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先日亡くなった桑原甲子雄氏の「私の写真史」という本を読んでいたら、以下のような文章がありました。
「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」(本書39ページ)

たしか、小林秀雄は戦争が終わったときに、
「戦後の言論に迎合し「進歩的文化人」に変貌したり懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」(Wikipediaより)そうですが、当時、同世代の人たちは、この発言に関してどう感じたのでしょうか。
桑原氏の文章を読むと、この「僕は馬鹿だから反省しない」だけでは、小林秀雄の一種の戦争責任?は済まされないと、同世代の人たちは考えていたのではないかと思いましたので。
お詳しい方、ご教授をお願いします。

A 回答 (7件)

いくつか要点をかいつまんでいきたいと思います。



まずご質問の前提となる
>「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」
がどういう趣旨の発言であるかを押さえておきたいと思います。
この部分に関しては饗庭孝男の『小林秀雄とその時代』(文藝春秋社)についてから引用します。

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 彼は『モオツアルト』を発表した年の二月…『近代文学』派のグループの人たちと「コメディ・リテレール」という座談会を行った。そのなかで戦争にたいする態度を本多秋五に問われて「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙つて処した。それについて今は何の後悔もしてゐない」とのべ、省みての、仮定にもとづいた歴史観をもつことができないとのべ「僕は歴史の必然性といふものをもつと恐ろしいものと考へてゐる。僕は無智だから反省なぞしない。利功な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」とかたっている。

 この問題について、後に彼は「政治と文学」(昭和二十六年)のなかでマルクス主義文学運動の盛んだった折りに「清算」という言葉が使われたことをとりあげ、ほとんど開き直った形で、いかなる反省もする必要を感じていないとのべている。さらに「感想」(昭和二十六年)のなかでもふたたびこれにふれ「凡ての大思想は、その深い根拠を個人の心の中に持つといふ事が信じられ」なければならないと言う。これらの発言を逆に考えれば、一個人の思想の連続性こそよく大思想をつくるものである、という意味にもなろう。小林が信じたことは、戦争の勝敗のいかんにかかわらず、個人の思想の連続性は保たれねばならないということであり、戦争は「生ま身」の存在が演じた劇である以上、「後になつて清算すれば事が済む様な一政治的事件ではなかつた」(「感想」)ということになる。この考えが、戦後の「文化」という言葉のつかわれ方にたいする根本的な懐疑の念であり「文化の死んだ図式により、文化の生きた感覚を殺」(「政治と文学」)す戦後へのつよい不信の念にもつながっていることは言うまでもない。

「文化は断絶的に反省され、計画的に設計されるものではない。(中略)何を置いても先づ私達に持続的に生きられるものだ」(「政治と文学」)
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つまりこの小林秀雄の発言は、「個人の思想の連続性」という文脈のもとに理解されなければならないのであり、「利功な奴はたんと反省してみるがいい」という批判の矛先は、先の回答でも述べたように、時節に応じて「様々なる意匠」を身にまとう「マルクス主義者」に向けられたものと理解するのが当然でしょう。

この発言に関して、いくつかの本を当たってみましたが、これに対して誰が反論した、という発言を見つけることはできませんでした。
それを質問者さんがおっしゃるように

> 私から見るとなんとなく批判を許さないような印象がありました

というふうに見るのは、妥当性を欠くのではあるまいか。少なくともわたしは質問者さんがおっしゃるようには思いません。
小林のこの発言は、非常に首尾一貫したものであり、

>「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」

という部分だけとりあげるのは、むしろ揚げ足取りに近いように思います。


その2.「近代の超克」座談会の問題

> 「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」

この桑原甲子雄の文章は、かなり誤謬を多く含んでいるように思います。
桑原甲子雄がこの座談会について、どこまで正確な知識があったのか、非常に疑問に感じざるを得ません。むしろ正確な知識を欠いたまま、風聞に基づいて決めつけているように思えます。

まず「近代の超克」座談会がどういう性格のものであったか。
当時『文学界』は様々な分野の専門家を一同に集め、個々に専門化してしまっている知識人や芸術家の壁を取り払って話し合いの場を持つ、ということが頻繁に行われていました。
「リアリズムに就いて」(1934/9)「現代小説の問題」(1936/7)「詩と現代精神」(1936/8)「政治と文学」(1924/8,1937/3)……。
1942/9-10に連載された「近代の超克」というのもその流れにあるものでした。

