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イスラムとキリストの似ているところ....

役に立った:3件
  • 質問者:winhijo
  • 投稿日時:2008/05/02 23:00
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イスラム教とキリスト教はどこが似ていますか?
またそれらと仏教との大きく異なることは何ですか?

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回答(9件)

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  • 回答者:ikegonomor
  • 回答日時:2008/05/10 15:40

ちなみに、ちょっと訂正。

> とにかく他の宗教を認めず、戦争を起こしてでも自分達の宗教を浸透させようとする所。

それはキリスト教の特性(布教の義務、「神の福音」をあまねく知らしめることが教義化されている)ですが、イスラームにはそのような教義はありません。たとえばユダヤ教やキリスト教のことは、教義上は「啓典の民」、同じ旧約聖書を共有する宗教として尊重することになってます。

まあ実際には必ずしも守られてませんし、一方でキリスト教の「布教の義務」も、押し付けるのではなくただ「知らせる」ことしかナザレ人イエスは言ってませんけどね。

従って、

> お互いに神との契約に基づいて存在するというのは同じで、その分妥協ができないので、原理的にはどちらか消滅するまで争う運命です。

…という運命は教義上はまったくありません。そもそも、本来なら神は普遍的存在それ自体であって、人間にはアクセス不能ですし、神の名を騙った「正義」を名乗ることを普遍的存在それ自体である「神」はその契約のなかで極めて厳しく制限してますから。たとえばイスラームにある「聖戦」、ジハードという概念は、元々は条件をもの凄く厳しくすることで安易に「神の名による正義の戦争」を起こせないようにするものですし。

実際にはしばしば争っちゃうのは、宗教とは関係ない世俗的権力闘争に宗教という大義名分が利用されているだけというのと、あと一種の嫉妬でしょうね。

> 救済をするのは、仏の力ということで、仏を信じようが信じまいが誰でも救済を受けることができるという考え方があります。

ちなみに「救済」の概念自体がユダヤ=キリスト教系の伝統ではキリスト教で導入されたものであって、ヘブライ的世界観は基本的に現実に存在する世界こそが人間の認識しうる限りの神のすべてですから、死後の世界などはほとんど言及もされませんし、キリスト教でも「救済」が死後のことなのかはナザレ人イエスの言ってることのなかではまったく分かりません。まあたぶん、キリスト教がギリシャ化されていく過程での後付けでしょうね。

あと…

> しもたー豚食ったらあかんて言うの忘れたーあと酒飲むのも禁止しとかな。と思い、ムハンマドの前に現れイスラム教が出来た。とか。

豚を食べることを禁じる(その他、「うろこのない魚」つまりタコなど、それにエビ、調理法では肉をそれと同じ動物の乳と一緒に料理してはいけないなどなど)のは旧約聖書で、イスラームの禁忌ではありません。

ちなみに、豚を食べていけないのは昔は寄生虫が多くて衛生上問題があったからだろう、というのが定説になってます。

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  • 回答者:ikegonomor
  • 回答日時:2008/05/09 05:25

こちらはちょっと誤解を招くので訂正…。

> キリスト教からしてみればイスラム教は同じ神を崇めているのに救世主を認めない存在で、
> イスラム教からしてみれば預言者を救世主と言うなど恐れ多い存在となるわけです。

キリスト教がヘブライ的世界観(ユダヤ教の世界観)から大きくギリシャ的、ヨーロッパ的に逸脱しているのは、神の絶対的存在性をヨーロッパ的な世界観が理解できなかったところにあります。ユダヤ教でもそのセム言語的世界観を踏襲しているイスラム教でも、神は絶対的・超越的存在、いわば世界が我々の周りにあることそのものですから、神自体には形はありませんし(だから神に形を与える神像は偶像であり、信仰対象ではあり得ない)、まして死すべき人間とはまったくの別物です。

神が創造したとされる世界のなかでその世界がどう出来上がっているのかの真理を理解する可能性を与えられた唯一の生きものが「人間」です。創世記・天地創造の第6日で神は人間を、本当は「神の特性に似たもの/一部」を持つものとして作ったと訳すべきなんですが、キリスト教で用いる聖書のベースになるギリシャ語訳では「似姿」、神の「イメージ」として作ったことになってます(だから神様が絵画に描かれるとなんとなくひげをはやしたおじいさんになっちゃうんですが)。またそこで最初からその特性を付与しておきながら、善悪の判断能力を人間が持ったら「命令に背いたな!」と天国から追放しちゃうのがヘブライ的神なので、何考えてるのかさっぱり分からないんですが、って何を考えてるのかさっぱりわからないからこそ「神」なのがユダヤ教やイスラームですが(自分で考えろ!それが人間の義務だ!と言わんばかり)、キリスト教はそこを適当に誤摩化してますので…。「神様は愛なんだからお優しいから導いて下さるし、奇跡も起こしてくれるわ」っていう人間の非常に勝手な思い込み(笑)。

