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チトー業績

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  • 質問者:suns
  • 投稿日時:2008/03/08 18:56
  • 困り度:すぐに回答が欲しいです

旧ユーゴスラビアをまとめていたチトーについての質問です。
ユーゴスラビアといえば、多民族国家で有名であり火薬庫と呼ばれている地域だとおもいます。最近も、コソボ問題があります...
それはさておき、チトーがどのようにこの多民族国家を20年以上もまとめあげたのかすごく興味があります。チトーといえば、ソ連の社会主義のバックアップとともに、第二次世界大戦にパルチザンとして枢軸国に勝ち、ユーゴスラビア連邦を作り上げたと思います。その後、ソ連との不和を理由に、独自の社会主義や非同盟を掲げて彼の死まで続いたと聞いています。

社会主義や非同盟という事を行ったというのは分かるのですが、どうすごいのか?彼だけがなしえたことなどを教えてください。
また、なぜソ連との関係が不和になり、どのような同時の社会主義を掲げていたのかなど、詳しく彼の業績について教えてください。

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No.4ベストアンサー20pt

  • 回答者:DieMeute
  • 回答日時:2008/03/12 13:46

NO.1です。補足の質問があったようなので・・・

連邦についてはこちらをご覧下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%82%A6

この中のインドやビルマなど多数の国が他民族の国です。あとはご自分でお探し下さい。

ユーゴの経済格差の原因に宗教が関連しているとは思いません。
ユーゴでは正教徒が42%、カトリック教徒が32%、イスラム教徒が12%という割合で、もともとイスラム教徒は少数派です。
確かに南部にイスラム教徒は多く、六つの共和国で一番経済的に貧しかったマケドニアや、二番目に貧しかったボスニアにイスラム教徒は多く住んでいました。それでもマケドニアやボスニアでのイスラム教徒の比率は3割であり、過半数を占めている訳ではありません。そこに格差の原因を結び付けるのは難しいと思います。

なお、オスマン・トルコの影響でイスラム教徒に改宗する人々がいた事は事実ですが、オスマン・トルコはユーゴの地域で強制で大規模に改宗を迫ったり、キリスト教を根絶しようとした事はありません。イスラム教徒へのキリスト教の布教を禁じたり、時代によってはキリスト教徒を迫害しましたが、宗教については比較的寛容でした。

また、経済格差について、これも南部に多い正教徒に結び付くかと言えば、それも違うと思います。なぜならユーゴの隣国ギリシャの人々も殆どが正教ですが、経済的に繁栄しています。

経済格差の生まれた理由は前の回答にも書きましたが、さらに理由を書けば戦争の歴史がその一因だと思います。
特にユーゴで一番貧しかった共和国であるマケドニアについては、オスマン・トルコ帝国からバルカン諸国が独立していく中で、その領有権を各国に争われ、幾度もその土地が戦場になっています。
1912年の第一次バルカン戦争、翌年の第二次バルカン戦争、そして第一次世界大戦でも、国土が戦場になり荒廃しました。支配者も、ブルガリアに支配されたり、セルビアの支配下になったりしています。
第一次世界大戦ではセルビアもオーストリア・ハンガリー帝国に攻め込まれ、国内が戦場となり首都も陥落し国土の大半を占領されました。
それに比べ北のスロベニアやクロアチアは、1867年にオーストリア・ハンガリー帝国が成立した時にその領土に組み込まれて以降、比較的、平和でした。戦争で土地が荒廃するような事はありませんでした。
第一次世界大戦でイタリアが敵となり、国境を接していたスロベニアが攻め込まれますが、オーストリア・ハンガリー軍は殆ど国境で食い止め、国土の9割以上は戦場になっていません。その後、逆に反撃に出てイタリア領内に攻め入っています。
第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体していく中で、「第一のユーゴ」が誕生しますが、その時、北のクロアチアとスロベニアは戦争の傷は浅く、南のセルビアやマケドニアの国土は戦争の傷跡で酷く荒廃しており、そこで経済格差が生じました。
つまりユーゴ南部は歴史的に戦争が続いた為に、ユーゴ北部に比べ産業の育成や経済を発達させる事ができなかったのだと思います。
なお、第二次世界大戦では、全土が戦場になりますが、チトーのパルチザンとドイツ軍が最も激しく戦ったのはボスニアだそうです。