座談会が開かれたのは、1942年7月です。ここに参加したのは十三名、司会は当時の「文学界」編集長の河上徹太郎。
彼はこの会合の目的をこのように述べています。

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 私の出題は必ずしも利口でなかつたやうです。実は、「近代の超克」といふ言葉は、一つの符牒みたいなもので、かういふ言葉を一つ投げ出すならば、恐らく皆さんに共通する感じが、今がピンと来るものがあるだらう、さういふ所を狙つて出して見たのです。(……)

吾々は、かういふ言葉を許されるならば、例へば明治なら明治から日本にずつと流れて来て居るこの時勢に対して、吾々は必ずしも一様に生きて来たわけではなかつた。つまりいろいろな角度から現代といふ時勢に向かつて銘々が生きて来たと思ふんです。いろいろな角度から生きて来ながら、殊に十二月八日以来、吾々の感情といふものは、茲でピタツと一つの型の決まりみたいなものを見せて居る。この型の決まり、これはどうにも言葉では言へない、つまりそれを僕は「近代の超克」といふのです。
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このように呼びかけ人である河上徹太郎自身が「近代の超克」というものものしい言葉について、十分な思想的裏付けを持っていなかった。「ピタツと一つの型の決まり」と言われても何のことやら、という印象はぬぐえません。

さて、小林秀雄はこれに対してどう言っているか。

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近代の超克といふことを僕等の立場で考へると、近代が悪いから何か他に持つて来ようといふやうなものではないので、近代人が近代に勝つのは近代によつてである。……

僕としては、古典に通ずる途(みち)は近代性の涯(はて)と信ずる処まで歩いて拓けた様に思ふのです。……

西洋の個人主義がいかんとか合理主義がいかんとか言ふが、西洋の傑物はさういふものと戦つて勝ってゐるといふ事を見る方が大事な事ぢやないか。個人主義時代には個人主義文学があるといふ浅薄な史観にちよろまかされてゐるから、そんな事を騒ぎ立てるのだ。西洋の近代は悲劇です。だから立派な悲劇役者はゐるのである。これをあわてて模倣した日本の近代は喜劇ですよ。……傑物は時代に屈服はしないが、又、時代から飛び離れはしない、あるスタチックな緊張状態にある。さう考へると東西古今に亙つた古典或は大作家といふものの間に非常に深刻なアナロヂーが僕に見えて来たのです。さういふ立場から観ると、歴史を常に変化と考へ或は進歩といふやうなことを考へて、観てゐるのは非常に間違ひではないかといふ風に考へて来た。何時も同じものがあつて、何時も人間は同じものと戦つてゐる――さういふ同じもの――といふものを貫いた人がつまり永遠なのです。

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これだけ引いただけではわからないのですが、この座談会での小林秀雄の発言はきわめて限られています。
では、この座談会が、「近代の超克」という言葉とともに、なぜ「伝説的に有名」(廣松渉)になったのか。

廣松渉は『〈近代の超克〉論』(講談社学術文庫)のなかで、小林の発言を引きながらこのように書いています。
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もし『文学界』の同人たちだけで座談会を開いたのであったならば、シンポジウムはおそらく「近代の超克」という標題とはおよそ似つかわしくない議論に終始したことであろう。

 ところが、招聘を受けた京都学派の鈴木成高、下村寅太郎や、吉満義彦といった人々は、「近代の超克」というテーマを真正直に受取り、論文も提出し(…)その線で発言したのであった。――彼らは、河上徹太郎の冒頭発言に接しておそらくや唖然としたことであろう! ――そして、その文脈に繰り込まれた限りで、さらにはそれが京都学派の他所における主張や日本浪漫派の保田輿重郎(彼は出席を約束していたが座談会には欠席)の立言と相補的に理解された限りで、件のシンポジウムが総じて「近代の超克」論として受け取られ、絶大な反響を呼んだという次第なのである。

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ここでは京都学派や、あるいは保田輿重郎の思想にふれておくことはしませんが、桑原甲子雄の発言

> 「昭和十年代は「近代の超克」ということがいわれ、『文学界』という雑誌で三木清等による大座談会がもたれたことを記憶している。このことでは、小林秀雄の名も逸することができない。小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である。」

