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 私の学校ではキリスト教を布教しているのですが、先日「出エジプト記」について学びました。
 そのことにより質問なのですが出エジプト記が言わんとしていること、開放に対しての意義とは一体どういうことなのでしょうか?

 流石にエジプトからユダヤ人を救い、はいお終いということではないと思います。聖書にお詳しい方、どうかご教授願えますでしょうか。

A 回答 (5件)

 No.1です。


 このNo.1の回答は あくまで 信仰の内側での議論だということを重ねて 但し書きしておきます。

 信仰は 人と絶対との関係を想定すれば どこにでも 成立すると考えますが その志向性と言いますか目的と言いますか そのような内実については ドグマがあります。(これは 組織集団としての宗教の以前において その教義の問題よりも以前において 個人の信仰にかんして 起きる現実です)。
 いわく。

  そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ
  られねばならない。それは〔イエスを〕信じる者が一人も滅びないで 
  永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:14,16)

 ですから これを宣教という愚かな手段で 伝えるというとき 二つの場合があります。一つには アブラハムからの信仰内容は 綿々としてここにあると言って この非科学的な事柄を それでも 人にも 告白する(つまり 神を賛美する)という場合と そして もう一つには それとは別に これを或る種の仕方で教義として 固守すべきものとして持たせるという場合とです。
 結社の自由にもとづけば 後者も自由ですが しかも わたしは 結社の自由の以前に 良心・表現の自由が来て これを ゆがめているという疑いが 後者については きわめて濃いとは思います。けれども 前者は 表現の自由までの問題です。そうして 信教の自由という個人内面の問題であり そこにおさまります。おさめなければならないことです。
 このような視点は ユダヤ教が優先されるとか 同じ唯一神信仰であるイスラームでは 神が人になったとは見ないとか そういう事態とはまったく別に成り立つ信仰の領域を示すはづです。互いに同等だということです。

 ついでと言っては いけませんが もう一点 こういう視点もからんで来ると考えます。
 つまり いわゆる二元論の問題です。あるいは 二元論を超える仕方の問題です。
 善悪が すべてまったく 相対的な世界において 一般に ことばとして善・悪と呼ぶ事態のことであり もうほかには考えられないという場合には 唯一神信仰の個人の内面におけるドグマに対して それが二元論を同じく超えているものであっても その超え方をも批判の対象にするようです。
 してもよいのですが 善悪論が そのように 時に二元論であったり もしくは 言うとすれば のっぺらぼうの相対性理論のもとに 抱かれていたりするとすれば そのような場合には 唯一神の一元論の場合とは 理論がちがうというその前提を問題にしなければ 話は始まりません。
 端折って言うならば 善(生命ないし存在)の一元論――ということは 悪は善の欠如としてのみ現象するのだという理論です――に立つときの信仰内容としては 永遠の生命を想定するという意味です。個人の妄想でも幻想でも何でもいいですが そういう信仰だという意味です。

 整理しますと
 (1) 片や 個人の信仰・その内面における信教と良心の自由〔そしてさらに表現の自由〕の問題と 片や 組織集団における宗教としての表現の自由とは 互いに大きなへだたりがあると言わざるを得ないということ。
 (2) 善悪論にかんする思想について 個人内面の信仰内容にかかわる部分と やはり集団の思潮としてのように社会的に持たれる部分とでは まったくと言っていいほど 別の問題に属する。これは これだけのことですが そのことから 帰結する重要なじたいがあります。後者の立ち場の人びとは 社会一般の考え方とは ちがうというただそのことだけを持って 信仰内容や信仰を持つことじたいを 攻撃の材料としがちであるということ。
 (3) 〔ついでと言ってはいけませんが〕 もともと アブラハムは 行けと言われたから行ったという信仰から出発しており またこれが原点です。さらにこの信仰内容が 規範として モーセに与えられたという事情が介在しています。そんなものは要らないというのが 原点ですから。したがって イエスの時に この原点に復帰したというただそれだけのことでもあります。
 もっとも その復帰のためには 大きな出来事として そして神があたかも直接に介在しなければならなかったと解釈される出来事として 信仰の中では 歴史が動いています。そういうドグマです。