なお、補足での質問への回答は申し訳ありませんが、今回で最後にしたいと思います。
問題を解決する為に、補足の質問をする事自体はルール違反でもマナー違反でもありませんが、このように、さすがに連続して複数の質問をされると、回答する側としても非常に負担です。他の回答者の方はどうか知りませんが、私はかなりのエネルギーと時間と労力を費やさなくてはならず、これ以上の負担には耐えられません。
また、そもそも最初の質問が「チトーの業績」だから私は回答しました。
>チトーについての質問です。
>彼の業績について教えてください。
とあったから回答しました。しかし、今回の補足の質問では、他の連邦の事を質問するなど、「チトーの業績」とは直接関係の無い事まで質問しておられます。
「チトーの業績」に関係ある補足の質問なら、納得できますが、直接関係の無い質問をするのはいかがなものでしょう。
新たに質問を立てるべきではないでしょうか。
そういう訳ですので、まだ質問があるのなら新たに質問を立て、他の回答者から回答をもらって下さい。お願いします。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。すいません、お忙しいなか時間と労力を使わせてしまい・・・。今後は違う項目でできれば質問しようと思います。
本当にありがとうございました。

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  • 回答者:DieMeute
  • 回答日時:2008/03/11 05:48

NO.1です。また補足の質問があったようなので・・・

(1)非同盟について・・・
非同盟は援助を受け取らない事でも、国交を結ばない事でもありません。東西両陣営のどちらにも属さない事です。
まだ冷戦の時代であった頃、ヨーロッパには二大軍事同盟が存在し対立していました。アメリカ中心のNATO(北大西洋条約機構)とソ連中心のWTO(ワルシャワ条約機構)です。ユーゴはこのいずれの軍事同盟にも参加しませんでした。アメリカともソ連とも軍事同盟は結んでいません。アメリカの援助は受けましたが、その見返りで、アメリカの戦争に参加するというような義務もありませんでした。

(2)経済はいい時もあれば悪い時もあります。ソ連と対立して経済が悪化した後、自主管理経済を導入して持ち直しています。1962年には過去8年間の経済成長率は3倍、実質賃金は過去5年で40%増とされています。
なお、1950年代から開始された自主管理経済は一気に導入されたのではなく、じょじょに行われています。そして、1965年には貿易業務の一般解放や外国企業との合弁事業も行われています。
ただ、その後、70年代にオイル・ショックがあり経済を悪化させました。しかし、これは世界的な事であり、日本も同様に痛手を受けています。

なお、ユーゴで経済格差が生まれたのは、チトーの経済政策によるものではありません。歴史的なものであり「第一のユーゴ」の時代からあったものです。これは地勢的なものも関係してきます。
ユーゴで経済的に高いレベルにあったのは北のスロベニアとクロアチアです。もともとこの二地域は産業が発達していた地域でした。
スロベニアは昔はオーストリア・ハンガリー帝国の領土でした。そのおり産業革命などもあり、1841年に首都ウィーンとアドリア海の都市トリエステ(オーストリア・ハンガリー帝国の唯一の大きな港。現在はイタリア領)を結ぶ鉄道がスロベニアを通って引かれます。その関係で、スロベニアは早くから工業が発達しました。現在もスロベニアでは工業が活発でドイツやイタリア、オーストリなど近隣諸国に機械部品などを輸出しています。
クロアチアはアドリア海に面しており、海洋資源を利用できました。漁業だけでなく造船業も盛んです。内陸にはバンノンア平原という肥沃な農地があり、ワインなども造られ有名です。しかも、規模は小さいですが石油が出ます。その関係で石油関連の工業が発達しました。さらには、アドリア海に面した地域は風光明媚な観光地域として昔から有名です。現在でも年間700万人以上が観光に訪れています。
それに比べ、南のセルビアやマケドニアは貧しい農村地帯が多い国です。セルビアはある程度、鉱物資源がありますが、それでもスロベニアやクロアチアに並ぶほどの工業化は進んでいませんでした。
その為、格差が昔からありました。これを是正しようと、連邦から南部に予算がまわされ工場などが建設され、工業化が進められましたが、スロベニアやクロアチアに並ぶほど工業が発達しないうちにユーゴは崩壊しました。

