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江戸から大坂間は並で八日から一ヶ月、速達便は六日間、特急便は三日間で届く。料金は享保年間(1716から1735)では速達便が重さ百匁(375グラム)の書状で二両二朱、特急便は七両二分だそうだ。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/ …

上記サイトでは、最速東京、大阪間の飛脚が三日だそうですが、
これは中山道ルートでしょうか?
東海道だと川止めなどがあり無理そうです。
また、三日で着くためには一日200キロを移動したわけですが、どうやいう方法で行っていたのでしょうか?
一人の人間は何時間くらい馬に乗っていましたか?

もう一つ、赤穂浪士の劇では、浅野家の江戸の家来が三日程度で赤穂にやってきますが、これは可能でしょうか?
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

東海道ルートの話ですね。


江戸から大坂まで最速の場合は、東海道を利用すれば、3日間、時間にして70時間前後で運んでいます。
一日に200キロほど走る計算になりますが、幕府公用の飛脚である継飛脚は、次の宿場までが受持ちですから、58次を平均すれば、一人が走るのは10キロほどになります。
継飛脚は、夜間でも関所を通行できました。

継飛脚は幕府だけが使用できたと思いますので、ご質問中のサイトの内容には疑問があります。

http://www.japanpost.jp/teipark/display/museum_s …

なお、中山道の場合は、40キロ以上長いので、また山道が多いので、東海道よりは長くかかります。
川止めのおそれのある時期は、少し日数がかかっても中山道を利用したのではないでしょうか。

次に、赤穂事件。
赤穂事件の早駕籠は、3月14日夜出発して、19日未明に到着していますから、4昼夜余りになります。
ざっと680kmありますから、三日程度で走破するのはムリだと思います。
馬は、馬子が付いて曳かねばならず、また疲れて振り落とされるおそれがあるので、駕籠にするより他ないと思います。
4人または6人で担いだのだろうと推測されています。
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元禄九年の定めによると、幕府御用の継飛脚は江戸ー大坂 三日以内とあるが、実際は最短三日でした。


時速10キロの速さで、昼夜兼行、宿場で次々交代し、傍若無人に走ったようです。
幕末のアメリカ人が一日に、160~200キロ走ると感心していたそうです。
先賢の答え通り二人で走りました。  川留め解除の時は最初に渡りました。
川留めの恐れがある時は、中山道廻りの飛脚も同時に出したと考えられます。

鎌倉時代の飛脚は早馬でしたが(鎌倉ー京都を3~10日間)通行人の多くなった江戸時代は、事故を恐れたか馬は荷物飛脚にしか使わず、それものったらのったら歩いたと云います。
 
赤穂浪士の話で江戸ー赤穂間を早駕籠で5日間は、どう考えても無理です。   赤穂藩にはそんな財力もない筈です。(早駕籠も交代ですからへいぜい準備していなければ出来ません)
浅野本家(廣島)の早飛脚が5日間で大石に届けたのが、実説ですから駕籠はそれより何日か後に着いたと思われます。   本家の財力に頼りました。
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以下のURLを参考にしてみてください。



  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E8%84%9A

中仙道ルートでは距離がありすぎ、地形も平坦でないなどの理由でむりだと思います。東海道ルートの方だと思われます。

江戸時代の飛脚は馬を用いず、自らの足で走ったようです。一説に「ナンバ走り」という特別な走法など使ったようですが。

赤穂浪士の件は、フィクションですので現実可能かと言われると?ですが、絶対に無理とはいえないと思います。
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http://edoken.shopro.co.jp/test/03/a03.html

各地の飛脚問屋が連合したという記録は発見されていないみたいだが、宿場から宿場の範囲(それがいくつかあるとして)で各地にあったらしい。
夜も昼も走れば3日で可能でしょう。江戸時代は幕藩体制(幕府と藩の2重権力)で朝廷もネットワーク持っていたことでしょう。幕府、その家臣団、各藩ごとってわけです。民間人が利用する(といっても一般人でなく大商人などだが)町飛脚もあった。

日本通運という民間会社は江戸時代の5つの飛脚問屋が合弁して作ったとか。
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