で、だからユダヤ教やその世界観を受け継ぐイスラームでは、ナザレ人イエスはあくまで人間ですから、神ではありませんし、神の言葉を預かって人間に伝える(だから「預言者」)役割を持っているだけです。

ところがキリスト教はギリシャ的な世界観のせいで神でも絶対者であることは理解できないらしく、ギリシャ神話みたいに神を擬人化してしまいますから(実はここで理屈がひっくり返っています。神が人間を自分の「似姿」に作ったことが、逆に人間が神を自分の「似姿」として規定してしまっている)、ナザレ人イエスを神格化してイエスを神、神と同等の存在にしてしまっています。こりゃイスラームでは冒涜行為であり、ユダヤ人に言わせりゃ「お前らなぁんも分かってねぇなぁ」ってことになりまして、キリスト教の教義の中心にある(って、聖書にはどこにも書いてありませんけど!)聖三位一体、「神=息子(イエス)=聖霊」って、それ自体が「アホかいな」って話にしかならない、という。しかもキリスト教ではイエスさんは「完全に人間であると同時に完全に神である」ってことにしてますからますます…。その部分は論外として、「神=聖霊」も、「世界をあまねく覆う聖霊」を想定するまでもなく、「だって神は世界そのものなんだからなんで分ける必要があるねん?」でおしまい。このようにキリスト教は相当に無理のある宗教ではあります。

結果としてユダヤ教とイスラームは実は近代科学と対立しませんが(科学の法則の想定されうる究極を「神」と呼んでるだけの話になるので)、キリスト教は科学と対立するしかありません。イスラームでもユダヤ教でもビッグバン仮説はそのビックバン自体が神の存在証明(ってそう信じるかどうかだけの問題ですが)、キリスト教では神様という人(みたいなもん)がその意思で「ビックバンを起こした」と、つまりビッグバン宇宙の外側にそれを操る「神様」を考えないとわけがわかんなくなってしまうわけです。

今はやりの「原理主義」ですがあれはキリスト教起源、とくにアメリカのキリスト教徒で、科学が発展するとどうしても彼らの信じる極めて人間っぽい実態のある存在であるところの神様があり得ないことになってしまうから起った運動です。イスラームでもユダヤでも、本来は「神は実在するか」という問い自体が建てようがありません。世界が存在することそのものが「神」なんですから、その世界のなかに含まれる一部分が「実在する神」なんて筋が通りませんから、問題は世界が存在することを「神」と呼ぶかどうかだけに収斂されてしまいます。

で、まあ、そこまで高度に哲学的な議論にまったくついていけないアメリカの狂信的キリスト教徒が始めたのが原理主義運動で、宗教というよりも政治運動としてそれを真似たのがいわゆる「イスラム原理主義」です。「原理」といいながら、どっちも教義の基礎であるはずの聖典をロクに呼んでません。

ちなみに仏教はもっと怖くって、というか厳しくって、「真理」は個人が悟りをひらいて仏陀になりますが、その悟りの「真理」はそもそも他人に伝えられるものでは有馬線から。宗教ってのは大雑把に言って科学のない時代に世界観を与えて世界を整理統合して理解するための手段ですが、それが「悟りでしかわかりませんから、お経などでヒントだけは教えておきます」ってのが仏教ですから。

もっともその意味ではヘブライ的世界観の「理解不能な真理としての神」とよく似てますが、人間の考えることには突き詰めればそこまで違いはない、っつうことで。ちなみに「神」という言葉を外してしまえば、近代科学も根本的にはおんなじような考え方なんですけどね。

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  • 回答者:ikegonomor
  • 回答日時:2008/05/08 05:14

ちょっと説明不足というかいい忘れてましたが、キリスト教とイスラム教の最大の違いは、結局のところ「使ってる言語」です。それがまた元々のユダヤ教の一派である原始キリスト教とだいたい2~3世紀以降のローマ帝国のなかの宗教としてのキリスト教の違いでもあって、キリスト教は印欧・アーリア系言語で聖典自体が元はギリシャ語のものを用いますが、一方でイスラム教でコーランが書かれている言語のアラビア語は旧約聖書の言語であるヘブライ語とかなりよく似てますから。