ユーゴ連邦政府は、その構成国である六カ国から分担金を支払ってもらい、それを各国に再分配、還元するという方式をとっていました。
この結果、クロアチアやスロベニアのような経済的に裕福な所は出すお金は多くても、戻ってくるお金は少ないという事になります。
北の富んでいる地域が貧しい南を援助している形になります。
これはどこの国でも同じです。日本も地方交付税で経済的に苦しい地方を援助しています。
ちなみに1988年にクロアチアが連邦に支払った分担金は20億ドルで、還元されたお金は12億ドルだったそうです。
こうした事がクロアチアやスロベニアは不満だったようです。自分達の出すお金を全部自分達で使えれば、自分達はもっと裕福になる・・・その考えが独立に走らせました。
セルビアにしてみれば、クロアチアとスロベニアばかりが富んでいるように見え、不満がありました。
経済は歴史や地勢や資源によって、どうしても地域で格差が生じます。
チトーにしても短い間でそれを是正する事はできませんでした。

(3)
1946年にソ連の憲法を参考にした憲法ができます。
1953年に連邦政府の権限の規定と大統領制を取り入れた憲法に改正されます。
1963年に労働者自主管理と非同盟に法的根拠が与えられます。
1971年に連邦幹部会制度と各共和国の自治権が拡大されます。
1974年にコソボとボイボジナが自治州に格上げされます。
なお、1971年の連邦幹部会制度と共和国の自治権拡大については、1974年としている文献やサイトもあります。私にはどちらが正しいか判断がつきません。
私は憲法には詳しくないので、これ以上わからない事があったら新たに質問を立てて他の方に聞いた方がよいと思います。

(4)70年代にクロアチアが独立の声を上げのも、連邦への分担金とその還元されるお金が少ないのが発端です。これがセルビアに搾取されていると見えたようです。しかし、現実にはただ単にクロアチアが他に比べ裕福にあったにすぎず、相応の負担を連邦政府が求めたにすぎません。
セルビア主義でクロアチアからお金を取っていた訳ではありません。
(2)の経済のところで書いたように、経済的な差から北のお金が南にまわされただけです。これをクロアチアがセルビア主義と曲解したにすぎません。
コソボにしてもセルビア主義で連邦が運営されているのなら、自治州に昇格する筈がありません。セルビアは反対したのです。
まあ、コソボについてはセルビアの一地域でしたから、独立を望むのは当然だと思いますが。

そもそも、第一のユーゴの国名「ユーゴスラビア王国」の改称される前の名称は「セルビア・クロアチア・スロベニア王国」であり、構成民族としては、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人しか認められていませんでした。マケドニアやモンテネグロはセルビアの一部という扱いだったのです。
それがチトーの時代になってマケドニアとモンテネグロに民族としての地位と共和国として権利を与えられたのです。
そして1974年にはセルビアのコソボとボイボジナが自治州に権利を拡大されます。
もし、ユーゴがセルビア主義で運営されているなら、セルビアの権利が縮小されるような、このような事態は起きる訳がありません。
この時代、セルビア人の方も不満をもっています。ユーゴで最も人口が多いにも関わらず、その権利は侵害されていると感じていました。
「セルビア人は民族主義的な主張を抑圧する事で国家の統一を図る共産主義政権の犠牲者である」とセルビア人は主張しています。特にコソボが自治州に格上げされた1974年以降、この主張は激しくなりました。
セルビア主義どころか「犠牲者としてのセルビア人」が当時のセルビアの言い分です。

