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鎌倉時代の末期においては、「執権」の役職が名ばかりの飾りみたいな存在に
なってしまい、政治の実権は無かったと聞きました。

「天皇」→ 名目上は、日本の最高地位でありながら、政権は幕府にあった。
「将軍」→ 名目上は、幕府の最高地位でありながら、政治の最高職は執権であった。
「執権」→ 名目上は、将軍に次ぐ政治の最高職でありながら、政権は北条得宗家にあった。
「得宗家」→ 名目上は、執権北条家に次ぐ名門の家系でありながら、実権は別にあった。

名目上の権力順位が5番目ぐらいの地位が、実際の政権掌握をしていたという非常に
分かりづらい構図になってしまいそうですね。
では、この「真の権力者」と言うべき人物の役職とは一体なんだったんでしょうか?
そして、これはどういった人物だったのでしょうか?

A 回答 (5件)

やはり、得宗でしょう。


この時代は天皇家でも天皇と治天(院)とに分裂しているように、権力と地位とが分裂していますが、権力の背景になっているものがあります。
天皇家の場合は荘園でした。
鎌倉幕府の場合は将軍家は飾りですので、この場合置いといて・・・・
鎌倉時代は武家の各一門は惣領制がまだ強かったです。それぞれの武家集団に惣領を置きその惣領が強い権限を維持していました。北条氏の場合、その惣領が得宗です。その上で、北条氏の守護地頭などの権力組織という権力の中心が得宗となるわけです。得宗家の所領は北条代所領、得宗領といいます。
内管領をはじめとした御内人は得宗領の代官、北条氏の守護している国の守護代などになり、その得宗家の権力の構成団体の一員となります。
内管領の権力は大きかったけれども、自分で領地をもち権力を維持していたわけではありませんので、得宗家が滅ぶとその権力を維持できなくなりました。そのようなものを真の権力者ということはできないでしょう。

というわけで、自他共に認める権力の源泉を持ち権力を使い続けることができた得宗家を真の権力者と考えたいです。
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得宗家が最高権力者でした。


北条家執権に次ぐ名門との表現をされていますが、得宗は北条総領家であり、執権北条家そのものです。
長崎氏等内管領が得宗家を壟断していたのは事実でしょうが、得宗あっての内管領ですから、両者は敵対関係にあったわけではありません。
内管領含めて、北条(得宗)高時が最高権力者でした。
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幕府と朝廷のどちらに権力があるかといえば幕府の名目上の最高地位は将軍(当時は親王将軍)でその将軍を任命するのは朝廷でその上に立つのが天皇だとすると権力の頂点に立つのは天皇ということになります。

名目上の権力は天皇で実際の権力はその天皇(上皇)を島流しにした北条家になります。
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 なかなか面白いご質問ですね。

私はやはり高時じゃなかったかと思います。高時の狂気じみた行状は周りの家来達は皆苦々しく思っていたに違いないのに、誰もそれを押えることができなかった。つまりそれを咎めると自分の身が危ういということで皆が日和っていたということではないでしょうか。だとすれば重臣達の中に黒幕的存在が居なかったということになりますね。これはソ連のスターリン時代と似ていたような気がします。ナンバー2を強いて挙げれば長崎高綱だったかな?
 従って高時が病死しなかったのが北条政権の悲劇だったのかも。高時がいなければ尊氏が叛旗を翻すことはなかった筈です。
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実権は得宗家の執事長とも言うべき内管領ですね。


ただ、得宗家というのは北条氏と嫡流?の家柄ということで、地位や役職ではありません。
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