美について(美意識の探究)
あなたの記憶の中で、今までに最も印象に残っている「美しい」と感じたもの、ことを教えてください。そして、その理由も分析してみて下さい。
たとえば、いつも競馬場に行くけれども、競走馬は芸術作品とも言えるもので、○○○○号は特にそうだった。なぜならば、・・・・・。という感じでお願いします。
最終的には、実例に基づく美意識を展望してみたいと考えています。様々な視点を知りたいので、よろしくお願いします。
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当方は視力が0,02未満でございまして、近視のまま矯正もしておらず平時は裸眼です。
特別な一点において、「美」に感動した記憶はありません。
しかし眼鏡を掛けて野外を悠々と歩み、ふと自然、それは人為によらない天然という意でなく人工物も含めた物象、そういった自然に視線を傾けると、久しい鮮明さに息を呑みます。青空を仰ぐと、ペイントツールによる青味で塗りたくったような整然に驚愕します。間抜けながら百貨店にあるふきぬけが実際、その完成度から、天井に描かれた絵だと誤解することもございます。
普段から近視で視界が漠然としているから、パソコンの煩瑣な画像や写真になれているから、自然の鮮烈さと天衣無縫の有様、真に迫る現実感、構造の冷徹な帰結、そして何よりもその意味を考えずに感じられるのを、たまらなく愛しています。私は、自分で「感じている」自然に、最も美しさを覚えます、時には自然の音にも魅せられます、月並みですが水の音など。
写真は写りや構図が良かろうが迫力と細微に欠けます。絵画も制作が難しかろうが画家が凄かろうが深い意味があろうが、即物的に美しくなければ感動できない私は退屈です。また「見た」自然の記憶は美しく残りません、色あせた印象と経験が過ぎ去るのみです。自身でも、中々に本能的であると自負しております。
個人的な余談ですが純粋な美意識とはやはり人間の機能性なわけで、そこには何らかの合理性が携わっているのでしょうね。それは遙かかなたから研鑽されてきたもので、遠い先祖の記憶は我々の根っこにどのような訓戒を説いているのか(根拠に欠けた例えですが、根底として水分を必要とするため、水の音へ惹かれるようになった……かのような)、いやはや興味深いことです。
この回答へのお礼
ご回答、ありがとうございました。
>「見た」自然の記憶は美しく残りません、色あせた印象と経験が過ぎ去るのみです。
記憶や経験には、すでに美はないという点は、なるほどと思いました。それは、美を意識した事実そのものではなく、何らかの記録でしかありません。しかし、その記憶は、現在進行形で体験し、気持ちよさを伴った感覚があったことを意味していますし、(仮に錯覚だったとしても)事実として経験した美の体験が確かに過去にあったと言えます。今では、色あせているかもしれませんが、その過去の時点では、ゾクゾクするような感覚体験であったであろうと推察します。
人類の能力のひとつとして、誰でも時々、美を感じることができるように私は思っています。ただ、現代日本において、この美の感受性が衰えてしまっているのではないかという印象を持ったので、今回の質問をしました。回答者様は、「純粋な美意識とはやはり人間の機能性なわけで、そこには何らかの合理性が携わっているのでしょうね。」と言っていますので、私と同様に美の感受性が人間の能力としてまだ残存しているとお考えなのでしょう。
美の感受性が衰えてしまっているのかどうか、もう少しの間、回答を受け付けたいと思います。
No.11ベストアンサー10pt
良い御質問で、参加させていただこうかなと思いつつ
>あなたの記憶の中で、今までに最も印象に残っている「美しい」と感じたもの、ことを教えてください。そして、その理由も分析してみて下さい。
との御所望ですから、投稿を躊躇っておりました。
と申しますのは私自身「美しい」と感じる(感じた)ようなもの、ことが幸いにも、たくさんあるにはあるのですが、「最も」と言われると困ってしまうのです。
それと今回ご紹介させていただく話は私自身のことではなく、したがって分析というのも困難なことですので、ますます躊躇っていたのですが…
他人さまの話なんですけど、宜しいでしょうか…
私ごく若い頃に、ある文学関係のスクールに短期間、所属していたことがあって、そこが出してる機関紙かなにかで読んだ話なんですが
日本人ではなく在日韓国人の女性で、多分60歳代の主婦のかただったと思います。
