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以前お寺が麹町に多かった理由が知りたいです!

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  • 質問者:aibou99
  • 投稿日時:2008/05/07 01:10
  • 困り度:すぐに回答が欲しいです

麹町には以前たくさんお寺があったみたいなんですが、どうして多かったのでしょうか?
実は四谷にお寺がなぜ多いかを調べていて、江戸城の建設工事に伴って麹町から移転してきた為に多いことが分かったんです。
でも麹町に多かった理由が分からなくて困っています。知っている方いらっしゃいましたら教えてください。
また江戸時代における寺の役割みたいなものも知っている方教えてください!お願いします!!

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No.2ベストアンサー20pt

  • 回答者:tanuki4u
  • 回答日時:2008/05/07 02:41

http://www.shinjukuku-kankou.jp/map_yotsuya_08.h …
この辺ですね。サンプルとしては。

一説によれば、甲州街道は、徳川将軍がいざというときに甲府に逃げるために造られたと言われています。
麹町のあたりに番町があるのは、徳川親衛隊である、大番組がここに居住していたからです。そして、八王子には八王子同心組がおりました。
半蔵門から、将軍が逃げるときに、すぐに番町の大番組が合流して、あるいは、先行して麹町や四谷などの寺を簡易陣地として将軍を守護する。
四谷の北には尾張藩の上屋敷、南には紀尾井町 つまり 紀州家 尾張家 井伊家の上屋敷がガードしております。
新宿は内藤新宿で 信州高遠藩内藤家下屋敷。無論譜代であり3万3千石という小藩でありながら広大な下屋敷。こりゃ、甲州街道での先導役を任されていることでしょうね。
新宿あたりでは、南に現在の代々木公園が 井伊家の下屋敷。
前田家が現在の東大本郷や、島津家が品川あたり。伊達藩が汐留と、見事に 甲州街道から遠ざけられていますね。

本題
寛永時代(上の西念寺では1634年)に、麹町から四谷に寺社地が遠ざけらたのは、たぶん 家康の死去(1616年)と忠長の改易(1632年)のためだと推測します。
家康の死去で、駿府から江戸に移動してきた武士が住んだのが現在の駿河台ですが、それでも土地が足りない・・・という時に、忠長が改易。外様なら家来は浪人ですが、忠長付きの家来は最近まで直参だったので、江戸に異動(こっちの異動だな)になり、将軍親衛隊として大番組に組み込まれたので、土地が足りなくなって、寺社が麹町から四谷に、移動になった。

というところでは。

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  • 回答者:tanuki4u
  • 回答日時:2008/05/07 01:58

一般に城下町における寺社地は、総構における防衛地点となります。
内壁内で、自由に守備側が兵員を移動できること、建造物が兵舎にできることなど。

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この回答へのお礼

参考になりました。ありがとうございます!

  
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