がいかにその実態に反したものであったか、ご理解いただければ、と思います。

小林秀雄がその座談会に参加した他の人びとと、思想的にどれほど隔たっていたかをさらに詳しく述べてもかまわないのですが、ここではそれをしません。

ただ、この小林秀雄の発言が与えた影響として、二宮正之の『小林秀雄のこと』(岩波書店)には竹内好の『超克』から、召集令状をうけた学徒兵の証言の引用がなされています。孫引きになりますが、その部分をここで再度引きます。大カッコ内は二宮の注記です。
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〔私は〕十年前の昭和十七年十月号の同じ『文学界』を取出してみた。そこには「近代の超克」と題されているかなり長い座談会が掲げられていた。〔……〕十年前、青年たちは、それをむさぼり読んだ。雑誌というものがほとんど姿を消した時代であった。〔……〕そして、『文化綜合会議〔知的協力会議〕 近代の超克』という単行本が、そのころのガラガラにあいた本屋の奥に積まれたころ、日本中の文科系の学生たちは、兵営に、戦場に、そのまま送りこまれたのであった。学生たちは、じぶんたちを見送る「学徒出陣」の旗と「近代の超克」という悠長な座談会とのあいだには、なんの関係もないのだと信じていたにちがいなかった。あるいは、「何時も同じものがあつて、何時も人間は同じものと戦つてゐる――さういふ同じもの――といふものを貫いた人がつまり永遠なのです」という小林秀雄の発言などが、兵隊服をきせられた若い学生たちの、良心をささえる唯一のものであったかもしれない。(仁奈真「一〇年目――「現代日本の知的運命」をめぐって」。『超克』二七七―七八、竹内好の引用による)

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桑原甲子雄の文章の背景には、おそらく竹内好の『超克』のこの部分があったのでしょう。
ただ、この文章をもってしても「小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった」とまで言えるのだろうか、という疑問はぬぐえません。

ぞの3.戦争責任ということ

まだまだわたし自身の考えもよくまとまっているとは言えないのですが、「戦争責任」ということを考えるとき、ヤスパースの分類はひとつの目安になるでしょう。

ヤスパースは「刑事的な罪」「政治的な罪」「道徳的な罪」「形而上的な罪」に分類しています。

ここで注意しておかなければならないのが、「政治的な罪」です。『戦争の罪を問う』(平凡社ライブラリー)のなかでヤスパースはこのように言っている。

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近代国家においては誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて、政治的に行動している。政治的に問われる責任というものの本質的な意味から考えて、なんぴとも、これを回避することは許されない。

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つまり、この意味で「政治的な罪」は、戦争を起こした戦争指導者たちの罪、政治家や官僚だけでなく、「国民」であるかぎり、政治的な責任を持つことを免れ得ない、とヤスパースは言っているわけです。

先の回答で文学者すべてに戦争責任があった、と書きましたが、それはこのヤスパースの「政治的な罪」を含意しています。

「わたしたちは知らなかった、教わらなかった、だまされていた」という言い方があります。確かに戦争に参加したことで、敵を殺したり傷つけたりという「道徳的な罪」は負ったかもしれない。けれどもそれはしかたがなかったのだ、という立場です。「インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった」という文章も、それと軌を一にするものでしょう。

けれども、知らなかったことで免責されうるのか。

逆に言うと、わたしたちの行為は、どこまで自分が「知って」「理解して」「教えられて」なされているのでしょう。たいがいのことは、情況の必然に迫られて、深く考えることもなく、一般通念によりかかってなされているにすぎない。

たとえばわたしは以前、鶴見俊輔が書いていたのをどこかで読んだことがあるのですが(本を探したんですがこれは見つかりませんでした)、鶴見は、敵に遭遇した際に、相手を殺すより自殺しようと考えて、毒を携帯していたそうです。
彼がそうしなかったのは、というか、そうしなくてすんだのは、単なる偶然にすぎません。
それに対して、そういう考えを持つにいたったのは、鶴見の思想のあらわれであるように思えます。けれども彼が「鬼畜米英」と思わず、そういう思想を持つことができたのは、彼が若くして渡米し、ハーバードで学んだことと無縁ではなかったでしょう。つまり、それもまた偶然とはいえないのか。

わたしたちは自分の意志で行動していると思っているけれど、実際のところ、自分の意志など行動に当たってはたいした役割など果たしていないのです。あるいはまたここからは「自分の意志」である、と思っているようなことでさえ、多くは、そういうことを考えることができる立場に恵まれていたからにすぎません。

