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 ある日死について考えたら「何で私は生きてるのか」と思うようになってきました。死んでから残るものといったら灰とわずかの記憶だと思います。そのために生きるとしたらなんとむなしいことでしょう。
 もしかしたら「生きている」のではなく、「生かされている」の?社会や先生や家族に・・・。
 どうか生きる意味や楽しさを教えてください。

A 回答 (10件)

色々な考え方ができると思います。

そして答えは各人がそれぞれ自分なりのものを見つけることで良い問題だとも思ってます。

私の考えでは「死=虚しい」とは思ってません。魂的発想をするならば死は肉体の衰えであり、元となる魂(エネルギー体、意識)にとっては現世はその1ページに過ぎないと思います。なのに今現在生を受けて生きているということは何らかの意味があるものだと考えています。
そういう意味では自分の生きる意義を見つける為に生きてるとも考えられますね。いわゆる「使命」的な発想です。その使命を全うする為に生きていると。

もっと簡単に言えば幸せになる為に生きているとも思っています。それは決して物質的な事ではなく、自分の心が爽やかでいられる事、生きている充足感を得られること。つまり自分がやりたいと心から思えることをやる為に生きているとも言えると思います。

また、自らの意識で生きようとしなくとも心臓は動きますし、生命活動を行っている事を考えると、生きる意味を問うまでもなく今現在生きているのですから、その意味を考えること自体がナンセンスという考えもできますよね。

何にせよあなたがこの世に生を受けているかぎりは、あなただけの生きている意味があると思います。それを探す旅が人生とも言えます。
私は様々な経験や数多い人と接して、自分が成長することを考えながら生きていますが、その中で感じたことをひとつ。
人間って自分をより好きになる為に生きているんだなと思いました。
生きていくうえで様々な障害と出会います。そして自分の目標や夢を実現する為にその障害を乗り越えようとする行為により、人は自分の好きなところ嫌いなところを目の当たりにします。少しの勇気と行動により自分が少しずつでも成長し変化することにより自分がより自分の好きな自分になっていくことに気づいたのです。

ですから生きると言うことは決して楽なことばかりじゃないでしょう。だからこそ自分が何かを成し遂げた時の喜びは他では代用することもできないですし、その中から本来の自分を見つけていけるのだと思います。
私も昔は生きる意味、死の意味、そんな事を考えて苦しい日々を送ったこともありました。でもそんな日があったからこそ今の自分があるのですから、きっとその意味を知ることよりも、それを考えることに大きな意味があると思います。

上手に伝えられたかどうかわかりませんが、生きる楽しさは良いことだけでなく、苦しいこともあるから楽しいのだと思います。
あなたがその意味を考えていることが、すでにあなたの生きている意味でもあると思いますよ。
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この回答へのお礼

本当にその通りであると思います。どうもありがとうございます。

お礼日時:2001/02/09 17:53

40才の男性です。

あなたはお若い方?・・・多分、そうだろうと思って答えますね。
10代の頃、あなたと同じように考えました。そして、次は「何かを残すために、自分が生きた証の残すために」と思うようになりました。でも、それは間違っていた・・・。その頃まで「生かされている」のではなく「生きている」のだと、また、自分が生きているのは、ただ自分のためだと思っていました。
とても親しい人を亡くされたこと、ありますか?
もし、なくても、その時の悲しみは容易に想像がつくでしょう。なぜ、悲しいの?、その人があなたにとってとても大切な存在だから、ですよね。
30代に入る直前から、数年間にわたって毎年、肉親を含めて親しい人が亡くなりました。中には、病気のために、20代半ばで逝ってしまった後輩もいました。
その頃から、生きること、死ぬことについて考えが変わってきました。
あなたを必要としている人が絶対にいる、あなたをかけがえのない存在と思っている人が絶対にいる、もし、今、そういう人がいないように思えても、それは、あなたが気付いていないだけ。
何年かして、あなたが親になり、また愛すべき自分よりも若い友人、後輩を持ち、その時、きっと分かるでしょう。
自分よりも年若い人が先に逝ってしまうことの悲しさ、それから自分を慕ってくれる人のために、自分の命が中途で終わってはいけないということを。
そして自分が生きてきたことの意味を・・・知るでしょう。

