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江戸時代の侍は刀を二本差していたようですが、
どうしてでしょうか?
武家諸法度などで決められていたのでしょうか?
平和なので、一本で十分と思うのですが。
また二本は重過ぎると思います。
(骨盤や背骨がゆがんでしまったそうです)

よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

武家諸法度などで決められていたのかはわかりませんが、小さい方の刀「脇差し」は切腹用だと聞いたことがあります。

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同じような質問に以下の回答がありました。



侍が腰につけているのは打刀(うちがたな)と呼ばれる長い刀の他に、少し短い脇差(わきざし)と呼ばれる刀を差していますが、実はもう一本、脇差の下に小柄(こがら)という首切り専用の短刀も差していたそうです。戦国時代、脇差は一本が使用不能になった時のスペア的意味合いもありました。鎧を着けた相手を倒すには、刀で切ろうとしても無理だから、叩いて相手を倒す事を考えて、分厚い刃を持つ刀を使用したのです。厚いだけ合って、”蛤刃”(はまぐりば)と呼ばれ、また短刀も使い勝手がよく、接近戦になった時、すかさず相手と組んで刺す事が出来るように、戦国武将は必ず左腰に短刀を差していたそうです。
 刀剣鑑定士によれば、室町時代以前の作刀を「太刀(たち)」と呼んでいます。これは刀を下にして紐で吊り下げて腰に佩(は)いたものですが、室町以後は「刀」と呼び、武士は刃の方を上にして大小二本の刀を差すようになりました。このため50cm前後の本造り脇差が初めて製作され、後世の脇差の濫觴(らんしょう)となったのです。刀剣鑑定上は寸法だけで時代がわかるそうです。なお、この時代は馬上戦より集団的な徒歩戦が有利となった関係で個人対個人の組み打ちも盛んに行われ、敵の首を突き刺すのに便利な20cm以下の小振りな反りの無い重ねの厚い鎧通し、諸刃造の短刀が数多く造られたそうです。当時の作品は時代の要求に合致した実用刀で名刀と称すべき作品はなく、戦国時代の作品の価値が伺われます。この時代は農民階層も帯刀していたようです。
 戦国時代は別として、江戸も中期を過ぎると侍の世界はサラリーマン化し、官僚化して行ったような気配があります。お家大事に忠義を尽す見返りとして禄を食み、大小2本の刀を腰に差し、失敗すれば腹を切らされました。徳川幕府の元で、平和がよみがえってからは、武士たちは自分の主人である藩主に忠義を尽くし、領民に対しては藩の決まりに背いたり悪事をする者のないよう目を光らせ、たくさん年貢を取り立てる事に精を出す事が主な役目となり、腰に差している二本の刀は武士の威厳を示す飾り物に過ぎなかったようです。
 さて、こんにちにおいて現存する刀は多いのですが、それだけ大量の刀が作られたということであり、つまりそれだけの需要もあったということです。しかし、必ずしも実践に用いられたわけではありませんでした。なぜなら建長2年(1250)4月20日鎌倉幕府は「庶人の帯刀を禁ずると」いうお触れを出しています。つまりそれほど刀を差して歩く者が多かったということです。戦国の戦いを描いた合戦図屏風を見ると、刀を差していない者は見あたりません。ルイス・フロイスは1565年京都から出した書簡の中で「日本人は年少の時から剣を帯びることを始め、眠る時だけ外して枕元におく」と説明しています。教科書的な解釈では、秀吉の刀狩り以降、武士階級以外の者はすべて武器を取り上げられてしまったことになっていますが、その後も民間には膨大な数の鉄砲や刀が保有されていたし、武士以外の人たちが完全に帯刀を禁止されていたという事実もないようです。大小二本差せるのが武士だけの特権であったというだけのことだったのです。さらに実質的に武士身分のシンボルとして慣習化してくるのは江戸時代も半ばの17世紀後半以降といいます。
 それからテレビでよく聞く「刀は武士の魂」というのは、幕末の動乱に至って刀の実践的意味が再び脚光を浴び、武器の中心は刀という思い込みが強くなり、また明治政府による軍、官、警による『帯刀権』の独占を目的とした明治9年の『廃刀令』、さらに戦前の軍人の帯刀によって日本人の間にいつしか「刀は武士の魂」というような気合が生まれたようです。
 また、武士は子供のうちから小さな刀を腰に差していましたが、刀は大変重く腰骨にとても負担がかかります。それを2本も差して歩くので腰骨の上にタコができ、刀の重量のため左肩が上がった姿勢になるので、遠くから見てもその姿で武士だとわかったそうです。・・・ということは、桃さんのカッコいい立ち姿は真実の武士の姿ではない・・・?
ところで私の先輩で、苗字が「刀(かたな)さん」という人がいますが、ご先祖が刀職人だったそうです。珍しいお名前です。
そういえば、私の実家にかみしもと古い刀が3本ありますが、いつの時代のものなんでしょう・・・。
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下のWIKIPEDIAに、次のように出ていました。



「江戸時代武家諸法度の第一次改正により、武士の正式な差料が大小二つの刀を差すようきめられ、大刀(だいとう)を本差、小刀(しょうとう)を脇差として装備することになった。」

これによれば、武家諸法度に定められていたということになります。

>一本で十分

おっしゃるとおりですが、武士以外の人間でも短い刀を持つことが許されていましたので、大小二本差しは武士の特権、象徴として必要だったかと思います。

>二本は重過ぎる

そういうことで、江戸も時代が下るにつれて、細くて軽い刀を持つ武士が増えたそうです。
それから、二本ざしはチャンとした身なりのときで、ちょっとした外出(散歩や川での釣りなど)では脇差だけだったようです(ここは時代小説の受け売り)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%B7%AE
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No.3です。


大刀一本でも、武士の象徴性は保たれるのではないか、という疑問が出てきます。

脇差はもともと主武器(大刀)が破損したときや、組み討ちになったときなどに使う、補助的な役割りがありました。
平和な時代になると、儀礼的な必要性が出てきたと思います。
城内では脇差だけを着け、二本差しは許されなかったようです。
また、他家へ訪問したときも、大刀は玄関口へ置いて、脇差だけで座敷へ入ったということを聞いています(時代小説ヨリ)。
武家の女子も懐剣を忍ばせていたと聞いていますし、攻撃的性格のある大刀がムリな場合でも、武士が腰に何にもナシでは恰好がつかないので、最低脇差だけは着ける必要性があったのではないかと思います。
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