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関根正雄訳 ヨブ記第15章 第15節
見よ、神はその聖者をも信ぜず、
天も彼の眼には清くない。

日本聖書協会 ヨブ記第15章 第15節
見よ、神はその聖なる者にすら信を置かれない、
もろもろの天も彼の目には清くない。


1 神が聖者をも信じていないことを示す事例を旧約聖書の中に見出す事ができますか。一つ二つ例示して下さると有り難いです。経典名と章、節を上げて下されば文言の有無はお任せします。
2 「もろもろの天」とは如何なる概念を思い浮かべればよいですか。
よろしくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

英訳だと、saints(聖者),holy ones(聖なる者)ですが、英語の注釈を見ると、angels(天使)のことだと書いてあります。


http://www.bibleexplained.com/other-early/Job/jo …
また、英語訳のなかにははっきりangelsと訳しているものもあります。
Why, God does not trust even his angels; /even they are not pure in his sight.(Today's English Version)
 悪魔ももとは天使だったという説はよく知られていますよね。
「もろもろの天」ですが、古代ユダヤ人の考えでは天は7つあったそうです。聖書の用語としては、「天」はギリシア語、ラテン語でも複数にすることが多いですね。次のサイト参照ください。
http://www.j-bible.com/psalms/psalm019.html
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この回答へのお礼

1に関して
成るほど(と、分かった風な返事をしてはいけませんが)、ユダヤ教徒にはあって日本人には無い概念を日本語に訳す際に生じる悶着ということでしょうか。そうなるとヘブライ語の原典に当たらないといけませんね(今更、気付くのもおかしな話ですが)。
「聖者をも信ぜず」の「聖者」は実は「天使たち」で、「悪魔」も「天使たち」に属すという意味合いのことを注釈に入れるのも一つの案でしょうか。
2に関して
ご紹介の資料から判断すれば、日本語では単数の「天」の方がよさそうに思いました。

翻訳だから日本語に引っ張られすぎるなとの忠告として読みました。毎度、有り難うございます。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/03/31 20:55

 No.5&6&10です。



 聖書は すべて 表現の問題です。
 《はじめに ことばがあった。ことばは神とともにいた。ことばは神であった》と聖書記者ヨハネは書きましたが いまたとえば日本語として使っているこの人間の《ことば》が そのまま《神》であるわけがないと考えるのが ふつうでしょう。《神》ということばでさえ 《かみ》そのものであるかと言えば 否です。すべては 譬えであり そのものを代理する表現です。
 人間のことばを超えているものを 代理としてのことばによって表わし 人びとのあいだに意思疎通ができるかに思われることのほうが 不思議です。
 つまり 聖書については 解釈は 自由であるし いくらでも ありうるということでしょうから その妥当性を 自由に競い合えばよいわけです。

 旧約聖書については それとしての厄介さがあります。やたらヤハウェー(主)が あたかも直接に登場して来ます。これも 基本としては 表現の問題という見方で 対処するのがよいと考えます。

 《狭いながらも楽しい我が家》とか《雪の降る夜は楽しいペチカ》とか言います。これは 《家やペチカ》が楽しむわけではなく そこにいる人びとがです。
 この種の表現の問題というのが あります。 
 《ねたむ神 怒る神》と言います。《神》が怒ったり嫉んだりするという解釈もありましょうが そうではなく別様に 神のもとにあって ありながらも その人びとが嫉んだり怒ったりしているとも解せられるのではないでしょうか。きれいごとに堕していますでしょうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 カインは主に言った。
  ――わたしの罪は重すぎて負いきれません。・・・わたしに出会う
   者は誰であれ わたしを殺すでしょう。
 主はカインに言われた。
  ――いや それゆえカインを殺す者は 誰であれ七倍の復習を受け
   るであろう。
   (創世記4:13-15)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この場合など どちらの発言も 人間の望みや願い そういったもろもろの思いを反映させているのかも知れません。普遍的に生きる欲求があり たとえ死んでしまえという怒りを起こしても その心の奥底には 自他ともに 死なないで・死なせないで 和を貴ぼうとする問い求めがあるように思います。
 つまりは おそらく一般的に言っても このような《主》との対話としてのごとく さまざまな思いを表わしていると 一応は 解釈できるのではないでしょうか。ただし 霊感の問題は それらとは別にあるのでしょう。
 霊感の部分は 神を われわれ人間とはまったく別の存在として捉えていると思われます。それゆえ 《風は気ままに吹く / わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ 慈しもうとする者を慈しむ / わたしは〔双児であるのに そのうち〕ヤコブ(弟)を愛し エサウ(兄)を憎んだ》などとあります。もちろん 《風・わたし》は 神のことです。
 