新約聖書のうち福音書はマタイ、マルコはおそらくはもとはアラム語、ヨハネは元はヘブライ語ないしヘブライ語に通じてギリシャ語もできる人間がヘブライ語で考えたことをギリシャ語に訳して書いたものと推測されてますが、ルカと使徒行伝は最初からギリシャ語でギリシャ人が書いたもの、一連のパウロの手紙はギリシャ語でギリシャ語を介する非ユダヤ人に対して書かれたものです。このとくにルカ伝、使徒行伝と一連のパウロの手紙がキリスト教の本質を決めてるところがあり、その意味でキリスト教ってのはユダヤ教の派生宗教でありながら一方でギリシャ的、ヨーロッパ的な宗教です。他の福音書もその後キリスト教会で「異端」とされたりした宗派などで断片的に残ってるくらいで、ギリシャ語訳しか残ってませんし、旧約聖書も原典のヘブライ語ではなく、ギリシャ語からの重訳か、ギリシャ語からラテン語に訳した重訳を用いますから。で、そこまで重訳が重なると、「神=論理」という極めて明快なヨハネ伝の冒頭が、「神=言葉」ってなんだそりゃ、という解釈になってしまう。

ヘブライ語やアラビア語だと形而上と形而下という区別を厳密につける必要が特になく考えられるようになってるらしいんですが(詳しくは言語学者が博士論文を百本くらい書けるネタですが)、ヨーロッパの言葉って抽象概念と具体的な事物をいちいち区別しないといけないらしく、その区別の部分でいろいろ誤摩化しが効いちゃうんですよね。んでもって、だからこそ抽象概念や形而上概念がどうとでもとれるような曖昧模糊なものにどんどん変えられていってしまう。

ユダヤ教やイスラームでは信仰というのは具体的実践行為によって基本的には規定されるもので、その具体的実践行為も聖典にこと細かに書かれているのが、言語化するというのはそれ自体が抽象化ですから「『安息日には食物を熱してはいけない』と書いてあるけど、じゃあ具体的には安息日にお茶を容れていいの? いけないの? どうやったら律法的にOKなの?」で延々と議論できますけど、キリスト教にはそんなことにほとんど関心を示さないで、なんとなく「神のため」で誤摩化せてしまう。

三つの宗教のすべての基本であるはずのモーセの十戒の第4戒は偶像崇拝の禁止で、当初の書かれた意図はともかく(というかその「意図」自体を詮索しないで、ただ「偶像崇拝はいけません」が現前とそこにあることから出発する)、ユダヤ教やイスラームのもっとも純粋なところでは「禁止されている」ことから出発してその意味するところを延々と理詰めで解釈して、たとえばヨハネ伝の最初の節になる「神=論理=真理」だから具体的な形態を想定すること自体ができない超越的存在、となったりするからますます「神」の姿を具体的に想像すること自体が厳禁されますけど、キリスト教だと「真の神の像は偶像ではない」という、「はあ?」みたいな詭弁が堂々と教義化されちゃうわけです。

ユダヤ教とイスラームが演繹法的な宗教なのにたいし、キリスト教は帰納法的な宗教と言ってもいいかも知れません。

キリスト教徒にとっては具体的実践によって信仰を証明するよりも、「私は神を愛してます」「神のためです」というなんだか純粋にも聞こえるだけどそもそも証明不能な内面の問題にいったんすべて帰結させてしまったうえで、「神の教えを言葉の出来ない蛮族や貧乏人に伝えるには言葉よりも絵の方が便利でしょ? だからこれは神様のためなのよん」ということで本来もっとも根本的なところで禁じられているはずの「神の像」が堂々と信仰の中心になってしまうわけなんですよね。

そのぶん分かり易くて広まり易く、でもって「神は愛です」がナザレ人イエスの教えの中心ですから、そこからはみ出ない分にはもっとも世の役に立ちそうな宗教なんですけど、ところがその「愛」でさえテキトーに抽象化したうえで勝手に解釈しちゃうから、一歩間違えるととんでもないことになってしまう危険さもありますね。

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  • 回答者:ikegonomor
  • 回答日時:2008/05/08 00:59

だいたいすでに説明されている通りですが、より精確にはどちらも古代ユダヤ教からの派生宗教です。三つの宗教ともにキリスト教でいうところの旧約聖書、ユダヤ教での本来のいい方ではトーラー(律法の書)を聖典とし、かつ民族離散後のユダヤ教はタルムード、キリスト教は新約聖書、イスラームは新約とタルムードとコーランを聖典に加えます。

ユダヤ教と他のふたつの大きな違いは、ユダヤ教が民族宗教であるのに対して他の二つが普遍宗教を目指していることですが、キリスト教とイスラームの最大の違いはキリスト教が元々は反権力のいわば貧民の革命思想として出発し元々極端に抽象的でミステリアスなものであるのに対し、イスラームは現実世界の政治や社会秩序、生活の規範に重きを置いているところでしょう。ユダヤ教の持っている抽象的・形而上的な哲学性と生活規範や社会秩序の二面性(それがヘブライ語という言語の特性で不思議に密接に結びついている)をイスラームの方がより継承し、かつ後者の面がより強調されるようになったのがイスラームの発展の仕方でしょう。

一方でキリスト教は本来の反権力性、はっきり言えば反権威・反社会性を歴史のなかでかなりいい加減に捨て去ってるので、教義的・哲学的にはかなり矛盾だらけのものになってます。よく言えば「いいかげん」だから応用が利く、ということにもなるんでしょうが。

どっちもユダヤ教の持っている極端な文献解釈学的側面を大衆向けに薄めてよくいえば分かり易く、悪く言えばアジテーションに利用できるような危険な方向にゆがめた宗教、という言い方もできるでしょう。あとユダヤ教からの派生宗教でもうひとつ重要なのは--共産主義(笑)。

> またそれらと仏教との大きく異なることは何ですか?