それまで、あなたは生きなくてはならない、絶対に、ですよ。
そしてそこまで生きた時、あなたは生きる意味がわかるでしょう。
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この回答へのお礼

 tomoki_takaさんの意見も大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/09 17:57

生きることに意味ってあるんですかね…。

だって、「意味」ってそもそも人工物でしょ? だとしたら、生きる意味は無いと考えるのが普通じゃないですかね。でも、人間は生きて、これだけの歴史を作り上げてきたと言うのは、面白い話だと思いませんか? 生きることに意味は無く、むなしいことのはずなのに、ですよ。僕は、専門家じゃないから分からないけど、みんなそれぞれ意味を創って来たんだろうなって思います。楽しさもやっぱり自分達で発見したものなんだと思います。キャッチボールだって、好きなやつには「楽しいこと」だけど嫌いなやつにしてみれば「無くなって欲しいもの」かもしれませんよね。

「灰とわずかの記憶」が残っても、そのときあなたはそこに居ないんです。残すものが大事なのか、「今」あなたが持っているものが大事なのか、考えてみてください。それだけでも、世界の見方がずいぶん変わると思いますよ。
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この回答へのお礼

 死んでからのことを考えずに、まさに「今を生きる」が大事ですよね。ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/09 18:01

私も人生経験はそんなに長いわけではないですが、私の答えは端的です。


「何で生きているのか」と問えば、結局何も導き出されないでしょう。確かに時々人はこんなことを考えるし、歴史上の人間も考えてきたことですが、どうしてこういう風に考えるか考えたことがありますか? 私が思うに、これは類推による目的論です。つまり、いすがいすとして使われるために存在するように、机が机として使われるように、人間(この場合は特に個人を志向します。)も、それぞれ何らかの目的のために存在しているのではないかと考えることです。このことは、壊れたいすや机が使えなくなるように、人間が有限であるということからの類比であり、このことから導かれることは、人がいすや机を製作するように、人間も造物主から作られたという思想です。
ですので、たとえばギリシャ神話の世界の神のように、人間もまた不死の存在であれば、思いつき得ない問題です。とはいっても、やはり私たちはたぶんいつか死ぬ有限な存在なので、自分の存在の目的(意味)を知りたくなります。
ならば、逆から考えてみましょう。私たち人間にそれぞれ何らかの存在意義があって、人生のストーリーが予め決まっていてそれをなぞって生きているという場合、思考はそこで終わりです。なぜなら、たとえそうだとしても、人には未来を知る能力が備わっていないからです。(一部の例外は除くべきなのかもしれない。)なので、何かわからないにしても、自分には何かあるはずだと信じて先に進むほかありません。失敗しても、それが意味なのだ。死にたくなっても、死にきれなかったなら生きるべき運命だったのだ。今生きていることこそが、私の運命なのだ、と。

ところで、よく考えたら、質問者は自分の思うように生きられていないと感じていることが本当の質問内容なのではないでしょうか? <社会や先生や家族に、といったように、周りに規定されて生きているような気分なのかもしれません。たぶん学生さんでしょう。学生時代はよくこんなこと考えますが、こう考えたなら、もしも今感じている束縛がなければ、自分は何をしたいのか、よく考えましょう。あなたの考えているとおり、たぶん今は何もできないでしょう。無理して何かする必要もありません。その代わり、何をしたいのか真剣に考えておかないと、後々後悔します。学生時代は、確かに不自由な反面、守られています。そんな中では、本当に嫌なことだけきっぱり嫌だと言いましょう。

