れとして、
ある抽象化概念を聞いたとき、それを具現化する幾つもの事象を指摘できる、すなわち、
(2)「抽象化」=>「具象化」
の能力が無い方には、抽象化能力が有るとは言えないことになります。

私が今までに接したことがある世界的に一流の学者達をその他残りの学者と区別する能力は、まさにこの(2)の能力が有るか無しかです。一流な方達は、我々凡人が聞いてもチンプンカンプンな概念に対して、適切な具体例(すなわち、比喩)を示してくれますので「何だ、そんなことか」と、こちらも判った気になれます。その結果、凡人の私でも、抽象的な言葉を身の入った形で使えるようになった気になれます。
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この回答へのお礼

chototuさま

抽象化は確かに子供はしませんね。ただ私がよく使うような比喩は大人なら誰でも可能な域だと思うのです。やはり言葉遊びがすきなのかもしれません。(かなり高度な知識を扱う専門家の方とお見受けしました。ところどころ凡人の私には難解すぎる部分もありますが、ほぉ~と思って読ませていただきました。)ありがとうございます ^^

お礼日時:2008/02/13 02:54

比喩を次々に出すのは、連想ゲームみたいな所があると思います。

ブレーンストームと同じで、浅かろうが深かろうがそれにこだわらずに比喩で遊ぶのは、生活を豊かにしますし、また、抽象化の良い訓練になると思います。

連想で思い出しましたが、今程楽しみが無かった中世の日本では、連歌という連想ゲームモドキの遊びが重要な教養の一つだったようです。戦乱時代の武士等は死地に赴く前に、しばしば茶を嗜んだり、連歌の会を催したそうです。連歌の巨匠二条良基の連理秘抄の中に、初心者の心得として「初心の程、あながちに思案すべからず。、、、口軽くしなして心地を沈むべからず。」と述べています。また、彼の筑波問答にも「、、、初学者にはうきうきと句ばやに、、、。最初より上手めき面白からんと案じて、句のつまりたちぬれば、次第に詞もかせ心も失せて、云々」とも述べています。要するに良い句を作ろうと苦心している初心者よりも、軽くかる~く心に浮かぶ連想や抽象化を楽しんでいる初心者の方が、将来よく伸びると言っております。

比喩をしながらどんどん脱線して行くと、突然今まで見えなかった世界が見えて来たりして、人生が楽しくなったり、知恵が付いたり、新しい発見に遭遇したりするチャンスが増えるのではないでしょうか。

考えてみれば、この質問欄でも、比喩から始まって抽象化、連想、連歌と、どんどん話が脱線して行っていますね。私にとっては、貴方の質問のおかげで、比喩が抽象化と結び付き、また、連歌とも結び付き、さらに、死地に赴く前に連歌の会に参加した武士の心理を想像すると言う所まで考える切っ掛けになりました。ありがとう。
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cyototu さんの回答への補足を読んで感じたことを追記します ( ^^



前回、「ごく当たり前の話をする場合には、比喩というものはほとんど修辞の域を出ず、ある意味蛇足です」とお話ししましたが、Parukia196 さんがお書きになった比喩は、いずれもそれに当たると思います。

・鈍感な人には、他人を傷つけているという自覚がない。
・正しい教えは利をもたらすが、間違った教えはむしろ害をなす。

これ等のことはほぼ世間の共通認識と言えるので、敢えて比喩を持ち出すまでもありません。もしこういうこと一つ一つに必ずしも必要としない比喩を添えずにはいられないのだとすれば、失礼ながら、Parukia196 さんは修辞マニアなのかしら?との疑念が浮かびます。

『不思議の国』の公爵夫人は、アリスが何かを言うとその都度決まって「そのことの教えはね‥」と言って、変てこりんな比喩を持ち出します。Parukia196 さんの比喩の内容を公爵夫人のそれと一緒にするつもりはありませんが、要するに比喩が口癖化して、それを言わないと喋った気がしないという状況に陥っていらっしゃるのではないかな‥と推測します(本当に失礼ですみません)。

折角なので、個々の比喩についての感想も ( ^^

1)「繊細な人」VS「鈍感な人」が衝突する時の比喩
「“あの人はウニなのだ” と思えば腹も立つまい」ということだと思います。でも、元来判断能力を有さないものと人間(例え鈍くても)とを同一次元で語っている点で、一種の詭弁とも言えそうです。

2)新興宗教にハマっている人について
信仰というものは、その教えを正しいと確信して初めて成り立つものです。仮に悪い教えだったとしても、少なくとも信じている人達にはそれがガンだという認識はない筈なので、比喩自体が成立していない気がします。

