徳川幕府の最大の名君・暗君は誰?
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徳川幕府において、最大の名君と言えば誰でしょうか?
幕府の礎を築いた徳川家康。
その百年後に享保改革を行ない、幕府財政を立て直した吉宗。
おそらくこの2人が筆頭に挙がるでしょう。
では、最大の暗君とは?
「お犬様」を保護する「生類憐れみの令」という偏狭な動物愛護法を
国民に
押し付けた綱吉。
子供を53人も産むというムチャをして幕府の財政を疲弊させた家斉。
鳥羽伏見戦において敵前逃亡をした慶喜。
皆さんの考える徳川幕府における最大の名君・暗君は誰ですか?
それぞれ挙げてください。
回答(6件)
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No.6ベストアンサー20pt
何をもって名君と言うか。 ここでは幕府の為の名君でなく日本国民の為としての、名君を取り上げて見ましょう。
「そうせい公」であっても国民が豊になり、喜ぶ時代であったなら名君です。 もう一つ、時代の変化を読み取り、その方へ舵をとれば、たとえその時代に成功しなくとも、国民にとつては名君でしょう。
家康 は勿論。 前者の轍を踏まず、新体制を作り長い泰平の世を作る。
家光 家康の蓄財を惜しげもなく費消し、経済の活況の基とした。
綱吉 元禄の盛況を国民は謳歌した。 「お犬様」の失敗はあっても。
吉宗 経済の停滞から革新を夢見た。 失敗続きでも挑戦の意欲は評価できます。
家治 田沼意次の登用。 意次は時代の変化を正確に見ていましたが、改革を急ぎすぎました。 功をあせったと言うのか、じっくり布石をして、次の世代に渡すべきでした。 残念です。
そのあとの改革はまるで、時代の逆行です。 新井白石も経済に強い関心がありましたが、具体策なく日本の金銀海外流出を、防げませんでした。
慶喜 幕府閉幕の決断です。
徳川家斉後半はあまりよくない時代でした。
親政した将軍とそうでない将軍もいますし。
各時代でまあまあ名君がならんだものだと思います。
家康 ○ 家重 △
秀忠 家治 田沼○
家光 ○ 家斉 松平
家綱 酒井? 家慶 水野
綱吉 △~○ 間 省略
家宣 ○
家継 新井? 慶喜 ○
吉宗 ○
どの時代のどの基準で判断するかで全く異なります
吉宗:経済のことが全く判らない時代遅れ、そのようなものが主導する改革だからすぐに破綻
光圀:吉宗と同類
慶喜:部下を置き去りに敵前逃亡を図る等、最高指揮官としてあるまじき行動をとり幕府を滅亡させた
綱吉:戦乱時代の常識の一掃を計り 文治主義への転換を成功させた
田沼意次:経済をある程度理解して改革を進めたが 周りが吉宗のような時代遅れの者ばかりなので、狙い撃ちされ失脚した
宗春(尾張):経済を理解し、産業文化の振興を図り成功を収めるも 吉宗の時代遅れの感覚の逆鱗に触れ蟄居
No.3ベストアンサー10pt
江戸幕府の徳川家にしろ鎌倉幕府の源家にしろ、日本ではほとんど政治らしい政治を将軍は行わないんですよ。なので「ただいるだけ」という存在が多く、名君でも暗君でもない(平和なときはその方が良いのですが)という将軍がほとんどですね。
名君としては
家康
をあげておきましょう。まぁ、創業者ですからね。他には綱吉ですね。
綱吉は別に暗君でもなく、彼の時代に世の中の雰囲気が殺伐としたものから穏やかなものに変わったと言われるほどの「太平の世」を根付かせた将軍ですし、実際問題として政治をやった将軍としては決して悪政は行っていません。また、彼の時代に赤穂浪士の討ち入り(松の廊下も含めて)がありましたが、果断な処理を行っていますね。
因みに言えば、生類憐れみの令なる法律は存在せず、何回か出された愛護法の総称のことですが、幕府の直轄地以外では全く通用しないものでした。
暗君としては・・・だれだろ? 徳川家には暗君らしい暗君がいないですね。
精々吉宗位ですか。彼は名君として挙げられることは多いですが、米の増産をしすぎて米価が下落し、農村の下落を招くなどの失政が多いですね。米価を維持するために幕府のお金で米を買う、そのためのお金を工面するために倹約令をだす、ということを行っていて、結局諸大名の困窮を早めています。武士の禄を借り上げる(という名目で減給する)のは、基本的にはこの時代以降ですね。
因みに言えば、日本酒はこのときの「増産しすぎた米」を消費するための一手段です。なので米の集積地であった灘(近畿~神戸近辺)が酒所として確立していますね。
家康 綱吉 吉宗
このへんが名君。
判断基準は、徳川家の政権を作った、伸ばしたという意味で考えた。
家康は むろん 徳川政権のファウンダーです。
綱吉は 文治主義への転換。あるいは精神的刀狩りです。
理解のために室町幕府で時間平行してみる。
南北朝合一 1392年
応仁の乱 1467年 + 75年
大阪の役 1614年
綱吉将軍へ 1680年 + 65年
とりあえず国家統一ができてからだいたい二世代たった段階で、足利家は統治不能になって、徳川家は統治継続した。
生類憐れみの令も、武断行為の個別禁止令といえます。
行政主導者選考にしても、血統主義を廃し、側用人という実力主義を導入しています。また勘定吟味役など、治世は経済と心得ていたようです。
低成長時代に、綱吉のつくったシステムで徳川生き残りを作ったのが吉宗といえます。
その後の将軍は、このシステムが組織疲労を起こすまで続いたという感じで、個別に名君とか暗君という評価の対象外と思います。
暗君リスト
徳川家定
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脳性麻痺とも言われており、在世中見るべき治績は何もない。また当時の
諸侯に暗愚と言われています。
また幕府弱体化の中での将軍であるので、特に暗愚が目立ちます。
まあ歴代将軍の中で一二を争う暗愚でしょう。
徳川家重
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脳性麻痺と言われています。一時は廃嫡の動きもあったようなので暗愚で
ある事は間違いないでしょう。ただ徳川幕府の体制維持的側面から見ると
まだ幕藩体制が盤石であった為、特段の失政は認められないので結果とし
ては暗愚でなかったような・・・。
徳川秀忠
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暗愚とするには可愛そうですが、関ヶ原の戦いは結果として東軍が勝った
から良いようなものですが、もしも負けていれば敗戦の原因は彼です。
初代と幕藩体制を盤石なものとした三代に挟まれて暗愚に見えてしまいます。
徳川綱吉
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治世としては高い評価がある一方、ちょっと変わった将軍だったようですね。
プラス、マイナスで暗愚とまでは言えませんが・・・。
徳川慶喜
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暗愚と呼ぶにはあまりに頭がよい人なのですが、徳川幕府を崩壊させた張本
人であることから将軍としては暗愚に入れざると得ないような・・・。
名君リスト
徳川家康
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彼が居なければ徳川幕府が存在しないのですから、最大の名君であることに
異論はないでしょう。
徳川家光
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彼自身の誉れではないかも知れませんが、彼の治世中に幕藩体制が盤石なも
のとなっています。結果として名君です。
徳川吉宗
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失政もありますが、もし彼が将軍になっていなければ徳川幕府は50年以上も
短くなっていたことでしょう。
徳川慶喜
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日本に諸外国の介入を入れさせない政治手法は名君です。彼が強硬な主戦論
者であれば結果として日本は植民地になっているか、分裂国家になっていた
可能性が高いですね。ある意味名君です。
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