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この質問は物理の欄で聞いてみたのですが、同じ質問を哲学に興味をもっている方はどう考えるか、是非知りたいです。その質問とは:

皆様もご存知のように「自然の法則」という言葉は、「Laws of Nature」と言う言葉の訳として作られた言葉ですね。

そこで質問です。英語には「 Law School」と言う言葉が在ります。同じ「Law」なのに、何故、江戸末期の日本人達は「Law」を「法則」と訳してしまったのですか? 江戸時代末期の日本人には西洋人の心が分からなかったのですか?

と言うものです。

物理欄での遣り取り、と言っても、お二方の遣り取りだけでしたが、

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4200407.html

に載っていますで、それも参考にしてみて下さい。宜しくお願い致します。

A 回答 (5件)

追伸


「物理学者も含めて,西洋人は神を抜きして自然を語ることができないと理解してよいのでしょうか。」
西洋でも最近では神を抜きして自然を語る者が多いですね。思想的にはニーチェやマルクスが神を否定してますからね。また進化論が行き過ぎたせいもありますね。神を否定した物理学が行き着く先は「偶然性や確率論」ですね。
アインシュタインは神はサイコロを振らないと「偶然性や確率論」を否定してましたが「偶然性や確率論」で積み上げた理論に真理はないということですね。現代物理学も砂上の楼閣ですかね。ただ人間が発見したものは「法」ではなく「法則」程度だと思えばいいんじゃないかな。

この回答への補足

下に書いたお礼の文の中に、場合によっては誤解さてしまう部分に気がつきましたので、この欄を借りて蛇足を書かせてもらいます。

量子力学は、シュレーディンガー方程式(あるいはハイゼンベルグ方程式)と言う決定論的な微分方程式を基本法則であると主張しているので、この方程式は本質的に決定論的な世界観の表現になっています。量子力学によると、全ての物理量(オブザーバブル)は数ではなく、関数でもなく、演算子(すなわち関数の関数)であると主張します。その主張から演繹される数学的な帰結が、その演算子の期待値の間にある不確定性関係式です。従って,不確定性関係式は決定論的なシュレーディンガー方程式からの数学的な帰結です。ですから、不確定性原理があるから、この宇宙が確率論的に出来ていると言う主張は短絡的です。私はしばしばこのような誤解に基づいた主張にお目にかかっております。お礼欄で述べた「確率論的な世界観」とはそれとは違ったもっと深い意味の主張ですので、物理学の専門家として、蛇足とは思いますが、誤解を避けるためにあえて書いておきます。

「量子力学では不確定性関係式なるものがその数学的帰結として出てくる、期待値なるものを何故考えるのか」ということに関しては、物理学では、シュレーディンガー方程式という第一原理とは独立な、「観測の理論」というもう1つ別な原理との関連で理解されているのですが、この宇宙ははたして第一原理に基づいた一元論的なのか、他の原理を必要とする多元論的なのかという、未だに物理学者の間で論争の耐えない問題に絡んできますので、物理学者の間では共通認識がまだ出ていないと言った状況です。

補足日時:2008/08/01 22:38
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この回答へのお礼

ご返事有り難うございます。予測がつなかったわけではないですが、やはり哲学欄で回答して下さる方は、面白いですね。私は同じ質問を物理欄でしたとき、普段から法則に興味を持っているはずだから、相当突っ込んだ回答が来る方もいるかもしれないと思ったのですが、期待した反応は得られませんでした。

>神を否定した物理学が行き着く先は「偶然性や確率論」ですね。

この言葉は,私にとって大変参考になりました。私には、確率論的な世界観を常々主張している、著名なヨーロッパ人の物理学者の友人が居たのですが、彼の家の中には一切キリスト教を感じさせる装飾が無いのが印象的でした。その国のどの方の家にも、キリスト教の匂いを感じさせるものが必ずと言ってよいほど飾ってあるから、なおさらです。貴方の回答で、なるほどと、一皮向けた気になれました。ただし、その友人が言うには、確率論的な世界では神の役割については、今まで我々が教育されていたようなものではなく、何かまだ我々が理解していないものになっているはずだと、判ったような判らないようなことを言っていました。その方の頭の中から、まだ神を抜きには出来ないのか、それとも外交辞令を言っているのか、私には判断が出来ませんでした。

ここでまた質問が出て来てしまいました。欧米では,神の否定とは無神論ということですが(即ち、一神教としての神を意識して、それを否定する)、日本人の場合は、少なくとも私の経験では無神論者に会ったことが無く、今まで私の会った方は皆、潜在的な多神教者か汎神論者で、普段はその諸々の八百万の神を意識していない方ばかりだったとの印象を強く持っています。

無神論者にとっての自然および物理法則と、(日本人のような?)多神教者の自然および物理法則とは、同じ言葉を使っていても違いがあるのかな、と言うことに興味があります。

余り回答補足の要求ばかり出していると失礼になるかもしれないので、この際、回答のお礼としますので、これで打ち切っても十分感謝しております。それでももし何かご意見がありましたら、それを聞かせて頂けたら幸運と思います。

お礼日時:2008/08/01 22:37

[無神論者にとっての自然および物理法則と、(日本人のような?)多神教者の自然および物理法則とは、同じ言葉を使っていても違いがあるのかな、と言うことに興味があります。

