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江戸大名の名前について

役に立った:3件
  • 質問者:batten1979
  • 投稿日時:2008/08/03 09:38
  • 困り度:すぐに回答が欲しいです

17世紀中頃から、大名の名前に使用される字が従前と変わってきていますが、どのような理由があるのでしょうか?
また、旗本、御家人、大名家の家臣も同様なのでしょうか?
よろしくお願いします。

山内家の例
山内豊(雍)、山内豊(策)、山内豊(熈)、山内豊(惇)

宇和島伊達家の例
伊達宗(贇)、伊達村(候)、伊達宗(城)

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回答(6件)

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  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/08/07 07:03

たびたびすみませんねぇ。
答が、また、筋違いでしたかねぇ。
本当にごめんなさい。

>>「漢字の変化」についてお聞きしたいのは、質問にも書いたとおり、山内家の例で言えば、山内豊雍の「雍」、山内豊策の「策」、山内豊熈の「熈」、山内豊惇の「惇」等は17世紀以前では名前に使用されることのない漢字でした。
これらの漢字が使用されるようになった理由が何かをお聞きしたいのです。

これの「答」は、前回と同様に「儒教(儒学)」の四書五経から「ありがたい」文字を見つけてきて「あやかった」と考えます。

なお、朱子学、陽明学は、儒学の分派です。

このことは、17世紀以前にも、すでに、皇族、特に、天皇などには用いられました。また、和元号なども、四書五経などから採用したものもあります。

2代天皇綏靖、3代安寧、4代焚徳・・・なども「難しい字」ですよね。

現在の和元号の「平成」も、安岡正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)、陽明学者・東洋思想家。が考案したとされる元号であるが、「平成」の名前の由来は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨(偽書)の「地平天成(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。なお、平成は慶応改元の際にも候補に上がったが、2回目で採用されました。

武士関係で用いられるようになったのは、前回も述べたとおり、戦がなくなり、学問が武士の必須となると、やはり「あやかりたい」文字を探し出して用いました。特に大身(大名)などになると、その傾向は強かったと思います。

また、一般の武士(家臣)なども、一見すると「普通の漢字」のようですが、そこには、それぞれの「意味」を持ったものも多いとおもいます。

まあ、現代でも、子どもの名前を付ける時、画数や何かの本などから探して使うことも多いですよね。

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  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/08/07 06:00

訂正:

文政6(1823)年、「五郎左衛門幸信」と名を改める。さらに引退後「与兵衛五郎左衛門幸信」と名乗る。

「引退後」は間違い。「引退後」を抜かして読んでください。
天保13(1842)年、獄死でした。

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  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/08/07 05:54

はい。意味が分かりました。
実は、私は、自称「歴史作家」です。

まず、結論から言えば「ありました」。

ただし、大名などでは、各家の系図や代々の詳細なども書かれたものも多く、割合と調べやすいのですが、その家臣や一介の武士となると、中々、表舞台に出てきませんので、「あった」としても、史料として残るものは数多くは発見できません。
個々の家では、代々の記録として残ってはいるのでしょうが・・・。

史料として「有名?」なのは、

仁杉(ひとすぎ)五郎左衛門という文化・文政年間(1804~1829)~天保年間(1830~1843)頃、南町奉行所与力がいました。

変遷を見ていくと、

天明7(1787)年生まれ、「常松」と名づけられる。仁杉家9代目。
1~14歳の元服まで。
享和元(1801)年、「与兵衛幸生」と名乗って元服。与力見習いとして出仕。
14~21歳頃。
文化4(1807)、「与兵衛幸生」。(変わりなし)。父幸堅引退し、家督を相続し本勤与力になる。
20~36歳頃。
文政6(1823)年、「五郎左衛門幸信」と名を改める。さらに引退後「与兵衛五郎左衛門幸信」と名乗る。
父祖の地、駿河国仁杉村(御殿場市)に墓所を建立。
36頃~55歳。

この「仁杉家」の場合、

初代「幸通」は、後年「五郎左衛門幸通」と名乗り、
「幸」の文字を「通字」として代々名乗っています。
また、これ以後「五郎左衛門」受け継ぐようになりました。

2代目「幸高」は、後年「五郎左衛門幸高」さらに「与兵衛幸高」と名乗りました。

3代目「幸重」は、後年「八右衛門幸重」。
「幸重」の息子の代に分家が出る。「仁杉八衛門家」と称する。
その後、「八衛門家」は大分後になって「五郎八郎八右衛門○○」を名乗る。