では、どういったときに「自由意志」が問題になってくるのか。
わたしが非常におもしろいと思うのが、柄谷行人の『倫理21』(平凡社)です。
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 責任は、われわれが自由である、すなわち自己が原因であるとした時にのみ存在します。現実にはそんなことはありえない。私が何らかの意図をもって行動しても、現実にはまるでちがった結果に終わる場合がある。しかし、その時でも、あたかも自分が原因であるかのように考える時に責任が生じるのです。では、どのように責任をとるのか。それは、謝罪や服役、自殺というようなことだけではないと思います。

 ……もう一つの望ましい責任の取り方は、この間の過程を残らず考察することです。いかにしてそうなったのかを、徹底的に検証し認識すること。それは自己弁護とは別のものです。

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こういう脈絡で考えるならば、思想の連続性ということを終生ねばり強く考えていった小林秀雄のあり方も、また、戦争責任という問題に応える態度であったように思います。

「近代の超克」に関しては、わたしはこれまで座談会のあと、その席上でほとんど発言しなかった中村光夫が事後に提出した「近代の超克」という概念そのものに対する違和感を表明した文章しか読んだことがなかったので、この質問を機会に、いろいろ読むことができました。質問者さんが機会を与えてくださったことに感謝します。
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この回答へのお礼

ghostbuster様、いつもご教授くださり、ありがとうございます。私も人並みに年度末からまとまった時間が取れなくなり、ここまで放りっぱなしにしてしまいました。

「近代の超克」は、私も読み始めていたのですが、ある部分まで来ると、いつもついていけなくなる部分があって、結局挫折しました。例えば、(西欧)近代文明に対する批判については、なるほどと思うところもあるのですが、その解決として提示されるのが、皇国思想的な背景のある意見だったり(理性的なかんじでしたが)で、そこで私の理解を超え、いわゆる「バカの壁」(自分の中に立ちはだかる、他者への理解の限界)を痛感しました。

さて、大変きれいに分かりやすく説明していただき、誠にありがとうございます。ようやく、当時の発言の背景と、発言の文脈が分かってきました。

桑原氏については、写真の面ではもっと大きく評価されるべき方だと思っておりますが、(写真の評論を除く)言語の世界に関してはもともと期待すべくもないといえると思います。
ただ、今回の小林秀雄に対するような一種の曲解が、桑原氏に限るものだったのか、気になるところではあります。

戦争責任については、難しいです。
ただ、以下の部分について。
> もう一つの望ましい責任の取り方は、この間の過程を残らず考察することです。
> いかにしてそうなったのかを、徹底的に検証し認識すること。
作家の宮内勝典氏が、イラク戦争勃発のときに、「多くの人が反対したが、それでも戦争を止めることはできなかった。できることはほとんどないかもしれないが、それでも考え続けなくてはならない(大意)」と書いていたことを思い出しました。

蛇足ですが、
> 私から見るとなんとなく批判を許さないような印象がありました
というのは、あくまでも私が小林氏自身に対して20数年前に持った印象であって、今回のテーマに関するものとして書いたわけではありませんのでご注意ください。しかし、本居宣長を書いたときの、マスコミの持ち上げようは記憶に残っています。それが、自分でも気がつきませんでしたが、なんとはなしに小林氏に対するうっすらした反感になっていたのかもしれません。

以上、まとまらないのですが、とりあえずはお礼方々、質問を締め切りといたします。ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/07 18:28

補足欄・お礼欄共に拝見しました。



わたしは論争を求めて補足要求をしたのではありません。あるいはまた、質問者さんのお考えを批判するためでもありません。
わたしは以前から、「戦争責任」ということを考えるとき、それを言う「自分」も、その責任のなかに入っていくということが、何よりも大切だというふうに考えていました。

ところが新聞でもTVでも、あるいはネットでも、自分がその「戦争責任」ということをどう考えていくか、一番肝心なことを不問にしたまま、戦争中、あいつはあんなことを言ったじゃないか、こんなことをやったじゃないか、とあげつらうことをもって、「戦争責任」を追求したような気になっている、そういう人があまりにも多いように思えて、いつもなんとも言えない気持ちになっていたのです。