ユーゴ末期にはセルビア主義が台頭し、コソボの権利等も奪われますが、少なくともチトーの生きている間に、セルビア主義で連邦が運営されていた事はありません。

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この回答への補足

ありがとうございます。またまた、すばらしい回答ありがとうございます。そして、私もまたまた補足なのですが、チトー死後、すぐに民族それぞれが自分達の独立を訴え、91年には解体してしまうと思いますが、それと同じ時期ソ連も解体していると思います。ユーゴやソ連などの多民族国家の連邦で、成功している国はあるのでしょうか?連邦はこの二つしかないですか?
また、回答者さんは多民族国家をまとめるためには、何をすべきだと思いますか?

また、経済格差がうまれた理由として、宗教は関係あるでしょうか?
なぜなら、スロベニアやクロアチア側はキリスト教(カトリック)、他はイスラム(オスマン帝国の影響で)が拡大していたと思います。セルビアは正教会がありましたが、イスラムの影響はまったくないという事はないと思いますので・・。どうでしょうか?

また補足すると思いますが、宜しくお願いします。

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  • 回答者:DieMeute
  • 回答日時:2008/03/09 20:29

NO.1です。補足の質問があったようなので・・・

(1)労働者を中心とする制度です。
この方式は、ユーゴスラビアがソ連と対立した結果、ソ連と東欧諸国から経済制裁措置を為された為に経済が悪化し、それに対処するベく行われました。ようは国家の負担を減らそうとして行われました。
チトーの時代に施行された政策ですが、発案者はユーゴ共産党の中央委員を務めていたカルデリ氏だと言われています。
私は経済にはあまり詳しくないので、これ以上分からない事があったら、新たに「経済」のカテゴリーで質問する事をお薦めします。

(2)チトーがどのようにユーゴをまとめあげ、また他の他民族国家と違った点にいてですが・・・

1.チトーに対する国民の高い支持。
前の回答でも書きましたが、チトーは「ウスタシャ」や「チェトニック」の暴虐、そしてドイツの支配からユーゴを解放した「英雄」です。誰にでもできる事ではないし、簡単にできる事でもありません。チトーは「救国の英雄」とまで讃えられている人物です。その為、国民の人気も高く戦後に行われた選挙では、チトーの率いる共産党は91%もの票を獲得しています。
また、後にチトーは非同盟主義を打ち出しますが、ソ連やアメリカなどの大国の言いなりにならず、独立を堅持し、非同盟諸国会議で重要な役割をこなした事に、ユーゴスラビア国民は非常に自尊心を満足させ、より一層チトーへの支持を高めたと言われています。

2.チトーが公平であった事。
アフリカ諸国の元首に多く見られる事ですが、自分の出身民族や部族にその地位を利用して利益誘導を行ったり、他民族、他部族を弾圧したりする事は決して珍しい事例ではありません。
こうした事をチトーは決してしませんでした。チトーはクロアチア人の父を持ち、スロベニア人の母を持ち、戦後、結婚した女性はセルビア人でしたが、どの国も特別に優遇した事はありません。
そのような事をすれば、優遇されなかった民族が不満を持ち、せっかく纏まっている国が再び内紛に曝される危険があったからです。

3.各民族への大幅な権限の移譲。各民族を主体とした六つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、マケドニア、モンテネグロ、ボスニア)を成立させ独自の政府、議会、裁判所の設置を認めました。
これにより民族的不満の噴出を抑えようとしました。