 そうして このヨブ記ですが 人間世界の常識――たとえば 因果応報説です―― これが 神の世界においては 通用しないことがあると言おうとしていると思います。《通用しない》というと語弊がありますが 《通用すること(要するに 人間の考え)から 神は 超えている》のだと思われます。
 しかも このことが 人間世界にも 時として起こるというふうに さらに ヨブ記の作者は 言おうとしているのではないでしょうか。人間の常識を超えたことが 起こりうるのではないかと。
 
   ヨブと言えども 理由なしに(=只で / いたづらに / 何の得も
  ないのに) 神を畏れたりするものですか。
   (ヨブ記1:9)

 これが サタンの主張です。打算がないとまでは行かなくとも 自分のはかりごとがないなどということは ありえないというこの〔別の解釈によれば サタンではなく世間一般の〕声に抵抗・対抗する意図があるようです。何ごとも多少は自分のためにこそ おこなっているのだという世間の常識を 超えることが 時として 起こりうるのだと。
 ただしそれは 最終的に 人間ヨブの能力や努力によるのではなかったと言おうとしています。ヨブの友人たちは むしろ道徳堅固なのですが しかも その倫理的な知識や努力によって 神の領域に迎え入れられるのではないと。つまり そのなぞの力は これを 信仰と言うのだというのが アブラハムからの伝統のようです。
 つまりは 神は まったく なぞである。そのなぞを 少しでも 人間のことばであたかも代理して 表現しますと言っているようです。もしそうであれば とうぜん すべては 表現の問題に帰着するもののようです。

 そんなわけで もし《神は聖者を(あるいは人間を)信じない / 信じる》という表現が使われていても 文字通りに取る必要はないと考えます。こちらの・つまり人間の信仰の問題でしょうし それは しかも その信じる / 信じないということに対しては どうやら 神の側からの働きかけ(風の吹き回し)が先行しているということのようです。
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この回答へのお礼

ANo.10によってANo.5、ANo.6が
>>《神が聖者を信じていない》という設問がなじまない
と述べているのだと今は私にも判っています。
馴染まない設問に応えることは誰にも出来ません。どうぞ無理をなされませんようお願いします。
有り難うございました。

お礼日時:2008/04/04 19:54

No.5&6です。



 1.への答は 次のようです。
 ANo.5では 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《われわれ人間が どう考え どう行動し また 信仰を堅くしたりゆるがせにしたりというふうに どう振る舞っても 神の意志が変わるわけではない》ということだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ANo.6では
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神は 人をわざわざ信じる必要も 信じない必要もないということが 帰結されるはづです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ですから 《神が聖者を信じていない》という設問がなじまないというように思いますという意味でした。わかりにくかったですか。
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この回答へのお礼

>>わかりにくかったですか。
わかりにくかったのではありません。全然、分からなかったのです。

ANo.5、ANo.6が
>>《神が聖者を信じていない》という設問がなじまない
こういうことを述べているのだということをANo.10によって始めて知りました。私の読解力では想像を絶することです。
有り難うございました。

お礼日時:2008/04/01 23:14

>神が聖者をも信じていないことを示す



ここが理解できない、神が人間を信じてはいないと思うが、私達が神を信じるのであって、信じないものに対する警告はいくらでもあります。
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この回答へのお礼

ANo.3とANo.8を読み直しました。これらからANo.9に書いてある事を読み取るのだと、ANo.9によって今知りました。私の読解力では想像を絶することです。
有り難うございました。

お礼日時:2008/04/01 23:10

No3です。

主に選ばれた弟子の一人でしょう。したがってついていき
「ついていきますと」しかし鶏の声を聞いて泣いてしまった。
信じているから弟子にしたわけでしょう。

見よ、神はその聖なる者にすら信を置かれない

聖なるものではなく謙りものに信をおくのです。
ここで言う聖なる者は傲慢であると言う感じでしょう
>もろもろの天も彼の目には清くない。
だからもろもろの天(空全体を見ても)も彼の目には清く映っていない。
つまりヨブのような人と言えるのでは?