 信仰は 自由に 信じていいのです。外化して表現することまでも 自由です。他の信仰もしくは宗教と違うというただそれだけの事由によって 批判するというのは いささか 話がまだ入り口にとどまっているのではないでしょうか。
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出エジプト記がいつ、どんな人の手によって書かれたのか、


こんにちもなお完全な解明には至りませんが、
少なくともそれが書かれた時代には、
モーセやアロンなどの登場人物はとっくに伝説上の人で、
この記事を書いたのは荒野の放浪をした人などではなく、
すでに定住生活をしていた集団だと容易に推測できます。
なぜなら、荒野を放浪しているはずのホームレス民族が、
農事形式、農産物についての規定を記そうはずがないからです。

出エジプトの記者たちからずっと後の時代に生じたキリスト教は
出エジプトに限らず、あらゆる旧約の記事を、
キリストの出現と十字架上での死の物語に
シンクロさせて、旧約の意義に再解釈を施すことによって、
新興宗教であった自らの神学的権威を旧約との
相補的連続性の下に表現することに成功したわけです。
そしてこうした新興宗教の権威付けに大きく役割を果たしたのが、
いわゆる「予型論」的な解釈です。
具体的には、旧約と新約の関係を
「予言とその成就」というからくりによって説明付けていきます。

たとえばそれは、失楽園の物語から人類の原罪思想を導き出し、
アブラハムとイサクの伝承から神の子イエスの磔刑を導き出し、
キリストの誕生には、たとえば数百年も前の
イザヤ書という書物の一節がその予言として
わざわざ引っ張ってこられる始末です。
とくにキリストの誕生について深く記す福音書部分においては、
旧約のあちらこちらから詩文やオマージュが散りばめてあります。

いまや新約は、旧約で予言されたことごとくの成就という政略結婚をし、
ついには旧約に対する新約の優越論まで形成することになります。
しかし、おそらく伝統的なユダヤ教の側からしてみれば
これらはきわめて一方的かつ独善的で独りよがりな解釈に過ぎないでしょう。

モーセという力強い英雄が、強大なエジプトの抑圧から神の民を解放し、
神との約束の地へと導く物語は、
捕囚期のユダヤ人の時代には、
アッシリア、バビロニア、ペルシアなどの世界帝国からの解放を、
そして新約のクリスチャンの時代にあっては、
あの偉大なローマの支配からの解放と、やがて天下る神の国の統治へと導く
夢想をシンクロさせていたに違いありません。

なにせ、旧約の記者が喉から手が出るほど
どうしてもどうしても欲しかったのは、
失われた故郷への帰還と神殿の再建であり、
ついには自分たちの王権、具体的には、
伝説のダビデ・ソロモン王朝の栄華の再来だからです。

余談ですが、宗教的弾圧から信仰的自由を求めて脱出し、
長い旅の末に、新天地で神の国を築くという物語といえば、
なにやらどこかで聞いた気がしませんか?
自称「世界の警察」を名乗るどっかの超大国の建国神話に
そっくりそのまま移植されていますね。
奴隷解放宣言、自由と民主主義、フロンティア、20世紀FOX……
旧約聖書はクリスチャンにとって実に都合のいい装置なのかもしれません。

さて、ところで、はたして出エジプトの記者たちは実際、
そんなことを考えてこの物語を記したのでしょうか?
自分たちから数百年また数千年も後に、
キリスト教徒いう、どこの馬の骨とも知らない連中が現れて、
奇天烈な旧約の解釈をこじつけ、
外国人たちによって続編が出版され、
あろうことか「聖書」を名乗り、
自分たちの特権であったはずの神との契約が更新(廃棄)されることなど、
彼らにしてみれば毛頭考えもしなかったのではないでしょうか。

青銅の蛇の記事について言えば、
初めてこの話を読んだ者は当然の疑問を感じるのではないでしょうか?
あるいはクリスチャンならこの記事を少なくとも二つの点において
驚きなくしては読めないはずです。

その一つは、そもそも蛇とは、創世記でエバをたぶらかして、
結果、失楽園を招いた悪魔の化身ではなかったでしょうか。
黙示録においてさえその蛇は悪の権化として登場します。
(このへん字数制限で泣く泣く割愛しますが、
古代の神話を探ると、いろいろと面白いです。
意外や意外、蛇は世界中で救済の神としても崇められてたりもするのです)