この回答への補足

修辞マニアですか。うーん、そうかもしれませんね。
ちなみに

1)の比喩を使ったのは
>「“あの人はウニなのだ” と思えば腹も立つまい」ということだと
>思います。でも、元来判断能力を有さないものと人間(例え鈍くても)と
>を同一次元で語っている点で、一種の詭弁とも言えそうです。

ではなく、鈍感な人は繊細な人を傷つけることがあるが、(映画のシザーハンドに出てくる手がはさみの人が動くだけで他人を傷つけるのと同じように)傷つける気はなくとも動くだけでそうなってしまう、ということを言いたかったのだと思います。判断力はあってもなくても外側に傷ができるかどうかだけでも同じことだと思いました。

2)の信仰宗教の話は、欠陥がある、と書いたとおり、そしてtareteruさんがおっしゃるとおり、「がん」は誰が見ても悪いものなのでよい比喩ではありませんが、「自分の奥深くにあって悪化しない限り害はないが、(教祖が変わったりして)悪くなる可能性もある危険をはらんでいる」ということを言いたかったのだと思います。

なぜ比喩を使うのか。やはりそのほうがわかってもらえそうな気がするからですが、深層心理はいまだわかりません。。。そういえば映画などを見ていてその根底にある「テーマ」を考えるのがすきです(例えばフォーレスト・ガンプの冒頭にでてくる鳥の羽は彼の人生であり、突風が吹いたり、車にひかれそになりながらもヒラヒラ、その時々に与えられた環境の中でがんばって飛んでいる、、ってことかな?等)そういうことにも関係しているのでしょうか。

補足日時:2008/02/13 02:44
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比喩で物事を説明出来るためには、その方に抽象化の能力が必要です。

この世の中に同じことは決して起こりません。必ずどこかが違っている物です。ですから、ある事象と他の事象の違いを指摘することは、誰にでも出来ることです。それに対して、全然違った物の間に共通点、それも、本質的な共通点を見出すことが出来るためには、かなり高度の知的経験がいるものです。今様に言えば、かなり高度のソフトウエアーがいると言うことです。このような抽象化の能力は、既に与えられ、かつ良く定義され た情報を如何に早く効率的に処理するかと言った、優れた官僚になるために必要な、所謂受験勉強で試されているハードウエアーの能力とは全く違った能力です。

もう一つ側面は、認識とは単に時系列として甲が乙を導き、乙が丙を導き、、、と局所的な整合性を認識することばかりだけが合理的な認識法ではありません。それも一つの合理的認識法には違いありませんが、この他に、全体を一望に眺め、個々の間の位置関係,あるいは相関関係を捉えて、はたして収まるべき所に収まっているのかということにこだわる絵画的認識法も、また重要な合理的な認識法です。

時系列的認識法では,どちらかと言うと前後関係の近距離的相関関係の認識に重きを置くので、経験はなくとも頭の回転の速いハードウエアーの良い方の得意とする所です。それに対して、絵画的な認識法は長距離相関を見抜く能力(あるいは、高度な抽象化能力)が要求されますので、ハードウエアーよりも、経験を思考し咀嚼してのみ得られる良いソフトウエアーを持った方が得意とする把握法でしょう。

私は理科系の専門家ですが、研究の創造的営みにはこの絵画的な抽象化能力、すなわち、いろいろ異なった事象の中ら本質的な共通項を認める能力、それゆえ必然的に、比喩的に表現出来る能力が不可欠です。

この回答への補足

なるほど。既に組み込まれているハードと後から足していくソフトの違いですね。こんなに専門的な視点から分析された回答をいただけるとは思ってませんでした。とても興味深いです。

ただ、chototuさんの
>創造的営みにはこの絵画的な抽象化能力
は tareteruさんの
>柔軟な発想が苦手なので、

と相反するような気がしますが、そのへんはどうなのでしょうか。

ちなみに私がよく使う比喩は、そんな高尚なものでもなくかなりバカらしいものなのですが、、例えば、

1)「繊細な人」VS 「鈍感な人」が衝突する時の比喩
⇒ 袋の中に「ゆで卵」と「ウニ」を一緒に入れて振った時、ゆで卵は
表面が傷つきやすくウニのイガイガでボロボロになるが、「ウニ」は相手が思っているほど悪気はない。ただ、元々体についているイガイガが周辺のものを傷つけるだけ。