世界の認識のあり方の違いでしょうね。本来のユダヤ的世界観では世界の存在は神の手になるものであり、神自体が世界の存在であり、世界の存在することの真理が神であり、従って世界の存在は絶対普遍なものですが、仏教では世界の存在自体が輪廻転生・万物流転の世界観のなかでのかりそめの姿に過ぎない、と考えます。もっともユダヤ=キリスト教的世界観における「神=真理」は本来なら人間には到達不能なものであり、仏教における悟りはまだ人間には一応到達できるものの言語で説明できるわけではないミステリアスなもので、どっちも人間に謙虚さを要求している点ではよく似てますし、とくにナザレ人イエスの思想(とされるもの--歴史的実在は証明されていないので、フィクション説も有力)は相当に大乗仏教の一部と似通った面がありますけど、先述の通り歴史のなかで反権力のはずが政治権力と結託して王権や帝国の国家宗教になってずいぶん歪んでるので、本当なら定義上どう考えても冒涜であるはずのことがずいぶんまかり通ってます。たとえばカトリックは中世に十字軍とかやってましたが、あれはどう考えても教義違反の冒涜行為。

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  • 回答者:dai-ym
  • 回答日時:2008/05/07 12:45

イスラム教もキリスト教も崇めている神様は同じです。
違いはキリストの解釈です。
イスラム教はキリストを預言者の一人と解釈しています。
キリスト教はキリストを預言者ではなく、神の子で救世主として解釈しています。
キリスト教からしてみればイスラム教は同じ神を崇めているのに救世主を認めない存在で、
イスラム教からしてみれば預言者を救世主と言うなど恐れ多い存在となるわけです。
お互いに、まるっきり神の存在を認めないよりも性質が悪い存在に映るのでしょう。

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イスラム教とキリスト教の似ている所。。

とにかく他の宗教を認めず、戦争を起こしてでも自分達の宗教を浸透させようとする所。
(この二つの宗教がなくなれば世界中の過去現在の戦争や内戦のほとんどが無くなるのでは?といつも思います)

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  • 回答者:mauchi
  • 回答日時:2008/05/03 11:05

学校の先生に聞いた話で印象的だったので参考までに
イスラム教もキリスト教も預言者はキリストまで同じで神様がキリストに伝えた後、
しもたー豚食ったらあかんて言うの忘れたーあと酒飲むのも禁止しとかな。と思い、ムハンマドの前に現れイスラム教が出来た。とか。

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  • 回答者:augustinus
  • 回答日時:2008/05/03 01:39

イスラム教とキリスト教は一神教です。
世界を創造した神がいて、その神から啓示を受けた預言者(預です。予ではないです)のうち、ムハマンドの預言を信仰するのがイスラム教で、キリストの言行を信仰するのがキリスト教です。
イスラム教では、キリストは数ある預言者の一人です。
お互いに神との契約に基づいて存在するというのは同じで、その分妥協ができないので、原理的にはどちらか消滅するまで争う運命です。

仏教は、基本的には自分がいかに悟るかという宗教です。ゴータマ・シッダルタ(釈迦)が、ヒンドゥー教の階級を否定し、さらに厳しい修行を行わなくとも悟りを開くことができるということを実践していく過程で弟子が増えていった宗教です。
もともとは自分がいかに悟るかという宗教(上座部仏教)でしたが、それがやがて大衆を救済する(大乗仏教)という方向に転化しました。
救済をするのは、仏の力ということで、仏を信じようが信じまいが誰でも救済を受けることができるという考え方があります。

大きく違うのは、キリスト教とイスラム教は、その神を信仰しなければ異端者扱いされますが、仏教は信仰するしないに関わらず、誰でも救済されるというところです。

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  • 回答者:Grani
  • 回答日時:2008/05/02 23:17

似ている似ていないと言いますか、同じ神を信仰していますし、兄弟宗教なんですよね。
ただ、崇拝の対象が少々違うので・・・。

ちなみにこんなものがありますのでこちらを参照ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa512422.html
http://www.butsuryushu.or.jp/2004/jp/quest/issin …

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