三国志
演技だと諸葛の北伐の時に、魏と蜀の国力が拮抗に思えてしまいます。
実際は、魏のが
秀吉が北条攻めするときくらい力が違ったなんて聞きますが、
・実際そうなんですか?
・国力の推多的なサイトや、主にぐんじりょくについて書いてあるサイトがあったら教えてください。
正史限定でお願い申し上げます。
回答(6件)
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No.6ベストアンサー10pt
演技だと、そう見えますね。
でも、よくよく考えると、魏の西側の一部隊と蜀の全力で戦ってるようなものですよね。
「もともとは、魏の土地は戦争が多くて、人口も少なくなっていて、土地も荒れていました。それに比べ、人口も多い都市があり、豊かな荊州と益州を領地にして、しかも呉と強力すれば、魏と戦える。」
ってのが、諸葛亮のもともとの作戦ですから、益州しかないし、魏は屯田制等で、国力人口が回復している北伐時には、すでに破綻してます。
攻撃することによって、防御していた状態ですね。
この回答へのお礼
皆様方、回答誠に有難う御座います。
大変勝手ではありますが、無知さが露呈しそうなので・・・・・・
御礼を一纏めにさせて頂きます。
魏は黄巾の乱や数々の戦乱で荒れ果てていますからね。
中原を制覇しても相次ぐ反乱や戦ばかりで国力が圧倒するほどあったとは思えません。
住民虐殺やイナゴなどの自然災害にも見舞われ魏の内政は大変だったと思います。
当時の財政状態を考えればそれほど大差はなかった感じがしますね。
そんな中、資産状態では荊州、益州、漢中と戦火の少なかった地域を自軍の損害を少なく手に入れた劉備は一時的には最高勢力だったようですね。
蜀の隠れた生命線は蟲だったそうですね。
極端に言えば、農作物を育てず蟲を育てて、軍隊に必要な兵や食料を供給しない民衆を戦争屋は嘲笑したのではないでしょうかね。
あえて中央ではなく北伐が西よりになったのは蟲の為だとか。
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column17.html
ここによれば 戸数 人口
呉大帝赤烏五年 242 532,000 2,400,000 『晋書』地理志。
蜀後主炎興元年 263 280,000 940,000 『通典』食貨七。
魏元帝景元四年 263 663,423 4,432,881 『通典』食貨七。
人口で蜀を1とすると 呉が2.5 魏が4.5 という感じですね。
蜀や呉の統一可能性
天文学的というのが、どういう感じか分かりませんが、軍事には時として天才が生まれます。そして少数民族が中国を統一したこともたびたびあります。ただ、総力戦的な戦いをすれば、強大国が順当に勝ちます。その方策をとったのが、司馬仲達ということになります。
#2です
劉備は本来 蜀に根拠はありません
赤壁の戦いの後で 蜀を乗っ取ったのです(劉備にはそこしか根拠にするところが残されていなかったのです)
三国志演義は 三国志の約千年後にまとめられたものです
民衆の願望が多々盛り込まれています
三国志では 諸葛孔明は 司馬仲達に押されっぱなしです
三国志関係の書籍は多数入手可能です いくつか入手してお読みになるのがよろしいでしょう
魏と呉と蜀の国力は 9:3:1 程度と言われています
当時の勢力図をご覧になってください
三国志の記述も
魏書30巻
呉書20巻
蜀書15巻です
この魏書の東夷伝 倭人の条 に ヤマタイ国の記載があることはご存知ですね
この回答への補足
演技だと孔明殿の鬼謀で魏軍は散々な事になってますが
>>魏と呉と蜀の国力は 9:3:1
ちょ・・・蜀弱!!
愚問かもですが、蜀や呉が魏を倒し統一は、天文学的な確率って事ですか?
演技だと孔明殿のおかげで頑張れそうなのに、
実際は、いつでも滅ぼせたというのか・・・・
この回答へのお礼
>>当時の勢力図をご覧になってください
少なくとも領地的にはそんなに差が広がってないように見えるが・・・
でも、no1さんがいったように偏狭の地、人材が乏しいなどが理由としてあるのか
あれ、でも、劉邦って蜀に左遷されなかったけ・・・
(そういう意味で防衛や国力を高めるのにはいいところなのか?)
No.1ベストアンサー20pt
・実際そうなんですか?
↓
はい 私見ですが
戦いの結果からも明らかですが
他の条件で推測してもそうなります
・蜀は面積が小さい
・蜀は山が多いので作物が多くは取れない
ということで、当然 国力は充実・増強できません
対して魏は
・面積が大きい
・長江、黄河などの大きな川があるので
平野も多く、土地が肥沃である
・海に近いので海産物がとれる
しかも貿易ができる
・魏の中に長安(そして洛陽、北京、天津なども)があり
もともとの首都地域であるので人口がもともと圧倒的に多い
ということで
人口やGDPで比較してみると数倍の開きがあったと思います
(各正史にはそこまで具体的にはかかれたものはないでしょうが)
結局は 蜀はそもそも豪族が見向きもしないような土地だったわけで
豪族が密集している 魏 や 呉 の土地をいきなり奪い取るのは
無理があるとして 諸葛孔明は まずは手薄な蜀地方を手に入れて
そこを育成していき 魏に対抗しうる国力を創りあげて
いくとの計画だったのでしょうが、魏の国力に追いつく前に
寿命がつきてしまったということだと思います
北伐は寿命の迫った孔明が 魏 を一度は脅しあげて
おかねば という思惑のもとで出兵し 願わくば赤壁の戦いのように
短期決戦で 魏へ大打撃を与えたいと考えたのでしょう
国力的には、とても勝てないと判断はできていたと思います
思いがけず、長期戦にもつれこんでしまい
孔明は戦いの途中で死亡します
小田原・北条氏といえば、もともとは北条となんの関係もなかった
北条早雲が国をのっとってつくりあげた大名です
かたや秀吉は首都・京都と大阪、尾張という大産業地域を
基盤としていますから その点でも蜀と魏の力関係を
相似的に表しているのかもしれません
この回答への補足
愚問かもですが、蜀や呉が魏を倒し統一は、天文学的な確率って事ですか?
この回答へのお礼
>>諸葛孔明は まずは手薄な蜀地方を手に入れて
>>そこを育成していき 魏に対抗しうる国力を創りあげていくとの計画だったのでしょうが
随分厳しい計画だったんですね・・・
孔明殿が軍事や臨機応変に対応する事は得意でなかったのは知っていますが
それと関係なくても、無理っぽさが異常に漂っている・・・・・・
でも、それくらいしか善い策は無かったのかもな・・・
>>基盤としていますから その点でも蜀と魏の力関係を
>>相似的に表しているのかもしれません
へ~・・・的を射た比較だったんですね・・・
ネットで適当に聞いた言葉だから・・・
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