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大好きな人に逢いたくなるのは、そうすることで幸福感に包まれるからだ、と思っているのですが、
そう考えますと、どうしても愛が幸せになるための手段にしかすぎないのか、という思いに囚われてしまい、なんだか、精神的に不健康になってしまいます。
幼い頃から愛は素晴らしいもの、と教えられてきた背景があるからかもしれないですが……
そういうものなのだから仕方ない、そもそも手段なんかじゃない、等ご意見ございましたらお願いしたいです。

A 回答 (10件)

悩んでも仕方がありません。



人間は社会性の動物ですから人間同士が
相互依存する。一人では生きていけない
ものです。そして人間の全ての行動は遺
伝子レベルの利己的行為の現れです。
何をしても自分が幸せになるようにできて
いるのです。(以上社会生物学的結論)

ところで、『愛は素晴らしいもの』という
のは、結果的に自分が幸せになる以外に
何が『素晴らしい』なのでしょうか。
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この回答へのお礼

やはりそこに行き着くのでしょうか。
人間はそもそも自分が一番かわいい。自分でも自覚がありながら、ほんとにそれでいいのでしょうか、という気持ちが拭えなかったのですが……
そのお言葉で少し楽になったような気がします。ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/06 22:43

★ 愛〔は〕幸せになるための手段にしかすぎないのか。


☆ ただ一つ この疑問に答えることが必要な条件なんでしょうね。
 理屈では 答えも出ています。《人間は道具ではない》です。ですから

 《人を――自分も相手も含めて人を――手段として用いてはいけない》

となります。そうして――これが 案外手こずる問題なのですが―― 互いにこの必要条件を満たすこと これが出来たなら もう 十分条件をも満たすことになります。
 《意見》としては こういうことになるでしょう。
 
 たぶん 精神的に不健康を感じるのは イエスかノーかをきちんと言えない状態が 相手が自分かどちらかにあるときではないでしょうか。あとは 好きどおしの世界です。

 愛は それほど理性を失わせるものではありません。理性を失わせてもいいと判断するのは 理性そのものです。愛のせいにしてしまうという手です。愛は そのおのれの精神の卑怯ぶりを じつは 知っています。ですから 必要・十分の条件を満たしたなら あとは 世界のためにも 仲良くやっていってかまいません。 自分の確信する愛に歩んでいってください。自信をもっていいですよ。
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この回答へのお礼

やはり一筋縄ではいかないですね……
愛とはなんなのか、いつの日か確信がもてるよういろいろと悩んでいきたいと思います。
ご回答、まことにありがとうございました。

お礼日時:2008/03/07 00:03

アガペーとエロスの違いでは?


愛はすばらしいと教えられてきたほうはアガペーで
手段ではないかと思い悩むのはエロスのほうでしょう。

そもそもLOVEの訳は日本に存在しなかったとも言われています。
愛という言葉自体、慈愛、愛でる、から転じて愛という訳になった
という話をきいたことがあります。
(記憶違いかも知れませんが。)

愛にも色々あって、東洋西洋の違いがありますし、
学校の基本理念となっている愛の解釈の多くは西洋の理念から
採用されているので少しかみ合わないところがでているのかも
知れません。西洋での愛はもちろんキリスト教における
神の愛(アガペー)です。
日本人にはその点が掴みづらいのかもしれませんが、
今日で言う愛がすばらしいことへの疑いにはならないと思います。

悩むだけ悩んで、解決しなかったら放っておきなさい。
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この回答へのお礼

確かに。おっしゃるとおりアガペーとエロスのことだと思います。
どちらかというと無償の愛に懐疑的です。お気を悪くされたのならば申し訳ございません。
おっしゃるとおり悩むだけ悩んでみたいと思います。ご回答まことにありがとうございました。

お礼日時:2008/03/06 23:59

愛は盲目と言います。


愛ゆえに幸せになることもあれば、不幸になることもあります。
愛は理性的ではありません。

でも、たとえ不幸になったとしても
それで良かったのではないか、と思えるのもまた、愛の為せる業です。

人を愛したことはありますか?
理由なんて必要ですか?そのとき、結果なんて気にしましたか?