「戦争責任」を口にする自分は、そのことをどう考えているのか。
すべてはそこから始まるのだと思うんです。
誰かの行為、どこかの国の批判を始める前に、そうする自分はいったいどう考えるのか。そういう自分の責任を担うことによって、初めて誰かの、あるいはどこかの国の「戦争責任」が云々できるのではないか。
さまざまな本を読み、少しずつ自分の考えを作っていく。それが責任のなかに入っていくということだと思うんです。

簡単に結論のでることではありません。わたし自身、よくわからないことがたくさんあります。それでも、わたしはこのことは自分自身の問題として、時間をかけて考えていこうと思っています。

わたしが補足要求を出した真意はそこにありました。
「戦争責任」という言葉が曖昧に指し示す一般的な通念によりかかって、誰かの行為を断罪するようなそういう人は、正直、あまり関わりたくないと思ったんです。

それをこのようなかたちできちんと向き合ってくださって、わたしはとてもうれしいし、感謝しています。ありがとうございました。お返事を楽しみにしています。

さて、話は小林秀雄に戻るんですが、件の「ぼくは反省などしない」というのは、雑誌「近代文学」の座談会の席上の発言のようです。座談会だと、たぶんその当時のリアクションみたいなものはわかると思うので、ご質問の回答も、なんとかひねりだせるかもしれません。わたしもここらへんは詳しいわけでもなんでもないので、ぼちぼちと調べてみたいと思っています。
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ごめんなさい、あともうひとつ忘れてました。


先の補足のお願いに加えて、質問者さんがお考えの「戦争責任」に関して、その責任の取りかたというのは、どういうものであると考えておられるのか、ということも、お考えをお聞かせください。

あわせて教えていただければ、回答がしやすくなるので、よろしくお願いします。
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お礼欄・補足欄ともに拝見いたしました。



どうも「戦争責任」という言葉のとらえ方が、質問者さんとのわたしとではずいぶんちがっているように思います。
まず、質問者さんは「戦争責任」という言葉を、どのようなものと考えておられるのか、そのご説明をお願いします。
そこのところをはっきりさせてくだされば、それに即した回答もできるように思いますので。

この回答への補足

さて、こういう人たちに対して、そもそも「戦争責任を問えるのか」という問題があります(ただし、「人道に対する罪」という視点からは、民間人の無差別殺人等、たとえ命令であっても許されざる行為はあると考えます)。桑原氏は戦前はアマチュアカメラマンでしたから、どちらかといえば水木氏や柳昇師匠の立場の人でしょう。

と、ここまで書いてきましたが、私は別に小林秀雄を断罪したり攻撃したりするつもりはありません。何しろ故人だし。ただ、20年以上前、私が受験生であったころ、雲の上の人であったという印象があったり、とはいいながら「考えるヒント」のなかの食堂車で乗り合わせた人形を抱いた夫婦の話には感ずるところがあったりもし、私の中で彼をどう捉えるべきか、考えあぐねている部分があります。

考えをまとめ、また書いてみますので、もう少し時間をいただくことをお許しください。

補足日時:2008/03/18 23:56
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この回答へのお礼

ghostbuster様、たびたびのご回答ありがとうございます。

では、以下の件に関して少々書いて見ます。
>「戦争責任」という言葉のとらえ方
>「戦争責任」に関して、その責任の取りかた
私も、現在の視点から過去を断罪するようなことはしていけないと思っていますが、このようにも考えます。もし私が当時生きていたとしたらどうしただろうか、と。だから、戦争責任という言葉について、一般的な意味とは違う内容で考えているかもしれません。

一般に「戦争責任」という場合、(1)「国家を戦争に導いた責任」もしくは(2)「戦時においてなされた事柄についての責任」という意味があるのではないかと思います(もっとあるとは思います)。前者においては、国家指導層(政治家以外も含まれるか?)およびそれを支持(積極的に、もしくは黙認)した国民も責任の対象となるかもしれません。一種の共犯者ともいえるのか。
後者においては、他国民に対しての戦争犯罪などがあげられるでしょうが、それ以外にも戦争遂行のためのさまざまな行動も入るのではないかと思います。