そのかたは、いわゆる文盲と言うのでしょうか、祖国では最低限の文字を習得なさっていたのかどうか分かりませんが、恐らくロクに学校に通うこともなく歳若くして嫁ぎ、何人かの子をもうけながら、あるとき日本に渡って来られたそうなんですが、とにかく赤貧洗うが如しの貧乏で、働いて働いて擦り切れるくらいに働いて子どもたちを成人させ、その年齢になるまで日本語を習って読み書きすることなくやってこられたということでした。
子どもたちが独立し、やっと働いてばかりの生活にも少し時間のゆとりができて、御同胞たちと誘い合わせ、近所の識字教室に通おうかということになり、ある日のこと、授業で「夕日」という文字を習ったそうです。(ひらがなかもしれません)
その日、授業を終えて教室の外に出て家路を歩いていたら、ちょうど行く手に色鮮やかな夕日が見えたのだそうです。
そのとき、そのアジュマ(おばさん)は生まれて初めて
「夕日って、こんなに美しいものか」
と思ったのだそうです。
あかあかと沈んでいく夕日のうえに、その日習った「夕日」という文字をなぞり、「ゆうひ」と胸のうちで、そっと呟いてみたという。そして、つくづく「美しい」と感じたという。
私自身は、この、異国から渡って来て過酷な労働を生き抜き、老年に差し掛かって、ようやっと一つの文字に触れ、その喜びとともに、見慣れたはずの自然の光景に胸打たれている、ひとりの老婦人の感性を「美しい」と思いました。
激動の時代と厳しい人生に翻弄されたであろう、その感性がパサパサに擦り切れることなく、なおも、強靭な女神のごとくに幼な子のごとくに、みずみずしい。
美人だなあ~。と思いました。
>「ブラックホールが特に快く感じるとか美しいと思う」というようなことはないのです。パルサーとか虹色の星雲とかは美しいと思います。
うわぁ。。。
ブラックホールについては、それもそうだろうと思いますが「パルサーとか虹色の星雲とか」美しいなんてものじゃなく、「もの凄い」感じがします。ほとんど「醜悪」。写真見るとゾっとします。こんなもん生じなきゃいけなかったのかなぁー?と思ってしまうくらいです。いやー、かつては天文学者になりたかったはずなのに?
うちの母は満点の星空を見ると「恐ろしい」と言ってました。
亡くなったいま、「やっぱり恐ろしい?」と聞いてみたいような(笑)
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございました。
>アジュマ(おばさん)の「夕日」
少し余裕ができたときに美しいと感じるられる心のゆとりが生まれたのかなと思いました。
>「パルサーとか虹色の星雲とか」美しいなんてものじゃなく、「もの凄い」感じがします。ほとんど「醜悪」。写真見るとゾっとします。うちの母は満点の星空を見ると「恐ろしい」と言ってました。
恐怖心は生命の危険を感じるときに生じると思います。確かに現実に太陽やパルサーなどに接近すれば危険でしょうが、ハッブル望遠鏡の映像などを見るだけならば、私は恐ろしいとまでは感じません。ただし、恐ろしければ美から遠くなるという点は、ある意味、分かるような気がします。
基本的には、美は命や生に近く、死や恐怖や不安からは遠いというものなのかもしれないと思いました。
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だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。
* 《このようなもの》とは 端的には 情欲です。一般化して
《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これらのたぐいを
みづからに心地よい観念としての想像をとおして その表象に自分
から依り憑いていく心の片向き つまりは その弱さ》です。
それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。
しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。
魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。
自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。
(アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10)
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まだ 読めたとは言えませんが 少しづつ咀嚼しています。つまり この文章(判断)は いまだにわたしは 自分の言葉で噛み砕いて表現するということが出来ません。それでも勝手に注釈をほどこしましたが。
抽象的に述べていますので 読み解き難いという意味でも なぞですが 志操を喚び起こされるという意味でも なぞです。いい意味でのなぞは うつくしいと思います。
この回答へのお礼
ご回答、ありがとうございます。
これによって、今回の質問の意味を色々と自分自身で確認することができました。
1 現代日本における「美」の意味範囲を求めていた・・・中世とか欧州とかのものではない
2 視覚で捉えうる実例を期待していた・・・具体的な存在に張り付いた美、一体化している美であって、無形の思想に関わる美を想定していたわけではない
ということです。
また、謎が美という感覚も、かなり難解で、私の場合は、謎は美と無関係です。たとえば、宇宙は謎ですが、宇宙中どこでもが美しいというわけではなく、「ブラックホールが特に快く感じるとか美しいと思う」というようなことはないのです。パルサーとか虹色の星雲とかは美しいと思います。絶景は限られているという印象です。
切望するほどの希少性が大事ではないかと思いました。
ANo.8
まともに的確に受け取られた質問者の大きさと深さを味わいます。
何か深大植物園ってぇのがあって、ジュディオングってぇのがお利口な顔して、撮影していたことを急に思い出しました。あれはお利口な子です。もう45年ももっと前かな。私も28くらい。寝泊りしている原宿の大学から、自殺した作家の足跡を散歩しながら、めぐり合いました。
過去の景色はみな美しいけれども、なぜでしょうね。
このごろ年の故か、そういう昔の情景が眼前に現れてきて、涙します。もうすぐさようならでもなにのだがな。健康で山中の一人歩きを楽しんでいるし。
思い出す情景はきれいですね。人間ってそんなふうに都合よくできていますね。あっちへ行ったときにはここのことを懐かしく思い出せるようにきちんと生きるように心がけております。
この回答へのお礼
>思い出す情景はきれいですね。
思い出の美意識も、なかなかの難問です。
思い出から連想する語は、「昔」、「過去」、「若い頃」、「懐かしさ」、「記憶」、「イメージ・印象・映像」、「内的な感覚」、「再現」かな
「昔」、「過去」、「若い頃」=『過去』
「懐かしさ」、「記憶」、「イメージ・印象・映像」、「内的な感覚」=『印象』
『過去』の『印象』は、「再現」された時点では現実体験ではない
「不完全な」現実ではなく、「完全な」「理想的な」「純粋な」イメージとなっている
だから、完全で理想的で純粋なものとの一体感かもしれませんね。
そんな風に、こじつけてみました。
ANo.5
〔感受性の豊かさのことを強調したいのだと推察しました。〕
というのは、ご質問者さんがあの大観のぼかしの手法の傑作をご連想されていた、〔ぼんやり〕というご表現を、私が伏線として知らなかった対応へのお話でありましたか。
あれはあれでいいですよ。
単なるぼんやりとも異なり、一つの深さ、遥かさがありますね。
この回答へのお礼
>単なるぼんやりとも異なり、一つの深さ、遥かさがありますね。
同感です。「ぼんやり」だと軽すぎるようです。深さが伝わりませんから、不適切です。朦朧もよくありません。「深遠で人知の及ばない」と書くべきだったかもしれません。
いろいろと参考になりました。ありがとうございました。
ANo.5
〔感受性の豊かさのことを強調したいのだと推察しました。〕
あわてて読解すると、誤解してし、自分の感受性の宣伝なんかしているかい、などと受け取るような、お言葉ですが。
いずれにしろ、そういう意味ではもちろんないし、私の拙い投稿は、私がいいと思う状況のお伝えであります。それは心身の澄みきりと明るさの中、何も心身にない状況での、造物主のご作景をいいなと、思うだけのことであります。私たちはそういうご作景からも自分を抜けていく必要があるのでしょうね。
この回答へのお礼
感受性の「豊かさ」ではなく、「鋭さ」と言うべきでした。回答者であるあなた自身の感受性の宣伝という点を意図して書いたわけではありません。質問者である私の自己反省の視点で書いたものです。