それから、私は生きる意味について、何かあるなんてこれっぽっちも思ってません。こんなこと考えるより、もっと具体的でわかりやすい問題のことを考える方がよほどいいです。そして、そんなことを考えているうちに知らないうちに死んでいるのが一番いいと思います。死んでも自分の灰や記憶なんて結局は残らないでしょう。墓場の灰を誰も掘り起こしたりなんてしないし、死んだ人の記憶は段々薄くなるものです。
そしてまた、人生は一度きりでとてもとても貴重なものなのに、自分以外のものによって理想から引き離されて消費してしまう、なんてロマンチシズムは無意味です。だって、人生を二度生きる人がいない以上、この命題は対比が空想でしかなく(命題がそれ自身を意味する他なく)、「白いものが白い」(トートロジー)とか言う場合と何ら変わりがないからです。
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この回答へのお礼

 その通りであると思います。甘えていただけでした。もっと自分について考えたいと思います。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/02/09 18:10

うちに一匹の雄のフェレットがいます。

フェレットはイタチを人工的に交配させて家畜化した動物で野生のものはいません。
いったい彼は何の意味があって生きているのだろうと思うことがあります。臭腺も取られ去勢されて子孫を残すこともできないのです。
毎日、餌を食べて糞をして部屋の中を動き回り、習性上狭くて暗い場所が好きなので、どこか隙間を見つけては潜り込もうとしています。そして疲れるとケージの中のハンモックに乗っかって寝てしまいます。それだけの繰り返しです。
いわば彼は犬などのペットと同様、人間に依存して生きているのです。人間によって生かされているのです。
では、我々人間はどうでしょうか。生かされてはいないのでしょうか。人間も動物である以上、生まれて生きてそして死んでゆく存在なのです。
「生きる意味」という概念を持ってしまった人間は「生きる」ということにある目的を持とうとし、そして「死」を恐れるのです。
フェレットや犬はどうでしょう。外敵に襲われたときや這い上がれないような穴倉に落ちてしまったとき以外は「死」というものへの恐怖を考えないのではないでしょうか。そして生きようとするからこそ餌を食べ水を飲むのです。
人間は「生きる意味」という概念を持つことや生命が有限であることを自ら意識することによって、差し迫った「死」の恐怖が現実に襲って来なくても「死」を意識し、恐れるのです。だからこそ有限である人生に意味を見出そうと試みるのです。
人間は「生きる意味」と「人生の目標」を見失うと不安になるのです。それは「死」への不安につながっているのだと思います。そういう意味では人間は「生かされている」のです。自ら「社会」を作り「文明」を発展させ「科学」を追求することによって人間は「生きる意味」を見つけようとします。そういう科学文明社会の中にあって「生きる意味」という概念を持ってしまった以上、その中で生きていくしかないのです。フェレットや犬のようには生きられないのです。複雑な社会構造の中でしか生きられなくなってしまっているのです。そういう意味でも人間は社会によって生かされていると言えるでしょう。
もし、あなたが現代社会から離されて自然界の中に放り込まれたとしたら、いったいあなたは何日生きることができるでしょうか。
人間は自らが作り上げた科学文明社会の呪縛から逃れて生きていくことはできないのです。その社会の中に生まれたあなたが「生きる意味」という概念を持った以上、この社会の中で充分にその概念を満たすべく生きようとするのは自然なことなのです。

>どうか生きる意味や楽しさを教えてください。

自分で見つけましょう。それも人間に与えられた運命なのですから。
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この回答へのお礼

 私は「ブタ」を考えたときが、余計「生かされている」と思っていました。ブタは「食う」ためにいて「生きる意味がわかっているの」と思っていました。大多数の「ヒト」も1部の「ヒト」のために生かされているのではないかと思っていました。でもmasmasさんの考えを見たら「私の考えは間違っていたなあ」と素直に思いました。「生かされている」中で「強く生きよう」と思います。ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/09 18:27

