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先月中国へ行き、司馬台長城へ行きました。行ったことのある方は分かると思いますが、とても急峻な尾根に続いていますよね。素人目に見てもあの建設用資材をあそこまで運ぶだけでも大変な労力だと思います。それをあんなに長く組み立てるのですから一体いくらの費用がかかったのでしょうか?あのレンガ?は現地で焼いたのでしょうね。そうしないとどこかから完成品を運ぶなんて無理ですよね。しかしその原料となる土はどこででも取れるのでしょうか?いずれにしても費用対効果の面からあの長城は役に立ったのでしょうか?それとも文字通り無用の長物だったのでしょうか?それにしても司馬台付近の地形を考えるとあんなもの作らなくてもそうそう攻めては来られないと思うのは私がものを知らなさ過ぎるからでしょうか。

A 回答 (9件)

長城は遊牧騎馬民族の侵入に備えるという目的に対して充分役に立っています。



長城が最初に作られたのは、戦国時代で後に秦の始皇帝が一つの長城にまとめ上げています。その後は、主要部分の補修はなされたようですが、本格的な修築がなされ現在も残っているのは明の時代に作られたものです。

その間の時代で長城があるものの完全ではなく北方の遊牧民族に圧迫されていた時代、一例をあげれば宋の時代には、北方の遼に対して毎年銀10万両、絹20万匹を送るという約束で和平を結んでいます(これを?淵の盟約センエンノメイヤクという)。これを遼と宋の双方が遵守して120年間の平和が保たれたと言いますから合計1200万両の銀が流出したことになります。これに比べれば長城の建築・修復費用なんてたいしたものではないとも考えられます。あ、盟約がなければ被害額はもっと大きなものになったでしょうね。

また、長城の目的は侵入を防ぐとばかり考えられがちですが、もう一つの役割があり、それは退却を妨害するという目的です。遊牧民族側が大軍を催して攻めて来たときは(当然に事前に判りますから)長城を楯にして防ぐというのはイメージしやすいですが、平和な時などに長城の破れなどから密かに小部隊が侵入することは防げません。

彼らが密かに入ってきて密かに出ていくのなら仕方ありませんが、もしこの小部隊が村を襲ったり、争乱を起こしたりすれば当然、討伐軍を出します。この時は、動員できる兵力が違いますから侵入した部隊は逃げるしかありませんが、長城の壁が退路をふさぎますね。壁沿いにどこまでいっても長城は途切れないわけで結局入ってきた小さな穴を目指すしかありません。そーっと入ってきた時は時間をかけて穴をくぐったり出来ますが、追われて逃げていて一刻を争う時にはすみやかに抜けるのは難しいですね。つまり、入ってきた小部隊は全滅の可能性が強いわけです。

つまり、人目を忍んで侵入はできるけれど、それを利用しての悪さはできない。ここに大きな意味があるのです。これも広い意味での長城の防御効果です。

最後に蛇足です。満州族が建国した清が明に代わって中国を支配する様になりますが、勃興してきた清が正面から長城を攻撃しても山海関を破ることは出来ませんでした。清が長城を越せたのは明末の農民反乱などの混乱の中で、李自成が明朝を倒したことがきっかけです。山海関で清の攻撃を防いでいた明将呉三桂は前後から異なる敵に攻められることになり、今まで敵対していた清と協力して李自成を討つ、つまり山海関を開いて清を長城の中に入れる決断をしたわけです。

結局、清は敵失に乗じて長城を越えたようなものであり、それだけ長城の防御力が強かったすなわち役に立っていたことの証明でもあります。

この回答への補足

丁寧なご回答ありがとうございました。
「コメント」を拝見しましたが、もうひとつ疑問がありますのでよろしくお願いします。
長城の建設はもちろん数世紀に渡って行われたのでしょうが、その建設中は敵対勢力の妨害活動には遭わなかったのでしょうか?
建設作業者は兵士だったのでしょうか?もし、非戦闘員なら紛争地域での土木作業は味方の護衛つきだったのでしょうか?
それとも建設は比較的平和な時代に集中していたのでしょうか?
また、平和条約締結中に長城築造工事の継続は出来たのでしょうか?
疑問は尽きませんが以上よろしくお願いします。