私のような政治に参与することも少ない立場では、(1)について、自分が、戦争を進める指導層を支持してしまったという責任を考えるでしょう。(2)については、どうでしょうか。徴兵拒否するほどの根性もなく、かといって戦場で役に立つタイプでもなく、場当たり的にその場をしのぐことしかできないように思います。また戦場に行かなくても、戦争に表立って反対もできず、裏で愚痴るだけかもしれません。
後者についてさらに言えば、例えば、坂口安吾は「ぐうたら戦記」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42917 …
を読む限りでは、戦争について積極的に賛成も反対もせず、流れに身を任せていたようです。しかし、国策の映画会社にいたので一種の戦争協力者ともいえるでしょうが、彼をそのように批判している文章はあまり読んだことはありません。
またインテリではないでしょうが、水木しげるの随筆やら春風亭柳昇「与太郎戦記」を読むと、戦争に行くのは気が進まないが、勝てばうれしいし、負けてくれば困る、というごく普通の人々が出てきます。

以下、「回答の補足」へ続きます。

お礼日時:2008/03/18 23:55

先の回答で書き忘れていました。



>「戦後の言論に迎合し「進歩的文化人」に変貌したり懺悔したりする知識人らを尻目に、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない。」と言い切った。」

という小林の発言の典拠はよくわからないのですが、おそらくその背景には、先にもあげた小田切の糾弾があったことと思います。

加藤周一の『日本文学史序説(下)』にはこうあります。

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小林秀雄は、自己周辺のマルクス主義者たちを、理論と人間との結びつきという一点において、攻撃した。その結びつきは、浅い。理論は借りものであり、次々に外国から輸入される流行であって、要するに「様々なる意匠」(一九二九)の一つにすぎない。この考え方は、小林自身が渦中にあった両大戦間の日本の文化的状況を、――少なくともその一面において、深く洞察していた。果して多くのマルクス主義者は、軍国主義の時代が来ると軍国主義に同調し、敗戦後には平和主義者になったのである。しかし小林は、単に周囲の大勢順応主義を批判したのではなく、生活と思想との密接な結びつきを強調しながら、また独特の美学を作りあげた。
----

おそらくこの発言もこういう文脈に置いて読むべきであろうと思います。

この回答への補足

なお、付け加えると、桑原氏は満州に行って撮影したりしているので戦争協力者ともいえるのですが、かといって積極的に戦争に賛成していたのでないことはその写真を見れば察せられます。

補足日時:2008/03/13 23:09
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この回答へのお礼

Ghostbuster様、ご返答ありがとうございます。
ご自身ではお気づきではないかもしれませんが、たびたび私の愚問にご回答くださり、ありがとうございます。初めての花粉症?(風邪と思いたい)で体調をくずしており、御礼が遅れました。

さて、当初の質問では足りなかった補足情報を添付します。
桑原甲子雄氏は、昨年亡くなった写真家です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%8E%9F% …
この記述はそれほど問題がない穏当な解説になっていると思います。

しかしここで私が質問したいのは転向問題が中心ではありません。これは文学者には重大問題でしょうが、一方に読者というものがいます。
戦前から、(知識人とはいえないまでも)読書人とでもいうような層にも影響力を持っていた小林の文章・発言は、結果的に人々の考え方を戦争の方向へ向ける役目を果たしていたのではないか、と桑原氏の発言から想像しました。それは彼一人の責任ではなく「近代への超克」に関係する人も含めての話です。
そして、小林氏の戦前・戦中の発言を真に受けた人は知識人以外にもいるのだが、戦後の「僕は馬鹿だから反省しない」という発言は共産主義者をも含む知識人に対するものであったように思えます。だから、桑原氏の言わんとすることを私が曲解しつつパラフレーズすると以下のようになります。
頭のいい人同士、知識人の間だけ(=文学村のなかだけ)で「反省しろ」とか「馬鹿だから反省しない」とか言っているけれど、あなたの文書を真に受けた普通の読者に対してはどのように言うつもりですか。それとも、「馬鹿だから反省しない」だけで済ませるつもりですか? たしかに自分たちも戦争に積極的に反対したわけではないので他人のことを言えた義理ではないけれど、発言力のある知識人ならばそれなりの責任の取り方やものの言い方があるのではないですか。

桑原氏は文章や写真を見るかぎり落ち着いた人柄だったように思えるのですが、「小林は保田(※与重郎)と並んで、インテリ層を戦争に傾斜させていった役割をになった人である」という文章を読むと、静かな怒りがあるように感じられたというのが、今回の質問の発端です。そして、それが一般的なものなのか、桑原氏特有のものであったのかが知りたいわけです。

