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これだけクソミソにけなされているにも関わらず、文部科学省が日本の英語教育を抜本的に転換しない動機はなんなのでしょうか?
議論のための意見ではなく、分析/解説を求めます。

A 回答 (33件中1~10件)

全く個人的な意見ですが、くそみそに言われてる意見も、一つにまとまってないからではないでしょうか。


私が最近感じていることですが、日本人全体として、英語力の高い人が増えたものの、語学力そのものは上がってないというより、むしろ下がっているのではないでしょうか。
ネイティブのように英語が話せさえすれば成功できるということなら、、日本人に生まれたのが間違いで、早めにアメリカにでも移住すればすむ話に思えます。アメリカで育てば、かなり教養がない人でも、英語だけはネイティブスピーカーになれることと思います。
しかし、日本の学校で育てなければならないのは、日本人なのです。

よく、留学生が、「英語教えてやるから、日本語を教えてくれ」という相談を持ち掛けられた話を聞きます。海外の方は、日本人だというだけで、私たちがどんな種類の日本語検定でも満点をとれる人材だと思うようです。しかし、、どれだけの日本の学生がその期待に応えられるんだろうと考えてしまいます。
 これは一例でしかないのですが、カナダのオタワには、3か国語から6か国語話せる学生がたくさんいます。けれども、バイリンガルトレディンガルが育ちやすい環境だからこそ、10歳前後までは特に一つの言語に絞った教育を受けさせるよう親御さんたちはとても気を使っています。論理的に物事を考える能力を育むにあたり、まずは一つの言語、統一された文法の中で、思考体系を育てることが大切というわけです。
 まあ、これはただの一つの教育方針でしかなく、、これに非難ごうごうという人もいることとは思います。しかし、一昔前、同時通訳の方々が勉強した第二言語の勉強し方というのは、第二言語の扱い方として一つの国際標準で、何も遅れた教育ということではなく思えます。

 そういうわけで、、英語の教育にもっと時間を割くべきだという人々の中でも、教育方針にまとまりを欠くように思えます。私の感想では、アメリカの幼稚園児や小学校の低学年の子達が第一言語を獲得する時の教育に似た英語環境にふれさせることに時間を割くべきだと考える人と、日本語も含めて語学に重きを置くべきだと考えている人では、同じ「英語にもっと時間を割くべき」でも、目指すところは全くちがうのではないでしょうか。
 
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これは最近のテレビで解説していたことですが


日本人が英語が苦手なのは、英語がなくても生活に困らない社会だからと結論づけました。私もそうだと思います。
書籍店や図書館に行っても自国語で書かれた書籍ばかりで最高学府の学習も自国語でできます。英語を特に知らなくても日本で生活するならたいして困らないのです。

他国、例えばフィリピンでは教育をはじめる時に欧米の文献をみて
タガログ語にない表現が多数あったがために英語で教えてしまった方が早い
ということで実に日本人が中学校で習う文例で数学の教科書が作られているので
英語を習うまでもなく英語がわからないと数学が勉強できないのです

書店や図書館の図書の八割以上が英文表記の書物なので向学心ある人は英語は必須というか
わからないと勉強できない環境なのです

対して日本は明治時代に英語をほとんど翻訳してしまいました。社会という言葉もsocietyにあたる適当な文字がなかったので日本人が明治時代に作ったものだし同様に関数とか宇宙とかほとんどの英単語を日本語に翻訳してしまいました。おかげで日本人は英語がなくても日本語だけで意志疎通をはかれるので生活の上で英語は不要なのです。そこが日本人が英語を苦手にする根拠のようです。

さて、英語上達は日本人を国際社会で活躍させるためには必須なことですが
日本語だけで生活できる社会を作ってしまった以上
英語だけで教えるというのは単に負担をしいるだけで国民的コンセンサスを得るのは無理があります。

国民的コンセンサスを得られないことを文部科学省が学習要領にいれられますか?

そこが問題なんです。文部科学省に責任転嫁するのは勝手ですがね。
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 私も以前考えたことがあります。

そして得た私なりの結論は、文部省(当時)の方針だということです。官僚にしてみれば、国民は馬鹿な方がいいのです。政治に関心をもたず、選挙にも行かない。そんな国民が多いほど自分たちは安泰です。将来、霞ヶ関にやってくるような子供はほおっておいても、自分たちで勉強します。それ以外は馬鹿でいいのです。国のためでもなく、国民のためでもなく、ただただ、官僚の保身のためだけだと思いました。考えて御覧なさい、指導要綱を作るのも、優秀な人たちです。その彼らが本気で考えれば、6年かかって英語をすらすら理解できるような、カリキュラムはいくらでもできるはずです。他のアジアの人たちは、日本人が6年間もかけてなぜ英語がほとんど話せないのか不思議がってます。ということはそれら国々では少なくとも日本より進んだ英語教育がなされているということです。日本の英語教育に携わっているひとたちが、他のアジアの国々の担当者とくらべて劣っているとは到底考えられません。ゆえに、私は官僚が自分たちの保身のためだと考えたのです。
 しかし、ある時、何かの本で、これは進駐軍の政策だったというのを読んだことがあります。アメリカは第二次世界大戦が終わったとき、当時の白人中心の国際社会のなかで、唯一白人以外でのしてきた黄色人種の国である日本が、二度とアメリカにはむかうことがないように、あらゆる国の弱体化をはかりました。そして、そのためには英語も話せないようにしておいた方がいいということで、何年習っても満足に使えないような、そんな教え方を強制したということです。日本人が、英語を使いこなせるようになることが、自分たちにとって脅威になると考えたのです。
 文科省はいろいろな改革案を出してきますが、所詮それは、いかにも国は一生懸命やっていますよという、ポーズというか、アリバイ作りのようなもので、中身は何もありません。
 動機、それは国民を利口にしたくないということにつきると思います。
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>文部科学省が日本の英語教育を抜本的に転換しない動機はなんなのでしょうか?