4.民族主義の禁止。民族主義的傾向の発言や行動は全て禁止され、それを行った者は厳しく処罰されました。
チトーがどれだけ努力しても、完全独立を望む声は消えず、チトーの政権下でもクロアチアやスロベニアで独立運動が起こった事があります。
これに対しチトーは運動した者を逮捕、粛清、海外追放などの処分にしています。

5.前の回答にも書きましたがソ連の脅威。

(3)チトー時代のセルビア人の権力は、他の民族と同等であり優遇された事はありません。各民族の平等こそチトーが最も留意していた事です。
ベオグラードが首都に選ばれた理由は幾つかあります。ベオグラードは欧州でも歴史のある古い都市であり、交通の要衝でもありました。そしてユーゴスラビア最大の都市でした。過去に首都だった事もあり、首都機能を持たせるのに問題はありませんでした。
しかし、何より重要なのはこの都市がチトーがパルチザンを結成しユーゴ解放の戦いを始めた歴史的に記念すべき都市だったのです。ユーゴの解放はこの都市から始まったのです。
それが首都に選ばれた理由であり、セルビア人の為に選んだのではありません。
過去のセルビア人が強い権力を持っていた最大の理由はその人口です。現在でも旧ユーゴスラビア地域に住む民族で最大の人口を擁しているのはセルビア人です。現在、約820万人以上が旧ユーゴスラビア地域
に住んでいると言われています。その次に多いのがクロアチア人で約460万人いると言われています。スロベニア人は178万人です。

(4)ウスタシャについて・・・
この組織を作ったアンテ・パベリッチは元はユーゴの国会議員でした。しかし、議会活動では思うようにクロアチア人の権利を拡大できず、ファシズムに傾倒し武力による権利獲得を思い描きます。そして1929年にウスタシャを作りました。以後、色々ありますが、彼に援助の手を差し伸べたのがイタリアのムッソリーニです。この後、アンテ・パベリッチはドイツにも接触します。
そしてドイツがユーゴに侵攻しクロアチアに傀儡政権を作ろうとした時、担ぎ出されたのがアンテ・パベリッチです。ドイツが傀儡政権を作ろうとした時、ヒトラーにアンテ・パベリッチを強く推薦したのがムッソリーニだとも言われています。

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この回答への補足

ありがとうございます、とても分かりやすかったです。
1、補足なのですが、ユーゴは48年にコミンフォルムからの追放と共に、ソ連との国交が断絶し、それ以来非同盟国を掲げていたと思うのですが、50年代にアメリカから軍事援助、ソ連との国交正常化と大国との国交を回復しているにも関わらず、54年にチトーがインド、ビルマに非同盟国として来訪しています。これはどういうことなのでしょうか?非同盟ではないですよね?

2、二つ目の補足ですが、経済的な改革についてユーゴはあまりうまくいかなかったと聞きましたが、それはなぜでしょうか?それぞれ、経済格差が生まれそれによる各共和国での不満が爆発したと聞きました。
経済的にチトーはどのようなことをしたのでしょうか?

3、憲法改正ですが、憲法をこのチトーの時代だけで4回も変えていると思います。それぞれ、第一回からどのような憲法であったのかということを簡単でいいので教えてください。

4、最後に回答者さんはこの連邦が設立後には、セルビア中心主義ではないとおっしゃいましたが、70年代にコソボやクロアチアで民主主義が出てくると思います。私が聞いた話では、連邦がセルビア中心主義に不満を抱いた彼らが、独立心を抱いたと聞きましたが・・・。どうでしょうか?