補足日時:2002/11/18 12:37
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万里の長城ではありませんが、秦の始皇帝のお墓なんて、地下に作られていて、その中を水銀の川が流れていた、なんていうとんでもない豪華で無駄な物だったらしいです。

兵馬庸というものも大量に出土してますよね。一皇帝の墓でその規模ですから、自国を防衛する為の長城には相当な資産を費やすと思います。

 さて、肝心の長城の方ですが、ご存知かもしれませんが、作り始めてから長い長い時間を経て今の姿になっています。一番始めは紀元前七世紀に楚の国が作り、それから十七世紀の明朝までですから、およそ二千年の間作り続けたそうです。そこまでいくと、費用がどのくらい掛かったかなんて考えなかったんじゃないでしょうか? また、昔の長城は結構簡素なもので、日本の石垣のような物だったようで、今のように全てがレンガ造りではなかったようですね。

 効果の方ですが、自分が読んだジンギスカンの本では、中国の歴代王朝は騎馬民族が相争うように仕向け、騎馬民族が一つにまとまる事を恐れていたそうです。一つの部族が万里の長城を越えようとしても、その周囲の部族を中国王朝が支援し、別の部族に攻撃をさせたりしたようです。そのため、万里の長城を越える事は戦略的に厳しかったようです。
 また、ジンギスカンが長城を越えようとしたときも、多大な損害を出したようです。最終的には騎馬ではなく、徒歩で攻めなければなりませんから、騎馬民族の長所が出せずに力攻めになりますよね。
 
 『壁』というのは、心理的なものがあると思います。例を挙げれば、床屋さんのカットクロスというのは、毛がお客さんの体に掛からないようにするだけでなく、不意に手を出さないように抑える、という効果もあるんです。殆ど重さの無い布切れですから、手を出すのなんて難しい事ではないのですが、皆さん手を出す事はそうそうありません。大抵は一言断ってから手を出します。子供でもそうです。クロスから手を出しっぱなしの子は、しょっちゅう頭を触りますが、しっかりとクロスを掛けている子は、あまり手を出さずに「痒い。掻いてもいい?」と聞いてくることが多いです。
 例が長くなりましたが、つまり2mそこそこの壁であっても、騎馬民族に対する心理的効果はあったんじゃないかと思います。

 兵隊の方も、日本の防人のように長城防衛兵のようなものが存在したでしょうし、要所に櫓や狼煙台もあったでしょうから、かなりの防衛効果があったと、私は推測致します。

 長々と、駄文で失礼致しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2002/11/19 06:04

私も、#1の回答のように、「はったり」をかますため、というのをきいた事があります。



古代は奴隷制で、賃金をはらうわけじゃないから、そんなに費用はかかっていないと思う。
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基本的に騎馬民族は羊(食料+商品)と共に移動します。


ですから、羊が乗り越えられない高さがあれば十分時間稼ぎになるのです。その間に狼煙をあげて、応援の部隊がきますから。長城は防衛目的ではなく、騎馬民族が領土内へ進入を少しでも遅らせるために造った代物です。
あと、レンガですが、黄土は基本的に濡らして乾かせば、カチカチになります。黄河周辺の都市の城壁はそうやって作られています。だから、焼く必要性な全くの皆無です。ただ黄土をもってくればいいのですから。
間違っている部分がありましたら、すみません

この回答への補足

長城が防衛目的ではなかったとは意外でした。
侵入を食い止めるためなら役に立ちそうですね。
それにしても土をあそこまで運ぶだけでも大変だったでしょうね。

補足日時:2002/11/15 12:17
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 騎馬民族の侵入防止に役立ったのか?