最終的には、作景を見ている視点の主体(私)を解消・解体した境地の必要性についても言っておられると思いました。一体感に伴う美意識とでも言うべきものかもしれません。
よく分かりました。ありがとうございました。
和歌山県の熊野三山にある「那智の滝」です。
1.滝とその周辺という「自然」
2.修験道の信仰という「宗教的なものを求める前近代的な欲求」
3.観光地化という「経済的合理性という近代的な欲求」
「那智の滝」は以上の三つがせめぎあっている場であるため、僕の人生の経験の中では、ほかに見たことがないようなインパクトを受けました。それを何故「美しい」と感じたのか?と問われると、なかなか答えにくいのですが、一つには思想史というジャンルが好き、というのがあると思います。
以下は、蛇足ながら「上記三点のせめぎあい」に関する説明です。 「滝」を見た瞬間に下記のように考えていたわけではなく、「滝」を見たときに受けたインパクトは、こういう理由で受けたのかな?という程度の後付解釈です。言葉にすればするほど、インパクトそのものから遠ざかっていく気もしますが・・・
那智の滝は、修験道というやや原始的な宗教の聖地であり、滝の周辺には神社仏閣が建てられました。滝とその周辺の「自然」に対して、神社仏閣によって表される「宗教的なものを求める欲求」が侵略してきたわけです。
また、那智の滝は、世界遺産に指定されたこともあり、観光地化に拍車が掛かっています。観光地化とは、経済的合理性の追求という人間の欲求を象徴しているといえます。「自然」VS「宗教的欲求」の場であった「那智の滝」に対して、「経済的欲求」が攻めてきた形になります。
以上のように、「自然」と「宗教的欲求」と「経済的欲求」がせめぎあう場として、(それが間違っているかどうかは別として)僕は「那智の滝」を見ていました。
この回答へのお礼
ご回答、ありがとうございます。
滝そのものではなく、周辺の状況を社会的な視点(特に「欲求」)も含めて、「後付解釈」したときに、どのように美意識に繋がるのか、正直言って、私の中では答えが見つかりません。
「命」=「生」=「動」=「欲求」であるとすれば、欲求の根源的な連想(類似性)は、「命」ではないかと推測します。
ですから、滝の「動」とともに、「命」を無意識に連想していたのではないかと推測できるかもしれません。「命との一体感」としての美意識ではないかと思いました。いかがでしょうか。
澄明な状況が「ぼんやりと月明かりに満ちて静寂な夜の景色なのですね。」とはならないのですよ。
全てにいきわたった、感覚なのですよ。何かしてやるぞとか、でかいことをとか、あのことが、とかの意識も心配もないが、抱いている気持ちも想念もないが、意識は、十里先で針一本が手元から落ちても知っています。ぼんやりという状況では、残念ですがまったく違います。完全に自己の意識であります。
この回答へのお礼
感受性の豊かさのことを強調したいのだと推察しました。
横山大観の朦朧体のイメージを抱いていたのですが、「ぼんやり」だと感受性が鈍いような印象を与えますね。
重ね重ね、ありがとうございました。
ANo.3
深山幽谷でも、人(ひと)気(け)ない岩石の砂浜に、老松でもそうでなくても、松が空間を劃している。
皓月が一つ、星は稀。
そこに何の思いもない、意図もない。モディファイするもの一つもない。ゆがめ、塵するものない。澄み切った世界。ということですが
この回答へのお礼
「気持ちも欲望も意図もない」=「何の思いもない、意図もない」とか、「澄み切った」という部分がキーワードですから、
「無垢」な世界観で、美を感じている、自然美とでも言うべきものを表現していると思いました。
華美な装飾だらけの人工美とは、対極の手付かずの自然美、そしてそれは、ぼんやりと月明かりに満ちて静寂な夜の景色なのですね。
花鳥風月、水墨画的な美意識のことかと、推察しました。
ありがとうございました。
月、松。岩。
それ以外がないから。気持ちも欲望も意図もない。彼らにそんなものがない。
花弁、花。
同じ
動物たち、昆虫たち。
同じ
気持ちが別になる。
この回答への補足
ご回答、ありがとうございます。
>月、松。岩。花弁、花。動物たち、昆虫たち。
これらを美しいと感じられたのですね。
どれか一つでいいので、できれば、もう少し詳しく感じたことを記述していただけないでしょうか。
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