のみならず、――この二つめが重要なところなのですが――
そもそもモーセは、ホレブ山で神から下賜された十戒において、
偶像崇拝を堅く禁じていたのではなかったのか。
しかしここでのモーセは、神がもっとも毛嫌いするはずの偶像崇拝を、
やすやすと、しかも積極的に、救いを求める民に勧めているのです。

予断をゆるすなら、初期キリスト教時代においては、
この記事の矛盾は大きなジレンマとして横たわっていたはずです。
だれが読んでも、これは明らかに受け入れがたい矛盾だからです。

そこで中世教会の面々は考えました。
前にも述べた「予型論」でした。その内容については回答#1にあるとおりです。
つまり、青銅の蛇がイエスの十字架の予型とされるのは、
あくまでクリスチャンの側からの旧約聖書の再解釈によるものなのです。
なぜならば、当のユダヤ教のみならず、キリスト教から見ればずっと若輩の、
しかし確実に同じ創世記を継承しているイスラム教でさえ、
キリスト教にあるような「原罪」という考え方はしません。

当然、イエスの死による罪のあがないなどは、何のことやらです。
ましてやこともあろうに神の子供を名乗るなどとは言語道断、
不届きの至極でとてもではないが容認できないというのが
伝統的なユダヤ教徒やイスラム教徒の認識でしょう。
(したがって、イスラム教においては、イエスは、
イザヤやエリヤなどと同列の一預言者の扱いになります)

――とまあ、こうしたことを書けばミッション系の学校では
確実に「落第点」になると思うので書かないほうが良いでしょう。
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この物語は、少なくとも2つあるように思います。




表向きは、、、、
酒かっくらっていい気持ちで素っ裸になって幕屋で寝ていたノアは、息子カナンにその醜態を笑われたことに怒り、カナンに呪いをかけた。
その結果、カナンの子孫はエジプトの奴隷となったってわけです。

で、モーセは、エジプトの王家によって育てられ、結構いい地位にまで上りつめ、エジプトに奴隷制度を作って人々を支配していたが、その奴隷の中に、カナンの子孫おり、いじめられていることに腹をたて、いじめた人を殺した。

暗殺を誰も知らないと思っていたのに、みんなモーセが殺したことを知っていてびっくり。
ヤバイと思い身を隠した。

隠遁生活をしていたモーセにお告げがあり、カナンの子孫をエジプトの植民地である地域に連れていけと聞こえ、エジプトの王様に許可を求めると、エジプトの王様は拒否。

それで、困っているとまた声が聞えた。
神様はエジプトを10の災いで恐喝。
エジプトの王様は仕方なくモーセたちが移住することに一旦は許可を出す。
が、なんとモーセは大量の金銀財宝を持って移住しようとしているではないか。


「ちょっとまった お前ら! 置いていけ!」

それを無視し、モーセはお告げ通りに、ある地域に人々を連れていって待った。
海の水が引き、モーセらご一行は渡る。

しかし道中は厳しく、カナンの子孫たちは「エジプトでは家もあり、食料も十分あり、仕事もあり、十分楽だった。 ところがモーセに言われてついてきたら、それが全て無い。 こんなことならついてこなければ良かった」と嘆いた。


人々が餓死寸前になりそうになるたび、何故か「はいどうぞ」と水や食料がどこからか調達され、やがてシナイ山にモーセは登り、改めて神託を聞いている間、人々は山の麓で、「俺達に足らないのは信仰する儀式だ」と人々は言っており、なかなか下りてこないモーセの代わりに弁舌軽やかなアロンを責める。


人々がそれほど信仰の儀式がしたいなら とアロンはアメン神の偶像を置いて拝ませ、人々に満足させていたところ、モーセが下りてきて「こらーーー アメン信仰は偶像崇拝を否定しておる。 まったくもー 何度言ったらわかるのじゃぁぁぁ」と金の牛の偶像を破壊。
(シナイ山から下りてきたモーセは金色に輝いていて角があったそうです)