英語が世界中で普及しているのは覇権国であるアメリカで使われている
言語だからです。次の覇権国がどこかということを考えれば学校での英語教育が必要かどうか答えが出ます。で次の覇権国がどこかというと、それは我が日本です。ですから世界中に日本語が普及しますので、日本での英語教育など不要になります。それをわかっているから文部科学省は、英語教育に力を入れないのです。
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本当のところは文部科学省の担当者に聞かないとわからないでしょうね。


ここの回答者さんが書いているのはほとんどが推測でしょう。
ひょっとしたら文部科学省の内情を知っていてそれを踏まえて回答している方もあるのかもしれませんが。

ということで、私も推測を述べます。

本来教育政策は「政策」というぐらいですから政治家が考えて決めるべきことです。英語教育の抜本的転換も、具体的内容は役所が決めるにしても方向性を打ち出すのは政策のうちのひとつです。
で、今の日本の政治家のほとんどは政策を自分で作ることができないので官僚に頼って政策を作ってもらうことになります。

たとえば「年金支給額を増やします」という政策を選挙で打ち出せば票につながります。
でも、「英語教育を改革します」と選挙で訴えたって票にはなりません。
ですからそのような政策を政治家が文部科学省に作らせるわけもなく、文部科学省もなにもしないのだと推測します。

他にも、他の回答にあるように既得権益者とのしがらみもあるかと思います。

将来、強力な政治家が出てきて英語教育改革を志したら日本の英語教育が劇的に変わるかもしれません。

なお、私が30年前に中学校で受けた英語教育には感謝しています。
おかげで、その後私が人生の中で英語を使わなければならないときに(機会は数少ないですが)何とか切り抜けることができています。
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文部科学省が日本の英語教育を抜本的に転換しない「理由」ね。


(日本語は正確に)
これは圧力団体の存在でしょ?
いままでの英語の教育を抜本的に刷新しちゃったら、英語教師
の大半は解雇…これじゃ日教組は黙っちゃいません。
それに教材を作っている業者…ここらを敵に回すとマスコミに
まで敵を作るからね。
さらに塾その他の受験英語の技術を教える連中への影響、おま
けに採点する学校側の負担増…軽く考えてもこれだけ問題があ
っては舵は切れませんよ。

科挙ってご存知? あれって最終的には実用性より難しい試験
をパスする事だけに特化して、最後は意味を成さなくなった。
あんな感じですよ。
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ずばり日本式受験英語を守ることが最大の動機だと私は思います。



英語は多様です。
戦後日本の教育が手本としてきたアメリカ英語と日本式受験英語でさえ、根本的な文法すら違っています。

アメリカ英文法の教科書もあるケンブリッジ大学出版の文法書と日本の出版社発行の文法書を比較すれば細部がかなり異なっていることは明らかです。

阪大の研修会で聞きましたが、教授が新しい文法を取り入れた文法書を発行しようとすると、出版社のモニターから間違っているとクレームが来てできないとおっしゃっていました。

日本の教育だから日本がイニシアチブを取った方がいいのか、それとも、実用本位で完全にアメリカやイギリスの言語学会に追従してしまうのがいいのか、非常に悩ましいことではないかと思います。
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再び投稿します。