以上お願いします。

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  • 回答者:DieMeute
  • 回答日時:2008/03/09 05:04

<チトーの成し遂げた事>
1.パルチザンを率い侵略者からユーゴを解放し独立を取り戻した事。
2.「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字」と表現され「モザイク国家」とも言われる多民族国家のユーゴスラビアを一つに纏め上げ、二十数年間もの間、「平和」を維持した事。世界を見れば民族の対立で多くの国で内戦が起こっている事がわかります。それを鑑みれば、チトーがもたらした「平和」がどれだけ凄いのかが分かると思います。
3.他の東欧諸国のように、ソ連の属国とならず完全な独立を維持した事。
4.自主管理社会主義を建設した事。

<ソ連と不和になった理由>
ソ連は東欧各国を、政治的にも経済的にも支配下に置き、従属させようとしました。ユーゴスラビアも同様に従属させようとします。チトーは共産主義者ではありましたが、ユーゴスラビアがソ連の属国になり、その言い成りになる事は拒否したのです。
また、当時、チトーは内戦状態にあるギリシアの共産党を援助していました。これをソ連は止めさせようとしますが、チトーは援助を続けソ連と対立します。
(第二次世界大戦中、イギリスのチャーチルと、ソ連のスターリンとの間での取り決めで、戦後のギリシアは西側の影響下に置く事が決められており、ソ連はギリシアの共産党を見捨てていました。これにはイギリスと同盟を組むアメリカが核兵器を持っており、この時点では西側とは対決したくないという意思もソ連にありました)
さらにはチトーにはバルカン連邦という構想がありました。ユーゴスラビア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、アルバニア、ギリシアを一つの連邦に統合しようという構想です。ソ連としては、これが実現すれば、下手をすれば自国にとって脅威になるかもしれない大国が出現すると考え、反対します。
こうした様々な理由からソ連とユーゴスラビアは不和になり、遂には1948年6月28日に「コミンフォルム」からユーゴスラビアは除名されました。

<チトーの建設した社会主義>
自主管理社会主義と呼ばれるもので・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E4%B8%BB% …

<補足として、チトーとソ連>
ユーゴスラビアがドイツの侵略にあった後、ユーゴスラビア共産党は解放の為に立ち上がり、チトーがそのトップに立ちます。こうした動きをソ連は黙殺しました。チトーが連絡してもなんの返答も返さなかったのです。ソ連はドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり、ドイツと敵対するような事は避けたかったからです。
ドイツと戦争になりようやくソ連はチトーに連絡します。しかし、それは「ユーゴ共産党の使命は、ソビエト人民の正義の戦いを支援する事にある」というものでした。
以後、チトーはろくな援助ももらえず孤軍奮闘します。それどころか、ソ連はイギリスの支援する抵抗組織「チェトニック」を支援しろとまで言いました。
(ソ連はドイツとの戦いで酷いダメージを受けており、米英から援助を受けています。戦車1万両以上、航空機1万6千機以上、など他にも莫大な物資です。自国がそのような状況で危機にある時、チトーを大規模に援助している余裕はないし、米英の機嫌をとる為にも、「チェトニック」支持の態度を打ち出していたのです)
結局、連合軍がチトーへの援助に乗り出したのは、「チェトニック」が頼りにならない組織と分かり切り捨てた後で、1944年という大戦後期でした。その援助もイギリスとソ連を比べた場合、明らかにイギリスの援助が勝っています。
その為、チトーはソ連の援助を受ける事なく勝利を勝ち取ったと評する文献もあります。
次の二つのサイトでもそうした表現がされています。

ユーゴスラビア共産主義者同盟の「反ファシズム闘争と祖国解放」の項。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC% …

ユーゴスラビアの「第二次世界大戦」の項。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC% …

<補足として、チトーへの国民の大戦中の支持について>
大戦中、市民はドイツの侵略や「チェトニック」や「ウスタシャ」の暴虐に苦しめられていました。
そんな時、現れたのがチトーです。チトーは民族の違いをこえ、ユーゴスラビア国民としての団結と独立を訴えました。スローガンは「友愛と団結、民族の平等」です。
また、彼の率いるパルチザンは規律も正しかっと言われます。そうした主張と態度が市民の支持につながりました。
そしてその市民の支持の高さを連合軍首脳部が知り、援助をする方向に向かっていきました。