が、そういうモーセも神に逆らったことで、モーセはカナンに入ることができなかった。


さて、この表向きの物語から何を学ぶか?
支配者の言うことには なんでも「はい  ただいま」と少しも疑うことなく、実行せよ。

お告げが聞えなかったゆえに悪さをしても、何のお咎めも無いが、お告げを聞いたのに実行しなかった物は、神から呪われる。
だから、信仰が深い人の中には「殺せ」と神の声が聞えたとして、殺してしまう人がいる。
死刑にはならない。
現代では統合失調症を発病しているとして、治療がほどこされる。


もう1つの物語は、モーセはエジプト人で、宗教改革をやったが、負けてしまう。
ピラミッド技術を持つグループを率いて、エジプトの植民地に移動しようとした。
しかし、ピラミッドを始めてとする崇高なエジプトの叡智がエジプト以外の地域に伝われば、エジプトがやばくなる。
だから、エジプトの王様は、モーセら技術職がエジプトから出ようとするのを妨害。

が、自分達の信仰を認めないならいられない となんとかモーセらは脱出し、その子孫がパレスチナに大神殿を建設していく。
しかし、ローマ帝国によって嘆きの壁以外破壊され、各地に離散させられた。


何世紀も後までその技術は密かに子孫に伝えられており、やがてゴシック建築の建物をあちこちに建築することとなった。
そして十分築き終えると、今度は物質的建築ではなく、知的建築をしだした。
その子孫が、ナショナル・トレジャーなどの映画で、今も生きていることをほのめかしている。


というわけで、はい終わり ではないですね。
教会の建築物、実はエジプトの建築技術により建てられていた。
自由の女神もそう。

そして今では物理的建築をやめて、「神により祝福され能力に恵まれたものは、そうではない人に自分の知識をもって助けるべきである」という思想を建築するようになり、これがフリーメイソンという団体に発展した という説がある。

ちなみに、日本をアメリカの植民地にしなかったマッカーサーもそのメンバー。
腐敗したフランス王政と腐敗したフランスのキリスト教会を倒したとき、後ろでリードしていたのもそう。
明治維新もそう。
モーセはグランドマスターだった。


という説がある。

浪漫ですねぇ~。

要するに、知的財産をもって、能力がなく貧しい生活を強いられている人も、助けろってことですね。
これが神の意思とされるんじゃないか と。

しかし、キリスト教は知識の独占をして、貧しい人に無向きもしなかったので、神の教えに逆らうことが信条。
で、フリーメイソンが それじゃ駄目とバチカンの内部に入って改革をしようとしたが、独占を望むバチカンは、自分達の中にフリーメイソンがいるとして、何度も破門を出して、神に逆らい続け、バベルの塔を築き、神になろうとしていえる。

というわけで 神 VS キリスト教の戦い。

傍観していますが、壮絶ですねぇ。
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聖書全体から考えていきます。

モーゼたちはなぜ導かれたのか?
なぜ助けれれたのか?ストーリーだけを見ればはいお終りになりますが
その後ろに誰が守り、誰がどうして導かれたのかを考えて行きます。

結論的に言えばアダムと同じ神の守りがあるから、またイエスをこの地上に送られた神様が昔も今も変わりなく見守っている。こんな感じに書けば優等生的な解答になると思います。
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 聖書記者ヨハネは モーセのことに触れて 次のように イエスの出現について解説しています。



  そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ
  られねばならない。それは信じる者が一人も滅びないで 永遠の命を得
  るためである。(ヨハネ3:14,16)

 モーセがさお(棹)の上にへびを上げて掲げた(民数記21:4-9)ように そしてその意味が死と生とにかかわっていたように あたかもイエスも十字架に上げられたというその二つの事象の類似に注目した一つの見解です。  
 まづ 民数記21:4-9のほうを掲げます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 民はホル山から進み 紅海の道をとおってエドムの地を回ろうとしたが 民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい つぶやいて言った。
  ――あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って 荒野
   で死なせようとするのですか。ここには食物もなく 水もありま
   せん。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました。
 そこで主は 火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので イスラエルの民のうち 多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った。
  ――わたしたちは主にむかい またあなたにむかい つぶやいて罪
   を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように
   主に祈ってください。
 モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた。
  ――火のへびを造って それをさおの上に掛けなさい。すべてのか
   まれた者が仰いで それを見るならば生きるであろう。
 モーセは青銅で一つのへびを造り それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔これについて解説したものがあります。以下 すべてその引用です〕。