 今の中高生の多くは、学校で英語の授業が成立していません。私は塾講師をしていますが、とにかく、教え方がなっていません。私が教えると、一発でわかることを、わざと難しく教え、生徒が混乱しています。また、自分の教え方がまずいことを悟って、本文を読むだけで終わり、ほとんど説明しない教師の話もよく聞きます。自分の好きな映画や洋楽を聞かせて終わる先生もいます。
 生徒は、よく、「学校に先生(私のこと)がいてくれたら、塾にこなくてもいいのになぁ」とぼやいています。また、学校で「英語嫌い」を増殖しているので、塾に来た生徒たちのその観念を取り払うのも一苦労します。ひどい場合、学校で1番をとったことのある生徒が、学校の授業で、「不定詞」がさっぱり理解できていなかったのには驚きました。その子が、私の塾に来たとき、私が80分で教えた内容で、中学で教わる不定詞をほぼ全般的に理解しました。それほど優秀な子でも、学校の授業では、教えきれなかったのです。本当に質が低い教師も多くいます。
このような教師で、「実用英語」を教えるとしたら、せいぜい表現の暗記ぐらいでしょう。そんなもんは、試験が終わればあっという間に忘れますよ。そんな経験は、皆さんもおありでしょう?何の意味もありません。それより、基本的な考え方を中高6年間で身につけ、さらに実用英語が必要ならば、しかるべき専門学校で徹底的に身に着ければよいと思います。その際、中高6年間の基礎学力は、大いに役立ちます。私も、某英会話学校のビジネスコースを受けたとき、最初は文法ミスを指摘されましたが、自分の知識をどう生かすかを考えながら、日々研鑽をしたら、いつの間にか、文法ミスが指摘されなくなり、「ザッツライト」の連発を先生からいただきました。挙句、「そのようなすばらしい答えを今まで聞いたことが無い」とまで言われほめられました。また、先生に、「スペルキング」とも言われました。これまで培ってきた知識がスパークして、表に出たとき、私の英会話能力が、向上したのです。
 話す能力を向上させるには、インプットしたものをアウトプットするしかありません。この、「インプット」を学校教育で、「アウトプット」を、実社会で、学ぶと割り切れば、よいのではないでしょうか。でも、教師の独りよがりの授業ではなく、もっと自己研鑽して、生徒によくわかる授業をしなくてはなりません。少なくとも、生徒は塾・予備校に英語の実力向上を頼っています。
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No.16・23です。


「自分で学んでいく基礎力」とは、色々な視点がありますから、一概にこれとは言えませんが、自分が述べていた、文字と発音の関係を身につけることも、その一つになると思います。
単語が読めることが、教科書や参考書を使うときにはどうしても必要ですし、単語が読めてはじめて自分だけで勉強が出来るようになるわけです。
また、スペルも、何十回と書く必要がなく、かなり負担が少ない状態でスペルを覚えることが出来ます。
つまり、英語を実際に自習する時の一番の基礎が、文字と発音の関係であり、これさえ飲み込んでしまえば、後は、自分で参考書を頼りに、英語の勉強が出来るようになるのです。

小学校での英語教育はすべてphonicsのみにして、文章や文法は一切やらず、中学でやる英単語の全てが読める、または出来ればそのうちの半数ぐらいを書けるようにすると言う形がいいと思います。
そうすれば、まず、小学校で指導上の問題がほとんど起こりません。授業準備もそんなに必要ではなく、ましてや様々な英語の知識技能は必要ありません。また、到達目標がハッキリしているので、授業が組み立てやすく、生徒も、何をやれば良いかすぐに理解できるはずです。そのため、塾へ行く生徒とそうでない生徒の間で格差が生じることもなく、授業だけで十分に単語の読み書きが身に付くはずです。
また、中学での学習課程を変更する必要もなく、中1で起きていた、英単語が読めない書けないという障害が解消されますから、英語嫌いの生徒の数が半減するはずです。
自分としては非常に合理的で、全く問題のない案だと思うのですが、ほとんど賛成していただける方がいないのです。なぜでしょうね?
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No. 21です。



>では、現状の中高の英語教育は、「自分で学んでいく基礎力」が身につくのでしょうか? この点では、抜本的に変える必要はないのですか? そもそも、英語・英会話において、「自分で学んでいく基礎力」っていったい何ですか? SVOCなどの文法と基本語彙ですか?

 私が申し上げているのは、抜本的に変えると言ったって、悪くならないとしても、特効薬などないということです。SVОCをやめ、それに変わる何を導入したところで、事態はそれほど変わりはしません、ということです。外国語は、それなりの体系を持った堂々たる文化であって、外国人がちょっと勉強したくらいでどうにかなるものではないでしょう。

 60分授業で年35回の授業を行うとして、そんなに多くのことは盛り込めないでしょう。1回で10の生き生きした会話表現を教えたとしても、教えられた表現はピンで止められた蝶々にすぎず、すぐに生気を失ってしまいます。教師の方も、またあれか、となって10年目にはアクビをかみ殺すようになるでしょう。

 抜本的に変えるということについて、いいアイデアをお持ちでしたら、年35回の授業をどのように構成されるかについて、Skype1980さんのシラバスを提出されてみてはいかがでしょうか?そして、これまでの教育のどこがクソミソで、それが新案ではどのように画期的に改善されうるか、示してみて下さい。

 繰り返しになりますが、どの言語文化も「本物」の重々しさを持っています。これまでみんな苦労してやってきたことを小馬鹿にしても、皮肉を言っても、自分がこうやったらうまくいったよ!という話しでなければ、誰も本気になって耳を貸したりはしないでしょう。

 そうです。私は35回のシラバスの中に、SVОCは入れますし、基本語彙も入れます。それが英語の構造を理解する基礎力を養ううえで、不可欠の価値を持つと経験上知っているからです。

 あなただったら、SVОCをやめ、基本語彙をやめて、代りに何を教えますか?また40名のクラスでどのように教えますか?

 意義のある議論はそういうところから生まれてくると思います☆

 
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