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 漢数字の次に“戸(へ)”が加わる地名が、東北にあります。
 曾って、“戸(へ)”とは軍事的塁の意であり、坂上田村麻呂にも関係がある、という話を聞いたような気がして、確認をしようとしましたが、なかなか適したホームページなどにはたどりつけませんでした。
 このことについて、何かご存じのことが御座いましたら、どうかお教えください。
 1. 軍事的な施設や境界を示すものであったのか。
 2. 坂上田村麻呂に関係することがあったのか。

A 回答 (2件)

ANo.1のjo-zenです。

補足します。

http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/chimei/d …
には、

『平安時代、糠部郡を蝦夷から守るために四方に柵を設けて東西南北に門(もん・かど)を設けて番人を置いたが、のちにこの囲いの中で馬を育てるため、木戸(門)に一から九までの番号をふって一戸に一牧場を置く「九戸四門」制を採用したことに由来』とあります。後には牧場になったけれども、平安時代の頃は、争いがたえず起こり、防御柵が必要であったということで、 もともとは軍事的な施設に由来するようですね。
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この回答へのお礼

 jo-zenさんありがとう御座います。
 柵の木戸、これが戸のでしたか。
 いや認識ができる、目をひらくということはとても嬉しいことです。
 ありがとう御座いました。

お礼日時:2008/07/03 07:34

以下のURLを参考にしてみてください。



 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%88%B8% …

『室町時代以降、この地は南部氏の影響下にあった。南部氏が領地を9つに区切り、それぞれを一戸から九戸と名付けたことによると言われる。「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる。尚、一戸町・二戸市・九戸村が岩手県、残り(但し「四戸」は2006年現在、存在しない)は青森県に立地する。』とあります。軍事的な施設や境界を示すものではなかったと思われます。

811年に征夷将軍文屋綿麻呂が爾薩体と弊伊征服したと『日本後記』に記述されています。文屋綿麻呂は、田村麻呂に随行し、蝦夷征討に従っていたようです。田村麻呂の死後、その遺志を奉じて蝦夷征討の任にあたったのです。その地に、田村麻呂の足跡は当然ありますが、「戸」とは直接関係ないと思われます。
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この回答へのお礼

 ありがとう御座いました。
 田村麻呂ではなく、随行の文屋綿麻呂が関与していたのですね。
 しっかりした認識とその確認ができてとても嬉しいです
 ありがとう御座いました。

お礼日時:2008/07/03 07:39

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