南北朝時代の楠木正成について
最近、南北朝時代の楠木正成について興味をもって本を読んだのですが、千早赤坂城や湊川での戦いの兵力差は本当なのでしょうか。太平記などの記述どおりだとすれば、10分の1以下の戦力で相手を打ち破ったことになり、そんなことを続けて行うことは不可能なように思えるのですが・・・。それとも、これらの戦いは古代史における古事記、日本書紀等の一部の記載のように虚構だったのでしょうか。また、仮に本当だとしたら、どのような戦略や戦術的方法を用いたのでしょうか。どなたか教えていただけないでしょうか。
太平記の記述通りだとすると
赤坂城は二度とも短期間に落ちています。
千早城の場合、城を囲む大軍の後方で、大塔宮の配下がゲリラ活動を行ない、補給切れに追い込みました。
大軍の弱点が補給にあるという発想は、湊川の直前に正成が建策して却下された後の防衛策(京を明け渡し糧道を塞ぐ)とも共通します。
この回答へのお礼
ありがとうございます。
楠木正成が城を構えたのはいずれも険阻な地形の山城で少数の守備兵で守る構造です。
このような山城は攻囲する軍勢がいかに多くとも接近出来る兵力は限られざるをえません。
せいぜい第1次攻撃隊が失敗したら、交代の兵力で攻撃する位です。
従って守備軍としては目前の少数の攻撃隊を相手にするだけで済みます。
しかも楠木軍は予想外のゲリラ戦法を取りましたから、東国軍はまごつき強引な力攻めをあきらめ兵糧攻めにしたのです。
しかしこれも楠木には折り込み済みで交代の千早城を用意して持久戦に持ち込み、各地の天皇派の決起まで持ちこたえたのです。
従って各地の天皇派が決起しなければ敗北するしかありませんでしたが、当時の情勢ではそのような事はなかったのです。
この回答へのお礼
ありがとうございます。
千早城の攻防戦の中の有名なエピソードとして・・・
「闇に紛れて、藁人形を使って敵を威し、敵が驚いて必死で矢を放った事で、正成は十万本の矢を得た」という話があります。
ご存知かも知れませんが、これは三国志の中にある諸葛孔明の赤壁の戦いでのエピソードとほとんど同じです。
正成が諸葛孔明を知っていたのかも知れませんし、太平記の筆者が付け加えた話かも知れません。
もちろん、後に付け加えられていたとしても、その行為に悪意はなく、いかに正成の作戦がスゴかったかを表現したいばっかりに、中国の故事を足しちゃったって感じなんでしょうが・・・。
大変痛快で、こういう物語は大好きですが、史実として考えるなら、太平記の記述は、すべてが、虚構ではないにしろ、そういう事もあるという感じでいたほうが良いかもしれません。
この回答へのお礼
ありがとうございます。
楠木正成と真田信繁(幸村)は篭城ゲリラ戦の天才と言えます。
千早・赤阪城での正成のゲリラ戦は下記のリンクに書かれています。
http://www.geocities.jp/joppari26/shiro/kinki/os …
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog …
この回答へのお礼
ありがとうございます。
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