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戦前の日本では、徴兵年齢は20歳でした。同じ時期アメリカやヨーロッパでは18歳でした。
なぜ日本は徴兵年齢が2年おそかったのですか?また 戦争が盛んになってからでもやはり徴兵年齢,20歳に変化はなかったのでしょうか?

A 回答 (3件)

>なぜ日本は徴兵年齢が2年おそかったのですか?



2年遅かった、というよりもどうして20歳になったのか、ということですが、歴史的な経緯は結構複雑なようです。

元々は、明治5年の「徴兵告諭」の中で、「四民男児二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ」というように、20歳という年齢が打ち出されたのが始まりでしょう。

その後、明治6年に出された徴兵令がありますよね。ところがその徴兵令で、徴兵の年齢が正式に(法制上)20歳と確定したのは、明治9年4月からなのです。

これは、徴兵令というよりも「そもそも何歳を成人とするか」という、税制や戸籍制度など、法制度全般に関わる必要性から始まった議論でした。そして、
明治9年4月1日 「自今満弐拾年ヲ以テ丁年ト相定候」
という布告が出されたため、結果として「徴兵告諭」にある「丁壮兵役ニ堪ユル者」が20歳と確定したようです。

では、それ以前の例えば徴兵告諭で20歳という年齢が出てきた根拠は何か、という話になると、どうも話の根拠は「大宝律令」、つまり奈良時代以前の法律、まで遡るようです。

大宝律令では、租税と兵役の規準として男子を6段階に分けており、男子の21歳以上(満年齢だと20歳以上)を「正丁」としています。

なぜこれが根拠となったと推測できるかというと、先ほどの明治9年の布告を前に、政府内で行われた議論の文章が残っているからです。

「皇朝ノ古ヘ中男ノ制アリ是租税ニテハ如此他ノ雑事ハ如此ト云ヘル制ヲ設ケテ 事ノ遅速ニヨリ丁男ト中男トヲ分ケタリト見ユ」

これ自体は、もちろん徴兵告諭よりも後の文書ですが、つまり議論に「皇朝ノ古ヘ」と出てくるということは、大宝律令で何歳を成人としていたか、ということを承知していた人が実務家レベルで政府内にいた、ということになります。

明治政府は、特に初期(徴兵告諭が出された頃)の頃は律令制度への回帰意識が強かったですし、武家の成人である元服は参考にはならなかったでしょうから、何らかの根拠を探そうとすれば、律令制度まで遡らざるをえない。

で、その大宝律令に「大宝令二十一為丁ト云」のであるから「ニ基キ満二十歳以上ヲ以テ丁年ト定メ候テ可然哉」となったのではないでしょうか。
もちろんこれは推測です。
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6歳で小学校に入学し、尋常小学校4年、旧制中学校5年、高等学校尋常科4年を卒業すると19歳です。

その先は徴兵猶予するでしょうから、満20歳とするのが一番すわりがよかったのではないでしょうか?
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 日本の兵役には「徴集」「召集」「志願」の3種類がありましたが、今回のご質問は「徴集」による兵役ということになるかと思います。

この徴集が欧米から比べて2年遅かったということですが、これに対する理由は定かではありません。ただその根拠となるものは何かといえば、「兵役法」によって、満20歳になれば徴兵検査を受けることを義務付けられていることです。

 この年齢は「徴兵適齢」と呼ばれていましたが、実は「兵役法」では17歳から40歳までの男子が対象になっているのですが、これは今回は割愛します。

 その後戦況の悪化によって昭和18年12月に、「徴兵適齢臨時特例」が公布され、翌19年に徴兵適齢が1年繰り下げられ19歳になっています。

 どのような資料を当たってみても、徴集がなぜ20歳からになったかの理由は見当たりませんが、前述の「兵役法」のなかにある「徴収」の定義として「壮丁を簡抜し現役兵又は補充兵となすことをいう」という文言があります。つまり「元気な若者を選び抜き、現役兵又は補充兵にすることをいう」ということですから、精強な軍を構成するためにはこの程度の体の出来上がった、尚且つ精神的にもしっかりとした年齢の男子を兵士にすべきだという意思があったのかもしれません。
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