そこには常に「私」がいて主の臨在を忘れていると言う感じでしょうね
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この回答へのお礼

読解力に欠けているせいか、質問文に対するANo.3は一度目の禅問答でした。
ANo.3の補足の欄に対するANo.8は二度目の禅問答です。
三度目も禅問答になると予想されるので何もお願いはしません。
有り難うございました。

お礼日時:2008/03/31 20:57

 No.5です。


 微妙にちがうと思いましたので 投稿します。

 まづ 尋ねておられる箇所は No.4の方が指摘されているように ヨブの友である《テマンびとエリパズ》の発言の一部です。全体として言えば この友の見解は 神によっても 捨てられます。
 ただ 因果応報と言いましょうか そのような善因善果・悪因悪果という見解を述べていると思われるのですが このこと自体を否定するというものでもないと言わなければなりません。つまり 信仰の立ち場は 《因果応報から自由である》というものですが そのとき《・・・から自由である》というのは その内容(つまり善因善果など)を含むと考えられるということになります。ですから 微妙な対応になると思います。
 《人に説明できない》と表現する場合 もしかすると 《説明できて さらには それが 神の み心であった》という場合があるかも知れません。分かりません。そういう意味を含んだ《説明困難》です。

 細かくは――最初の回答で示すべきだったようですが―― 神を想定する場合 その神は 人をわざわざ信じる必要も 信じない必要もないということが 帰結されるはづです。全知全能とは そういう意味だと思われます。そして 信仰者のほうも そのことを知っているはづです。
 《もろもろの天》は 《清い》ものの代表として挙げられているのだと思います。

 わたしが 初心者だったころを思い浮かべると 比べものにならないほど 熱心に問い求めておられると思いました。
 もう少し詳しく言うと わたくしの場合には 初めに信仰が どうも自分に与えられているようだと感じてから 本格的に勉強し出したので 聖書の全体を隅々まで知るというよりは 信仰のあり方――もっと 端的には いったい 人間が信じるとは どういう事態か―― これを うんうん うなりながら 問い求めていました。・・・
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この回答へのお礼

>>《もろもろの天》は 《清い》ものの代表として挙げられているのだと思います。
これによって質問の2へのお答えは間違えなく頂きました。

質問1へのお答えは、既にANo.5、ANo.6に書かれているのだが、それを私が読み取れないだけだと理解し納得します。
有り難うございました。

お礼日時:2008/03/31 20:52

 アブラハム(その当時は アブラムと名のる)は



  ――あなたは生まれ故郷 父の家を離れて
   わたしが示す地に行きなさい。
    (創世記2:1)

と《主》から言われて 旅に出たと言います。ここで 他人から見れば かれが 移動したということしか 事実としては はっきりしません。あるいは 《これこれのことを 確かに声として聞いた。だから土地を離れたのだ》というアブラムの説明を聞いて そういう話のほかに もう 事実としてはっきりしたことはないわけです。
 つまりは アブラムの説明が 嘘ではないかという疑いのことではなく その説明内容が 果たしてどういう実際を言っているのか まるで分からないという意味です。つまり たとえばかれの父が 《ほかの土地へ行け》と言ったのではなく また 昔からの言い伝えとして聞いていた内容があってそれを思い出し そのことが自分にぴったり当てはまると思ったので 移住しようとしたのでもない。けっきょく《主が言われた》と言っても つまりさらには

   わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの
  名を高める 祝福の源となるように。
  (承前)

という話だったというように アブラムから説明を受けても わたしたち他人は それが どういう経験現実であるか 分かりません。あるのは アブラムの主観真実と 移動という行為事実だけです。

 ヨブにしても《聖者》にしても 人間に関するかぎり まったく事情は同じです。主観真実と行為事実と そして まだあるとすれば それは 主観真実のことばによる説明です。何ものであるのか全く分からない或る者を《主》と言ってみたり そのような代理表現を用いて さらにその物語を なんとか分かるようにと 説き明かして語りつづけることです。
 言いかえると もし《神》が存在すると想定した場合には その神とそしてわれわれ人間とは まったくその存在の仕方は違っています。神について われわれの世界とその歴史にどのように現われているのか そもそも現われてくるのか いっさい分かりません。つまり それは 主観真実としての信仰のことにもなるわけですが まづは このような大前提をふまえることが 肝心ではないでしょうか。
 《神は人間を信じている / いや 信じていない》という判断は 一人ひとりの主観真実の問題だと まづは言わなければなりません。
 
 そこで おまえはどう思っているのかと問われるのなら こうです。《われわれ人間が どう考え どう行動し また 信仰を堅くしたりゆるがせにしたりというふうに どう振る舞っても 神の意志が変わるわけではない》ということだと思います。《神の意志が変わらない》という意味は 人間の次元においては 経験現実としての自分の人生に 紆余曲折がありうるということです。しかも 誰にとっても こうだという言い方は なかなか出来ないものと思います。自分の内面の問題なのです。
 人に説明は出来ないのです。説明は出来ても 説得は出来ません。説得も出来ても 大勢の人に長期間 その主観真実の内容が 当てはまるようなことは 稀れです。或る主観真実が 普遍的な真理であるということは ありえません。しかも おそらく なにがしか共通のこころがあって 一片の真実を互いに共有するということは この世で現実に起こるようです。
 そういう問題だと思いますが どうでしょうか。
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この回答へのお礼

確認します。
一般論として、理解の深さは違っても、おっしゃることには賛同できるつもりです。
このご回答の論旨をこの質問に適用する場合、
質問の1も2も
>>人に説明は出来ないのです。
こういう範疇に該当するとのご意見だと考えてよいですか。よい場合にはご返事は要りません。
有り難うございました。

お礼日時:2008/03/30 18:14

神が聖者を信じていない、というのはどの場面でしょう?