愛は愛です。理性ではありません。情熱のなせる業です。
幸福も不幸も喜びも苦しみも、もたらします。
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この回答へのお礼

人を愛したことはある……と思います。
そのときの経験から、私の場合は相手が笑ってくれるとうれしい。だからもっと笑ってもらいたい、という感情があったのです。
自分のうれしいありき。
無論、それが本当の愛ではないと言われればそれまでですが……
ともあれご回答まことにありがとうございました。

お礼日時:2008/03/06 23:57

愛にもいろいろありますね。



大きく分けて、執着の面と、慈悲喜捨の面があると思います。

執着の面は「欲」働きの感情のことです。こちらはあまり強すぎると苦しくなりますし、相手のことよりも自分の事のほうが重要になってきますね。

慈悲喜捨はそれぞれ、自他の
「慈」は幸せを思う心。
「悲」は悩み苦しみがなくなるように思う心。
「喜」は成功を喜ぶ心。
「捨」は平等な心。

すばらしいと言われるのはこちらの慈悲喜捨のほうではないでしょうか。徐々に執着心・エゴをなくし、慈悲喜捨の心でいられるように徐々にしていくことこそ大事なのだと思います。

エゴは自分を含めた皆を苦しめますからね。徐々に相手のことを心のそこから慈悲喜捨の愛で包めるようになっていけばいいのだと思います。

慈悲の瞑想なんていうトレーニング法もあります。

<<慈悲の瞑想>>

私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが(努力が実りますように)叶えられますように
私に悟りの光(次ぎやるべきことが明確にわかる状態)が現れますように
私が幸せでありますように(3回)

(心の中で私が幸せでありますようにと念じてください)

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)

(心の中で私の親しい人々が幸せでありますようにと念じてください)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

(心の中で生きとし生けるものが幸せでありますようにと念じてください)

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

これらを真剣に念じてみてください。

声を出しても良いですし、心の中で呟いても良いと思います。あと、暇があれば気に入ったフレーズを頭に中で念じるのもいいです「生きとし生けるものが幸せでありますように」がお勧め。通勤・トイレ・移動・掃除・選択・マッサージ中・歯磨き・風呂…

結構時間はあると思うのでためしに頑張ってみてください。
きっと善い結果がまっているとおもいますよ。
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この回答へのお礼

生きとし生けるものが幸せでありますように。
本当にそうなればよいですし、そういった心をもてるようになれればいいと思います。
ご回答まことにありがとうございました。

お礼日時:2008/03/06 23:54

 ご質問やご回答の中で、据えられて、お話を進めておられる、“愛”というのは、英語の“love”、ないしはギリシア語の“アガペー”というような観念なのでしょうね。

これを私達が昔から日常的に使ってきた、“愛”という語に置き換えると、話が難しいことになりますね。
 ご質問を拝読して、連想したのは50年前にのめり込んでいった、倉田百三さんのことです。氏にはたくさんのご著書や随筆がありますが、“出家とその弟子”の若いお弟子さんの悩みに少し重なりました。
 “愛”や“アガペー”ということばで、検索すると、少し頭を整理することもできるでしょうが、倉田さんや検索のことは、おことばの端々から、もうお済みのご様子であるようですね。
 西洋にわたり、しかも宗教性を多少以上に逸脱してきてしまった、キリスト教の中で、東洋思想のイエスに発端するあの思想、その中での“アガペー”とかの現実と存在の中で意味と位置付けを理解していくのは困難を極めますね。
 孔子の仁義・・・ではないが、かかわりの中で存在することが運命付けられている、人間にとっての、自己を持する当為、原則、力がいわゆる、“アガペー”とかいうものではないでしょうか。
 それは当為存在としての私達の基本のあり方ですので、いろいろに芽を出し、幹や枝葉、花つけていると存じます。
 そういうことの中では、我々の基幹であり、根幹である創造者の“アガペー”と同じものに近づけることが要請されているのでしょうね。
 それは目的であり、手段であり、過程であり、究極なのでしょうね。
 そういう意味からは、ご質問のような大好きな人を愛する、自分の幸福のために愛する、というのも愛でしょうね。
 しかし、人それぞれに、non-differentiateなる愛に自己を持するに到るまで、たくさんの試練を経て、勉強をしていくのでしょうね。
 いっぺんに大元の愛という自己存在になることは無理でしょう。
 いろんな経験を経なければなりませんでしょう。
 いっぺんになったように見える方は、実をその前にちゃんと経験しているのだと存じます。
 humble、modestなおことば。そして初歩者のようにお尋ねの中に、たくさんのご勉強が偲ばれております。
 ところで、“とらわれる”を漢字変換されておられますが、むしろ漢字変換しない方がよかったかな、と存じます。適当な漢字がありそうですが、今は思いつきません。

参考URL:http://www.yogananda-srf.org/
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この回答へのお礼