]
それは違うと思いますよ。石や狐や狸まで神様の国では何でもありがたがる傾向性があるんですね。玉石混交の世界を正しい世界と信じるとそれを基盤とするあらゆる学問で玉石混交なる理論が展開されるわけですから。原始宗教、神道、キリスト教、仏教なんでもありですからね。何でもありの思想の先に湯川先生の「場の理論」があるんじゃないですか。これは西洋人の発案は難しいでしょう。より高度な思想は西田哲学の「絶対矛盾的自己同一論」でしょう。これ簡単に言えば、花びら一個ずつも花だと思ってるけど本当は数十個の花びらでできた一つ花なんだということですが、この高度な認識力(哲学)がわかれば一神教と多神教は花全体か花びらかの違いが理解できると思います。
多神教の世界では花びらの一つ一つを追うのでしょうね。物理学もそのようでしょう。全体を一と捉える一神教からニュートン先生の引力がでたのもうなずけるでしょう。一神教から多神教への流れが正しい認識の世界ですね。
このカテでもゲーデルの数学理論を捉えて神はいないと証明されたのではなぞというものがでていますが花びらの一つしか理解できない認識力の低さが多神教にはありますね。日本人全般にあるものですね。
もう一つ追加すれば見える世界はすべて見えない世界の「合目的」3次元投影ですから「合目的」を通して見えない世界の物理学も進展するでしょう。ただし「確率論的」を通しても発展しないということです。それが砂上の楼閣という意味ですね。参考まで
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この回答へのお礼

参考になりました。有り難うございます。

お礼日時:2008/08/03 02:35

>同じ「Law」なのに、何故、江戸末期の日本人達は「Law」を「法則」


>と訳してしまったのですか? 

ぜんぜんおかしくないと思いますが。

この回答への補足

回答有り難うございます。

日本人にとっては,「法律」と呼んだらまるでおかしいと感じたので「法則」という言葉を何処からか見つけ出して来たほど全然違った2つの概念に対して、英米では「Law」、ドイツでは「Recht」などと1つの言葉を当てはめてしまうのは、私には不思議な感覚だと思いますが、如何なものでしょうか。

同じものを見ていても、西洋人にとっての自然は、日本人にとっての自然は違ったものなのでしょうか。もしそうだとしたら,物理学など自然科学で対象にしているものは決して客観的な事象ではなく、文化々々で異なった主観的な事象を対象にしているのでしょうか。

補足日時:2008/08/01 19:56
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この回答へのお礼

有り難うございました。

お礼日時:2011/05/05 21:27

[江戸時代末期の日本人には西洋人の心が分からなかったのですか?]


江戸時代に限らず現代でも理解してないからですね。「Laws of Nature」は旧約聖書の天地創造を読んで信じないと理解できないでしょうね。すべてのものを創造主が創造しこれでよしといわれた。
これがLaw ですね。つまり創造主のお考えで自然環境ができているから「Laws of Nature」という表現があるわけです。それを探求して理解するのが自然科学ということですね。
神の代理人の人間も「法」を創り国を治めるわけですね。その前に神は世界を治める「法」を創ったという思想ですね。
何かを発見して法則としそれを積み上げて統一法則を創るという陳腐な思想からきたものではないということですね。最初が正しくて後の者はレベルが低すぎて理解できなくなるという例の一つでしょう。

この回答への補足

回答有り難うございます。

物理学者も含めて,西洋人は神を抜きして自然を語ることができないと理解してよいのでしょうか。私の経験では、日本人は神を意識せずに自然を語ることができ、また,科学を語ることが出来るのではないかと考えているように思えるのですが、その辺りについて、掘り下げたご意見がお聞かせいただけると有り難いです。

補足日時:2008/08/01 10:17
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この回答へのお礼

有り難うございました。

お礼日時:2011/05/05 23:14

一般論から言えば、明治初期の教養人は、ドイツ語・フランス語のほうを好む傾向があったと思います。



ドイツ語のほうが英語より明快ですが、例えばレヒトという単語には、(1)法律、(2)自然法則、(3)正義、(4)権利など、複数の意味が混じっています。完全に法律であることを強調したい場合は、レヒトではなく、ゲゼッツという単語があります。

質問の主旨が分かりかねますが、Law of Natureは、ヨーロッパ大陸語に引っ張られると、自然法、もしくは、人間本性という意味になります。高校の社会の教科書に出てくる、あの、自然法思想ですね。

ドイツ語の場合、ナトゥーアレヒトで自然法、もしくは、自然権。江戸時代や明治時代の日本人が、どこまで事情を理解していたかは知りませんが、英語でも、このような自然法思想の反映が一部で見られるのは、変なことではないと思います。習慣のことを「第2の自然」と呼ぶ言い方は、アメリカ語にも定着しています。

この回答への補足

早速の回答有り難うございます。

ドイツ人は日本人の発想から見るとまるで違った4っの概念に,何故レヒトというー文字を当てたのか、またそのことから、同じ科学を語るとき、ドイツ人が見ている自然と、日本人の見ている自然とは全然違ったものだと言っても良いのか、などのご意見を伺えると有り難いです。

補足日時:2008/08/01 10:06
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この回答へのお礼

有り難うございました。

お礼日時:2011/05/05 23:15

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