お礼日時:2008/03/13 23:08

> 当時、同世代の人たちは、この発言に関してどう感じたのでしょうか。



これは回答ではありません。
このご質問に対する回答をわたしは持たないからです。小林のこの発言に関して、具体的に誰かが何らかの見解を明らかにしたかどうかの知識を持っていません。

そのうえで、ご質問から感じた印象を述べさせてください。

まず、ご質問にはこの観点が欠落しているように思います。

戦後を生きて迎えた文学者は、

・戦争中非転向を貫いて獄中にあった
・戦争中転向し戦争に協力した
・戦争に協力した
・従軍して生きて復員した

上記のいずれか以外の選択肢はなかったのです。
つまりは獄中で戦後を迎えた、あるいは弾圧によって獄死した小林多喜二らをのぞけば、全員がなんらかの形で戦争に協力したのです。

それをあたかもそれ以外の一種客観的な立場がありえたかのようなご質問の前提は、まず無意味かと思います。

わたしは桑原甲子雄の経歴を知りませんので、この方にいったいどのようなお考えがあってこうしたことを書かれたのかわかりませんが、それにしてもこの文章は、あまりに自分自身の責任問題を棚上げにした発言に思えてなりません。

もちろんその戦争協力の仕方はさまざまだったでしょう。「巧妙なる無活動」が可能だった人もいれば、時局に迎合的な言動をせざるを得なかった人も、あるいは「大政翼賛界」の文字通り一翼を担った人もいたでしょう。けれども、ある人が「それ」をしなかったのは、その置かれた条件によるものでしかありません。単なる偶然でしかない。
問題は、その「偶然」を、その人がいかに自分の責任として引き受けていったのか(あるいは五十歩逃げた自分を棚上げにして、百歩逃げた人物の責任を糾弾したのか)ということではないか。
この「戦争責任」の問題を見ていくときに、わたしたちがまずふまえておかなければならないことはその点であろうかと思います。

実際にご質問にあるように、小林秀雄を始め、菊池寛、河上徹太郎、佐藤春夫、武者小路実篤、亀井勝一郎らは実名をあげられてその戦争責任を糾弾されてもいます。
ただ、それは『新日本文学』という雑誌での糾弾でした。

1945年12月、新日本文学会という団体が、宮本百合子や中野重治らによって設立されます。そうして中央委員に小田切秀雄が選出される。
彼らは共産党系の文学者です。さらに、戦前に転向し、戦時中には消極的ないしは積極的に戦争に協力した人々です。彼らは戦後、共産党に復帰します。そうすることで、「転向」の責任を自分たちは果たし得た。だからこそ、戦争協力者への責任を糾弾できる、と考えたのです。

「特に文学及び文学者の反動的組織化に直接の責任を有する者、また組織上さうでなくとも従来のその人物の文壇的な地位の重さの故にその人物が侵略賛美のメガフォンと化して恥じなかつたことが広範な文学者及び人民に深刻にして強力な影響を及ぼした者、この二種類の文学者に重点を置いて」(『新日本文学』1946年6月号)この25名を糾弾したのでした。

> 小林秀雄の一種の戦争責任?は済まされないと、同世代の人たちは考えていた

人々は、そういう人たちでもありました。

ただ、この問題は「転向論」として、単純に転向しなかった者を善、転向した者を悪と見なしうるのか、という観点から、これ以降も問題となっていきます。
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反省しないなら責任は残っているに決まっています。


同世代であってもなくても判断は同じ。

桑原氏の文章では「小林に戦争責任あり」で、その後の小林の
発言には触れておらず、Wikipediaと矛盾しないのだから、
何も疑問は無いでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

質問の言葉が足りなかったようです。
晩年の小林秀雄は、神格化とまでは言いませんが、ある種別格扱いで、私から見るとなんとなく批判を許さないような印象がありました、周囲も本人も含めてです。
しかし、同時代人である桑原氏の言葉を読み、大正あたりの世代の人からはどう見られていたのか気になったわけです。

だから、
> 桑原氏の文章では「小林に戦争責任あり」で、その後の小林の
> 発言には触れておらず、Wikipediaと矛盾しないのだから、
> 何も疑問は無いでしょう。
というのは、その通りといえば言えるのですが、どうも私の質問の仕方が悪かったように思いました。

お礼日時:2008/02/28 10:04

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