ヨブ15章15節は、苦しんでいるヨブに対して友人が信仰を捨てろ!
と諭している場面です。その後延々と神をののしるためにヨブは激しく
怒ります。
のちに神は、サタンの試みを終え、終始信仰を捨てなかったヨブに、失
ったすべての物を二倍にして与えました。ヨブを信じなかった場面は何処にもありません。
もろもろの天というのは他翻訳では単に「天」となっていたりします。
聖書に沢山出てくる言葉で「神の住む領域」です。
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この回答へのお礼

ヨブ15章15節は
>>苦しんでいるヨブに対して友人が信仰を捨てろ!
と諭している場面です。<<
こういうことが書いてあるのだとは露ほども思っていませんでした。
こういうことが書いてあるのであれば質問は成立しません。無視して下さいませ。

それにしては質問に平気な顔をして応えてくれている方々が居られるのは腑に落ちません。もう少し様子を見させて下さいませ。
有り難うございました。

お礼日時:2008/03/30 18:08

旧約ではないがペテロを考えれば理解できるはず

この回答への補足

「ペテロを考える」ということは「ペトロという人物」のことを考えることですか。それとも「ペトロの手紙一」、「ペトロの手紙二」を読むという事ですか。どちらでもないのですか。
「ペトロの手紙一」の前提は「選ばれた人たちへ」となっているように読み取れますし、「ペトロの手紙二」は「信仰を受けた人たちへ」となっているように読み取れます。
ご回答は「選ばれていない」し、「信仰を受けていない」者には分からんよ、という主旨だと思ってよいですか。
事情が許せばご返事を下さいませ。

補足日時:2008/03/30 10:51
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直訳ではなく意訳して、その文章の意味を汲み取らなければならないと思います。




人間が扱う言語にはイデオムというものがあります。
ある程度の能力が無いと、使えません。
が、平均とされる人たちは使える。

ところがある障害を持つ人は、比喩的表現を理解するのが困難で、それゆえ比喩を多用し生活をする社会において、人間関係に能力の低さゆえに障害を持つ。
コミュニケーション不全に陥る。

多数者は、まさか相手が比喩を理解しないなど思いもせず、相手の反応に怒りを覚えたりします。


例えば子供が牛乳をこぼした場合、かっとなって怒る代わりに、遠まわしに「牛乳をこぼしてくれてありがとう」と言うことがある。
その方がいいケースが多い。
その方が関係を壊さなくてすむから、比喩を使う。


ところが障害を持った人は、比喩を理解できないので、再度牛乳をこぼして、再度「ありがとう」と言われようとする。


ヘブライ語も湾曲表現を使います。

「目が悪い」とは盲目の人、近眼の人のことを指していないときがある。

イエスが目が悪い人を癒したを直訳すると、「目が見えなかった人に奇跡をもたらし、目が見えるようになった。」と医学の達人のようになってしまう。

ヘブライ語では「理解できるようになった」というニュアンス。
「良いもの 悪いものの、価値高いもの 価値が無いもの など 分別ができるようになった」 という意味。
これがイデオム。


で、ヨブ記の場合もこの文章が何を言わんとしているのか、全体を眺めて判断するのがいいと思います。

そうなると、この箇所は「神以外 何が絶対的にい正しいとわかる者はいない」くらいの意味だと思います。

それを詩的に表現すると、その文章のようになるのだと思います。


猪突猛進って、イノシシがばく進むような様ですが、イノシシがつっぱしっていてそれを見た時のみ使いませんよね?

多くの人はイノシシが走っているのを見ません。
が、猪突猛進は日常生活においてよく使う言葉。

アメリカ人がその文章を見て「日本ではよくイノシシを見かけるのですか?」と聞かれたら、あなたはなんと答えますか?

「イノシシは日本では滅多にというかほとんど見かけません。
が、イノシシのように目標を定めたら、迷わずわき目もふらずつき進む人はたくさんいます。そのような人たちの様を表すイデオムです」と答えますよね?
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この回答へのお礼

このご回答は今までと異なり第一行目から最終行まで、全てよく分かりました。
>>この箇所は「神以外 何が絶対的にい正しいとわかる者はいない」くらいの意味だと思います。
この解釈は質問の2を適切に説明しているように思えてきました。他の方の見解もお待ちします。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/03/28 23:44

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