2)新興宗教にハマっている人について
体の中に良性ガンを持っているようなもの。「ガン持ち」という自覚で普段から普通の人より健康に気をつかうため、健常者より自分へのケアがよくなるが、いつ悪性に変化するか不明 ⇒ しっかりした信仰のみを奨励される場合は生きる糧となりえるが、その宗教団体がいつ悪い方向に走るかは定かではない。

2)の比喩は少し欠陥があります。こんなアホな比喩でも「高度な抽象化能力」なんて使っているのでしょうか(^^;)

補足日時:2008/02/12 17:56
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> ただ、発想はいつも parukiaは発想がおもしろいね、とか人と


> 違う発想はどこから出てくるの?といわれることがあります。

なるほど。

ごく当たり前の話をする場合には、比喩というものはほとんど修辞の域を出ず、ある意味蛇足です(何かに例える必要がありませんから)。しかし、いわゆる「極論」や「画期的な意見」を展開する場合においては、その説得材料として比喩は実質的な意味を帯びて来ます。
「一見“奇なる考え”だ。が、視点を変えれば、実はよく理に適っている」
それを世間一般に納得させるには、類似ケースの集大成とも言える諺・故事等の中から適宜選択・引用して説明することが非常に効果的です。そういう場合に用いる比喩は、「常識の壁を破る起爆剤」と見ることも出来ると思います。

ただし、使い方によっては、本来不合理な考え方をあたかも理に適っているかのように錯覚させることも可能です。一歩間違うと反対意見の封じ込めや、大衆煽動の道具にもなりかねません。その意味で、比喩というものは一種の麻薬と言えそうですね。ある意味、使う人の良識が問われる文章テクニックだと思います ( ^^
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#2の回答者です。


私は理系卒なのですが、ひとつ思い浮かびました。

比喩ができる能力は、算数や数学の文章題を作成するのに必要です。

まったく違う話のようで、本質的には同じ話になることがあります。
物理などを学んでいても、時々似たような局面に出会います。
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この回答へのお礼

sanori さんのご回答とても参考になりました。

私は完璧な文系で理系はまったくだめなのですが、小学校の頃 文章題が得意でした。それから代数は大の苦手だったのですが、「これがこうなのでこれはこうなる、したがってこう導きだすことができる」というふうに解答する幾何学が得意でした。また大学の時とったロジックのクラスではとても成績がよかったです。

こう考えてみると 比喩を使う能力 = 豊富な知識と、それを自身の経験に照らし合わせて*論理的に*導く能力 という感じですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/12 03:38

ANo.5です。


たとえ話をして、相手にわかってもらおうとする人は、教養の高い人です。
相手の思考回路を想像して、それに合った説明の仕方ができる柔らかい頭の持ち主ですね。
外国へ行って、その国の人にある物事について説明を求めたとします。
教養の高い人だと、こちらに合わせてわかり易く説明してくれます、比喩もまじえて。
教養のない人だと、相手がわかろうとわかるまいと、同じことばっかり繰り返して言います。まるで猪武者に突っつき回されているような感じになります。
たとえ話になっちゃったかな? わっはっは。
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この回答へのお礼

>たとえ話をして、相手にわかってもらおうとする人は、教養の高い人です。
うーん、教養はあまりないと思いますが、専攻が言語学だったので、国語関係に強いのかもしれません。

>柔らかい頭の持ち主ですね。
これはtareteruさんの「頭が固い」というのと反対意見ですね?

>たとえ話になっちゃったかな? わっはっは。
いえ、おもしろいですね、ワッハッハ ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/12 03:31

おっと、話が中途で終わってしまっていました ( ^^;



> 別の見方をすれば、例え話が多いのは「頭が固い証拠」とも言えます。
の続きです。

頭が固い人は柔軟な発想が苦手なので、とかく物事を型にはめたがります。他の例を引き合いに出して、「だから、これについてもこうなんだよ!」と強引に相手を説得しようと試みるわけです。特に先入観が強い人によくある傾向です。
もちろん、例え話を好む人が必ずしも頭が固いとか先入観が強いというわけではありませんが、その手の人が理論武装の道具として、例え話を多用する傾向にあるのは否定できません。
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この回答へのお礼

tareteruさんのご回答とても参考になりました。
やはり40代と歳を重ねて経験も豊富になってきたことが関係していると思います。またどちらかというと一般化してしまうほうで、自分の考えが絶対正しい、と思ってしまうこともあります。ただ、発想はいつも parukiaは発想がおもしろいね、とか人と違う発想はどこから出てくるの?といわれることがあります。

でも経験+知識+先入観が強いというのは本当だと思います。やっぱり人に聞いてみるもんですね。ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/12 03:27

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