 兄弟たち あなたがたは知っていよう。死がこの世に入ったのは悪魔の妬みによったのである。聖書は語る。

   神が死を造られたわけではなく 命あるものの滅びを喜ばれたわけで
  もない。存在させるためにこそ神は万物をお造りになった。
  (知恵の書1:13-14) 

 そして同じ書でこう語られる。

   悪魔の妬みによって死がこの世に入った。(同上2:24)

と。人間は悪魔によって差し出された死の飲物(* もしくは知恵の木の実)へと力づくで赴かされることはない。悪魔は強制力ではなく 説得の狡猾さをもつものだからである。悪魔は あなたの同意なしには 何をもたらしもしなかった。おお人よ。あなたの同意が死へとあなたを追いやったのだ。
 われらは 一人の死すべき人から死すべき者として生まれた。不死なる者から死すべき者になった。アダムによって 人はすべて死すべき者となったのだ。だがイエスは 神の子であり 神の御言であり このかたによってすべてのものは造られ ただ一人御父に等しいかたであったのに 死すべき者になられた。

   言は肉となって わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音1:14)

からである。
 だから イエスは死を引き受け 死を十字架に架け 死すべき者を死そのものから解放してくださる。そこで主は 父祖たちのもとで予表として行なわれたことを思い起こさせてこう語られる。

   そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ
  られねばならない。それは信じる者が一人も滅びないで 永遠の命を得
  るためである。(ヨハネ3:14,16)

と。ここには この箇所をかつて読んだ者なら知っている偉大な奥義がある。そこでわたしは この箇所を読んでいない者にも この箇所をかつて読んだり聞いたりしたが忘れてしまった者にも 次のことを聞いてもらおうと思うのだ。――かつてイスラエルの民は 荒野にあって蛇の噛み傷によって倒れ 多数の死者をもたらす殺戮が起こっていた(以下 民数記21:4-9)。
 彼らを捕らえ鞭打って教育しようとする神の一撃が加えられたからである。そこには 将来の出来事の偉大なる奥義が示されている。そして主ご自身が この箇所で証言され 何人も 真理ご自身がご自身について語られるこのこと以外の解釈をできないような仕方で証言されている。すなわち主はモーセに対して 青銅の蛇を作り それを砂漠で木に架けて高く掲げるように命じられた。そして 蛇に噛まれたなら木に掲げられた蛇を見上げるようイスラエルの民に命じよ と仰せになった。このことは事実となり 人々は噛まれ 見上げ そしていやされたのである。(以上 民数記)。
 ・人々を噛む蛇とは何だろうか。それは 肉の死から来る罪である。
 ・上げられた蛇とは何だろうか。それは 主の十字架の死である。
 ・死は蛇から来るので 蛇の形によって主(イエス・キリスト)の死がかたどられた。
 ・蛇の噛み傷は死に至り 主の死は命に至る。
 ・蛇が見つめられるとき 蛇の力は消え失せるのだ。

 これはどういうことだろう。
 ・死が見つめられるとき 死の力が失せる。
 ・だが誰の死だろうか。それは命なる方(イエス)の死である。
 ・こんな言い方が可能なら 命なるかたの死である。否むしろ この言い方は可能であるにしても 驚くべき言い方であろう。

 だが 主が行なおうとされたことをどうして語ってはならないことがあろう。
 ・主がわたしに代わって行なおうと定められたことを語るのに どうして躊躇する必要があろう。
 ・キリストは命そのものである。そのキリストが十字架に架けられたのだ。
 ・キリストは命そのものである。そのキリストが死んだのだ。
 しかし
 ・そのキリストの死によって 死は死んだ。
 ・死んだ命が死を葬り 命の充満が死を飲み尽くした。
 ・死はキリストの肉の中に呑み込まれてしまったのだ。

 かくして われらもまた 復活して語るであろう。今や勝利を得た者として歌うであろう。

   死よ お前の力はどこにあるか。
   死よ お前の棘はどこにあるのか。
   (コリント人への第一の手紙15:54)

 だが今や 兄弟たち 罪のいやしを受けるために わたしたちはひたすら十字架のキリストを見つめることにしよう。・・・
 (アウグスティヌス:ヨハネによる福音書講解説教 第十二説教 泉治典・水落健治訳)
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