4代目「幸勝」は、後年「与兵衛幸勝」。

5代目「幸次」は、後年「与兵衛幸次」のち「八右衛門幸次」。

6代目「幸光」は、後年「幸右衛門幸光」。

7代目「幸計」は、後年「幸右衛門幸計」のち「五郎八郎幸計」。

8代目「幸堅」は、後年「五郎八郎幸堅」。

9代目「幸信」は、はじめ「幸生」と名乗り、「与兵衛幸生」に改名。後年「五郎左衛門幸信」さらに「与兵衛五郎左衛門幸信」。

この仁杉家の「与兵衛五郎左衛門幸信」は、天保12(1841)年に5年前の天保7(1836)年の全国的な飢饉で米価が高騰したため、幕府が「御救い米」を支給したが、その御救い米買い付けに不正があった、との嫌疑をかけられ、買い付け責任者であった「与兵衛五郎左衛門幸信」は投獄され、翌13年正月に獄死。息子二人(名不祥)も八丈島へ遠島となり、その地でそれぞれ死亡。仁杉家は断絶した。

まあ、調べれば、まだまだあるとは思いますが、歴史上で一応「正確に?」分かっている例を述べました。

落語に「じゅげむ、じゅげむ・・・」がありますが、通常の家系では、先祖の功績にあやかろうと、先祖の名を受け継ぐ形で名乗る場合が多かったと思います。

このような「答」でよろしいでしょうか?

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  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/08/06 10:57

>>名前に使用する漢字の変化は大名に限ったものではなかったということでしょうか?

「漢字の変化」・・・これは、どう言うことを意味して、何を聞きたいのでしょうか?

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この回答への補足

「漢字の変化」についてお聞きしたいのは、質問にも書いたとおり、山内家の例で言えば、山内豊雍の「雍」、山内豊策の「策」、山内豊熈の「熈」、山内豊惇の「惇」等は17世紀以前では名前に使用されることのない漢字でした。
これらの漢字が使用されるようになった理由が何かをお聞きしたいのです。

これについては、儒教の影響で縁起のいい漢字を使用するようになったとの回答を得ましたので、この現象が旗本、御家人、大名家の家臣にも同様の影響を及ぼしたのかをご教示願えればと思います。

よろしくお願いします。

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  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/08/04 12:10

>>この現象は大名に限ったものなのでしょうか?
それとも、旗本、御家人、大名家の家臣も同様なのでしょうか?

まず、旗本と御家人について・・・
これは、家康公以来の家臣ですので、ある程度の家格では、やはり、代々受け継がれる名前はあったと思います。しかし、全部が全部というわけではなかったと思います。特に、御家人などは、武士階級では下の部類(とは言っても、その下には「足軽」「中間」などの最も下層階級の武士もいましたが)。江戸時代中期になると、早くも、家名存続のため、御家人株を売って、その家名を存続してもらうことも起きています。
旗本では、例えば、南町奉行になった大岡忠相などの家系図では、「忠」という文字を代々受け継いでいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1% …

次に、大名の家臣などでも、家老などの重臣になると受け継ぐ文字がありました。しかし、軽輩になると、必ずしも決まってはいなかったと考えます。ただ、軽輩でも、ある程度の家格や由緒正しき家系では、あったとは思いますが・・・。
例えば、忠臣蔵で有名になった大石家なども「良」の文字を受け継いでいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3% …

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この回答への補足

代々受け継いでいる字って通字のことですよね?

通字の文化は従前からあったと思うのですが、名前に使用する漢字の変化は大名に限ったものではなかったということでしょうか?

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  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/08/03 13:03

こんにちは。
いわゆる「戦国時代」と呼ばれる「信長」や「秀吉」らの時代は、もっぱら「戦術」の研究に明け暮れました。
しかし、徳川時代に入ると、天下泰平で戦もありませんので、「軍学」は廃れて、もっぱら学問(主に儒学)や芸能などの文化が盛んになりました。
そこで、そうした儒学などの本の中で使われている「縁起?」の良い文字を拾い出して当てるようになりました。

(よもやま話)
(1)武士の必須科目
もちろん、文武両道であるが、五歳~七歳ぐらいまでは、手習いで文字を覚えさせられた。七歳からはいきなり「中庸(=四書のうちの「礼節」の部分)」の素読から始まる。中味の意味までは教えてもらえない。八歳ぐらいになると師のもとに通い、十歳までに「四書五経」の素読を覚える。まあ、その間には、聞きかじりで意味を理解するようになる。武術は、剣道と水泳であった。
(2)武士にも国家試験?
はい、ありました。武士の子息が十二歳になると、湯島聖堂附属の学問所で試験を受けた。出世を目指す者は特別試験の「素読吟味」にチャレンジし、さらには、「学問吟味」と呼ばれる国家試験があった。前者は年に1回。後者は3年に1度行われた。これに合格すると「番入り=役所勤め)」ができた。逆に、合格しないと、どんなに家柄が良くても家督相続さえ許可されなかった。けっこう、厳しい世界であった。

このような「答」でよろしいのでしょうか・・・。

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この回答へのお礼

>>bungetsuさま

回答ありがとうございました。

名前に使用する字の変化は、儒学の影響からなんですね。
重ねてご存知であればご教示願いたいのですが、この現象は大名に限ったものなのでしょうか?
それとも、旗本、御家人、大名家の家臣も同様なのでしょうか?

  
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