なお参考に「チェトニック」とは・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7% …

「ウスタシャ」とは・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B9% …

<補足として大戦後の国民の団結について>
大戦後、ユーゴスラビアが団結していたのは、それまでのチトーの功績
と政策の他に、ソ連への恐怖がありました。隙を見せれば(内紛をしていれば)ソ連の軍事的介入にあい支配されるかもしれないという恐怖が国民を団結させていました。

なお、1948年に「コミンフォルム」を除名された時は、ソ連の侵略が深刻に懸念されていました。ただ、この時は逆にソ連の行為はユーゴスラビア国民を憤激させたとも伝えられています。
除名された日は6月28日ですが、この日はユーゴスラビア国民にとって特別な日です。この日はギリシア正教の「聖ヴィドスの日」であり、1389年にコソボでセルビア王国がオスマン帝国に敗北し、コソボを失った日(敗れはしたが、全てのキリスト教徒の為にセルビアがイスラムと戦い犠牲になった聖なる日という解釈)であり、1918年に成立したセルビア・クロアチア・スロベニア王国で最初の憲法が制定された記念の日であり、1914年にはサラエボでフェルディナント大公が暗殺された曰でもあるという曰くのある日です。
わざわざユーゴスラビア国民の愛国心を思い起こさせる日を狙い、除名という不名誉な行為を投げつけてきたソ連に対し、ユーゴスラビア国民は憤激したそうです。
また、この時、さらに国民の怒りを増幅させたのが大戦時についてのソ連の主張でした。ユーゴスラビアが共産主義国家として大戦後に独立できたのは、パルチザンのおかげではなく、ソ連軍の功績と言ったのです。これにもユーゴスラビア国民は激怒したと言われています。たいした援助もしていないのに何を言うのだと・・・
ソ連としては、除名すればユーゴスラビア国内で内部争いが起き、ソ連に忠実な者達が実権を握るか、ソ連の力を恐れる者達の圧力でチトーが屈するだろうという思惑があったようですが、見事に外れたようです。

そんなユーゴスラビアですが、冷戦が崩壊しソ連が弱体化して侵略の心配もなくなると、各民族で独立の話が吹き上がり、遂には崩壊し、今に至っています。

最後にチトーを・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7% …

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この回答への補足

ありがとうございます。
補足です。回答者さんが添付されたサイトはほとんど見た
のですが、自主管理制度だけよくわかりません・・・!

1、これは、労働者が主なる中心となる制度なのでしょうか?できれば、簡潔に教えてください。また、これはチトーによってできた制度なのでしょうか?

2、チトーはモザイク国家をまとめあげたのがすごいというのは、誰もが驚くべきことで今後こんな人物はいないと思うのですが、さてチトーはどうようにこのような多民族国家をまとめあげることができたのでしょうか?独裁だと思いますが、しかし独裁だけで20年以上も続くのかな・・と思いまして。他の多民族国家(どこか思いつきませんが・・)と比較して、違うところはどこなのか、詳しく教えてください。

3、第一のユーゴスラビアの成立以来セルビア主義というものが主に台等していて、セルビア人が権力を握っていたというイメージがあるのですが、チトーの時は、どうだったのでしょうか?チトーの両親はクロアチア人とスロベニア人でセルビア人ではないのですが、ユーゴの首都がベオグラード??だと、チトーもセルビア人なんだと最初は思っていました。しかし、違うという事を知り大変驚きました。
セルビア人というのは、なぜこんなにも強い権力を王国時代から握り続けることができたのでしょうか?

4、最後にウスタシャについてですが、この組織はドイツの傀儡であるクロアチア独立国の際にできた組織だと思いますが、ウスタシャの創立者はファシストと書かれていました。別にファシスト(イタリア人)というわけではなく、ファシストで訓練を受けた人物がドイツの傀儡である国を建てたということでしょうか?
いまいち、ドイツの傀儡なのかイタリアの支援でできた国なのかわかりませn。
お願いします。

ちなみに何かお勧めの本があればお願いします。

  
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