確かに私が求めていたものはアガペーなのかもしれません。恥ずかしながら自覚しておりませんでした。
しかしながらそれはそれで「愛が幸せの手段」と考えるよりも違和感を感じてしまいます。
アガペーとは無償の愛、ということでよいでしょうか。
そんなものがこの世にあるのでしょうか、と思っている自分が確かにいますが、それもおっしゃるようにこれからの経験次第でわかってくることなのかもしれません。
貴重なご意見まことにありがとうございました。

お礼日時:2008/03/06 23:52

バタイユは『エロティシズム』の冒頭において男女のエロティシズム(恋愛、と捉えても良いと思います)における非連続性について記述しています。

そして「幸福の本質は、二人の人間のあいだに頑固に立ちはだかっている非連続性を、一つの奇跡的な連続性に代えようとすることである」(p29-30)と言っております。

私の個人的な感想ですが、質問者様は「愛=幸せへの手段」に所有の言葉を付け加え「(私の)愛=(私の)幸せへの手段」と思い悩まれているのではないかと思われます。

バタイユも述べている通り、男女はそれぞれ非連続性であり(男は女の気持ちが分からず、女は男の気持ちが分かりません)、情熱をもって相手に接すると逆にケンカして離れてしまったりします。
それでも、「一つの奇跡的な連続性に到達すること」は、恋愛における幸福の本質であるように思われます。「(私の)愛」ではなく、ただどちらの所有格も付属しない「愛」があるだけです。それが、いわばあなたから恋人へと奇跡的にかかる連続性の瞬間と言えるかもしれません。

ここには人を「人間」にする「社会的」という言葉もないし、人を統計データに基づいてタイプ分けする「心理学的」という言葉もありません、恐らく質問者様が今必要なのはこのような「概念」なのではないかと思われます。
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この回答へのお礼

どちらの所有格も付属しない「愛」……恥ずかしながらうまくイメージできませんが、他の方々がおっしゃっているようなアガペーのようなものでしょうか。
確かにそういった概念を理解することができればこんなことに悩むことはなくなるかもしれませんね。
ご回答まことにありがとうございました。

お礼日時:2008/03/06 23:46

他者の幸福が、自分の幸福のための手段



他者の不幸が、自分の幸福という人が多い中でこの様なとらえ方を
なさる方がおられるとは神が愛でていることでしょう。

ご質問者様の愛は崇高です。
他者の幸福が自分の幸福なのですから、もはや目的も手段も自も他もありません。
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この回答へのお礼

ご回答まことにありがとうございます。
そういった愛のかたちでかまわないということでしょうか。
そう言っていただけますと幾分気が楽になったような気がします。

お礼日時:2008/03/06 22:48

うーん。

手段であっても何ら問題はないと思います。個人的には「愛は忍耐だ」「愛は実践だ」という言葉の方がしっくりきます。愛が自分を満たすための手段となっていることに違和感があるということで間違いないでしょうか?…そうだとするならば、愛が他者の為ではなくて自己の為になっているからでしょうね。

本当に相手のための愛は、(実践が)難しい時も(忍耐しなければならない)苦しい時もあると思います。だからこそ愛は尊いのではないでしょうか。利己的な愛は隣人愛というよりも、あなたが言っているのは自己愛なのだと思います。

自己を愛したいがゆえに向けられた他者への愛は、どこか破綻していますね。自分が幸福に満たされて、相手を幸福に満たすこと…これが世の聖人が謳う、実践的な愛ではありませんか。

この回答への補足

ご回答まことにありがとうございます。

自己愛や隣人愛がどういうものかはよくわかっていないのですが……

普通はどうなのでしょう。
他者の幸せそうな笑顔を見ていると幸せな気分になる。そのときの幸せな気分が忘れられなくてそのひとに逢いにゆく。それもまた自己愛でしょうか。

愛と書いたのが不適切だったかもしれないです。
他者の幸福が、自分の幸福のための手段のような気がして、なんだか違和感なのです。
これは、手段であってもなんら問題ないのでしょうか。
だとしたらそれはいったいなぜでしょうか。

補足日時:2008/03/05 18:36
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大好きな人に逢う=>幸福感に包まれる



幸福感は目的で会うことが目的でしょう。
あるいは、「遭う」ということばに深い意味を
持たせているのですか?それともただの無知で
すか?

この回答への補足

ご回答まことにありがとうございます。

逢うという行為と幸福感両方が目的というのは申し訳ございません。そのとおりと言われればそのとおりですが……

ANASTASIAK様自身お書きのとおり、逢う行為の結果幸福感に包まれるわけで、その行為(厳密には相手を幸せにすること、と言うべきでした)が自分の幸せのための手段になってしまっていることになんとなく罪悪感のようなものを感じてしまうのです。

補足日時:2008/03/05 18:50
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