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大木喬任、大隈重信、江藤新平、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎
これらの人たちはどうして公家以外では最高位の参議にまでなれたのでしょう?
参議にまで任ぜられるには倒幕から新政府樹立の時期に相当な活躍をした人でなければならないと思うのですが、
私の知識不足だと思いますが、これらの中では板垣と後藤以外はこれといって活躍がないような気がするのですが・・・
明治4年、遣欧使節団の派遣が決まって、岩倉、大久保、木戸らの最有力者達が軒並み抜けてしまう時にこれらの人たちは参議に任ぜられたのですが、どういう理由、経緯、裏の事情で人選されたのでしょうか?
教えてください

A 回答 (2件)

概略は


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7% …

ご指摘のように薩長土は、戊辰戦争段階で武力倒幕の主軸となっており、肥前藩に関して「おいおい、大砲だけで出世カヨ」と、揶揄する向きもありました。
http://blog.livedoor.jp/bakumatusaga/archives/50 …
薩長が下からの藩政改革を進めたのに対して、肥前は殿様が上から大改革
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6% …
実際に戦わなかったが、潜在的な武力が評価されたわけです。しかも、人材教育にも熱心だったので、明治近代化の理解をできる人材が多かった。
なもんで、陸の長州、海の薩摩と、薩長が軍隊を押さえたのに対して、肥前出身者は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80% …
と、司法だったり、大蔵だったり、文部だったりを担当しちゃうことになりました。
だもんで、明治六年の政変とか、明治14年の政変などで、武力を握っている薩長に排除されちゃいました。うーん、武は強いな。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました
貼っていただいたリンクを読むと少し理解できたような気がします

お礼日時:2008/06/18 22:19

明治近代化の理解


→ この部分に関しては、圧倒的に旧幕府の人材が優秀で人数も多かった。実際に欧米諸国と交渉していた主体であり、留学経験者もいる。
しかし、薩長土としては、打倒相手ですから、いきなりその人材を使うわけにもいかない。
勝海舟は有名ですが、
大久保一翁とか、小栗上総介、川路聖謨、榎本武揚、木村芥舟など・・・たくさにます。

ならば、肥前からスカウトということになります。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました

お礼日時:2008/06/18 22:17

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