 ご質問からは少し離れますが、これの答えは高校の世界史の先生に習いました。本当かどうかはしりません。彼からの受け売りです。
 騎馬民族といえども、のまず食わずで移動はできません。ゲリラ的に小部隊が攻めてぱっと引き返していくような、そういった小競り合いならともかく、ちゃんと占領するというか征服してきちんとした基点を作ろうとするようなら兵糧を持ち歩かないといけませんよね。
 騎馬民族の場合、それは羊だそうです。
 万里の長城は、いいかげんなところだと高さが2mぐらいしかないそうでこれだと馬だと引きずりあげて移動することができます。(小型のモンゴル馬の場合、2mを飛び越すのは無理です。大型の身軽な温血種の馬でもかなり無理がありますが)が、2mの高さがあれば、羊の群れは乗り越えられないから、2mの高さでいいんだそうです。羊というのは、そのへんの鶏程度におばかさんな生き物ですから。
 
 私は、長城のどこかに切れ目があればそこから攻め込まれたのではと思います。
 けど、司馬台付近って写真やゲーム中でしか見たことはありませんが確かに天然の要塞状態ですよね。羊上れない説危うし・・・。
 ちなみにレンガはその辺の土では無理です。焼き上げると硬くまとまるような泥が必要だそうです。
 費用対効果で考えたこともありませんでしたが、昔の「中国」の人々にとって、胡人はそれほど怖れたのではないでしょうか。莫大な遠征費用か毎年連なる多大な貢物か、時の帝によって違うとは言ってもこれらにくらべたら、っていうことなんじゃないでしょうか。私の推測です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
騎馬民族と羊の関係は知りませんでした。

お礼日時:2002/11/15 12:15

本来は、「万里の長城」+「それを守る守備兵」という防衛体制として構想されたものだと思います。

長い国境線を最小の守備兵で守ろうとすれば、確実に地の利を取ることと、とりあえず敵を足止めして基地から守備兵が到着するまでの時間稼ぎをすることが、絶対に必要だったのだと想像します。

長城の建設維持費が莫大なものだったとしても、それで守備兵の人数を減らせれば、防衛費削減と、削減された守備兵が生産活動に回ることによる租税増で、元が取れるという計算もありえたのではないでしょうか。

でも、守備する兵隊さんがいなければ、長城といえども、こけおどしくらいの役にしか立たなかったでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
いいですねぇ、そういう平和的な発想。大好きです。

お礼日時:2002/11/15 12:13

本当に急峻なところに造られていますよね。


あ、こんばんは。はじめまして。
私もあの長城が本当に騎馬民族の進入に対して本当に有効だったのか、疑問に思っていますが、ひょっとすると
「我々はこれぐらい大きな建築物を造るだけの国力があるのだ。攻め入っても貴様達の敵ではないぞ。侵略しようなぞ、愚の骨頂。」
と言う具合に。無言の圧力、あるいは威嚇(どうも適当な日本語が見つかりませんが)を敵に与えていたのでは?と考えたりもしています。
実際のところ、どうなんでしょうね。

この回答への補足

あの長城が戦争の抑止力として、また景気対策や雇用対策の一環として作られたと言う発想は、私も好きですね。
でも実際は本当にどうだったのでしょう?

補足日時:2002/11/15 12:08
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仮に役に立たなかったとしたら、あれだけ巨大になるまで作り続ける事はなかったと思います。

「役に立たない」と気が付いた時点で、作るのを止めていたと思います。しかし、止めずに作り続けたのですから、それなりに意味があったと考えるのが妥当だと思います。

それに、現在でも役に立ってますよ。観光地として。宇宙から唯一見える建造物なのですから、世界中から観光客が見込めます。当時、万里の長城を作るのに必要だった以上の収入を得ている(or得られる)のではないですか。
当時、そんなことを考えていたはずはありませんが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2002/11/15 12:07

>それにしても司馬台付近の地形を考えるとあんなもの


 作らなくてもそうそう攻めては来られないと思うのは

 敵は騎馬民族です。なのでかなり騎馬技術が高いと考えられます。
 地形なんて関係ないぐらいだったのでわざわざ長城を作ったのでしょう。
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この回答へのお礼

なろほど、ありがとうございました。

お礼日時:2002/11/15 12:07

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