中島らもさんの「明るい悩み相談室」朝日新聞社・朝日文庫刊~において同じような質問を子供さんにされた例があります。

その質問についていた西原理恵子さんのイラストの格言が適していると私は思うのです。
「神様がいいよっていうまで生きるのが人の仕事なんだよ」
ちなみにその本の回答もなかなか的を得ていると思いました。
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この回答へのお礼

 機会があったらぜひその本を探して読んでみたいと思います。回答ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/09 18:30

テーマがテーマなだけにすばらしい回答ばかりです。


でも輪廻転生の死生観によるものがなかったので、それだけ付け加えておきます。

多くの人は、死に直面したとき、全力で生きようとします。
そして家族と一緒に自分の生活圏にいられることに幸せを感じます。
このことは、人間が、自分では意識していない何かの目的を持って生きているのではないかということを示しているように感じます。

輪廻転生の考え方によりますと、人間の自我は寂しさを原動力に、人の縁を求めて生まれてきます。
ですから人の幸せは、縁の深い土地や自然の中で、家族など縁の深い人たちと一緒にいられることだと思います。

そして自我が作り出してきたカルマ(罪/苦しみとして感じている蓄積)を正すため、幾生も幾生も生まれ変わりを繰り返し、その間に自分の自我をなくし、全体への統合と調和を図ってゆくことが人間の目的であるとされています。
その人間としての終結が解脱です。

ですから人間には楽しみはありません。
すべてが苦しみで、苦の対照として楽しみを感じます。
だからといって苦しみを逃れて死を選んだ人は、一層の苦しみにあえぐことになります。
人間が苦を逃れる唯一の方法は、自我を乗り越えることしかないのです。
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この回答へのお礼

 身近なところに思いがけない幸せがあるんですね。そして「苦」を乗り越えていくのですね。がんばってみます。ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/09 18:36

学生の頃、漠然と同じように考えていました。


何かの本で読んだか、誰かが言っていた言葉か覚えていませんが、その頃
「何かのために生きているかではなく、生きていることそのものに意味がある」という言葉を聞いたことがあります。
生かされているという点では、それも当たっていると思います。でも生かされている(感謝)ばかりではなく、自ら生きている部分(自立)もあると思います。
多分誰もが生きている間に答えは出せない問題でしょう。だから、「生きていることそのものに意味がある」という言葉が私の胸に残っているのかもしれません。
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この回答へのお礼

 自らが生きている部分(自立)について考えると、また新たな認識が得られますね。回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/02/09 18:42

本当の生命の危機に直面した時、死の恐怖と共に強く生きたいと思いを実感すると思います。

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この回答へのお礼

 今無事に生きているから私は「死」を考える余裕があり、それゆえ悩むのですね。いざ「死」に直面したらそうも言ってられないですね。「恐怖を持ちつつ強く生きる」。回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/02/09 18:49

僕の考えを少し。



生きてる世界(今いる世界)と死んだ後の世界(どこかしらんけど、どこか)、
どちらが良い世界か?

考えてもわかりません。こればっかりは体験してみないと事には。
そこで僕は考えたんですけど、
今のこの世界(生きてる世界)は今だけなんですよ。
死んだあとは体験できないんですよね。
それなら、たかだか100年ぐらい、今の世界を楽しんでみてはどうでしょう。

死んだあとの世界はそのとき考えれば良いんです。なんで生まれたかわからないが
今生きてることはわかります。死んだ先はわからないですけど、
今この世界に生きてることはわかります。
なら、この世界を楽しんでみてはいかがでしょう(ふたたび)。

いろいろ考えても生きる意味を見つけられないというなら、
人のために働くことをすすめます。
もんもんと考えてても、何も始まりません。何か行動を起こすと道も開ける
かもしれません。

僕は人は人のために生きるべきだと思うので、自分の人生を楽しみながらも
人のことを想い、自分が頑張って人を助けたいと思います。
ほんのちょっとしたことで変わると思います。

よき未来がありますように
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。まずは身近な人に思いやりを持ってみたいと思います。その上で自分なりの幸せを積極的に探したいと思います。

お礼日時:2001/02/09 18:54

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