江戸城の大広間
江戸城の御殿の部屋に大広間というものがあります。これについて2つの記述があります。
・大名が将軍に拝謁(はいえつ)する間
・四位以上の外様大名の控えの間
どちらが正しいでしょうか。たしかに大名の控えの間には溜間や大広間など○○間というのがあります。また、諸大名が百人くらい並んで将軍に拝謁している屏風図もみたことがあります。どちらも正しいようにおもえます。
回答(2件)
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No.2ベストアンサー20pt
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>江戸城の御殿の部屋に大広間というものがあります。これについて2つの記述があります。
・大名が将軍に拝謁(はいえつ)する間
・四位以上の外様大名の控えの間
結論から言いますと「どちらも正しい」です。
まず、大名は「中雀門(ちゅうじゃくもん)」から城へ入ります。
すると、いきなり、能舞台が左手にあり、普段は雨戸が閉めてありますが、公(おおやけ)の儀式の日などには、ここで「能」が行われます。
そして、能舞台を正面から見ることができる右手が「大広間」です。
雨戸の外に位置する「縁側」と雨戸の内の「入側」に囲まれた部屋で「上段の間」「中段の間」「下段の間」「二の間」「三の間」「四の間」「納戸の間」「中庭」などで構成されています。
当然、上段の間には公方さま(江戸時代、将軍のことは「将軍さま」とは呼ばず、「公方さま」または、「御公儀さま」「大樹(だいじゅ)さま」と呼ばれていました。)が座する場所で、ここで、公的な行事などを行いましたが、四位(四品とも言う)~権中将までの国持ち大名や御三家連枝、四品以上の外様大名などの控えの間としても使われました。格式などにより、座る場所が決められており、例えば、朝廷からの使者などが登城し、公方さまと会談する時も、その場に座っていましたので、当然、話の内容は聞こえました。
ただ、実際には聞こえなかったかもしれません。これについては後述します。
どちらにせよ、この大広間詰めの大名たちには、「聞こえても良い」という意味合いがありましたので、「大広間詰」となりました。
明暦3(1657)年1月18日に起きた「明暦の大火」で天守閣が焼失した頃の「控之間」としての史料では、
大廊下「上之部屋」には、御三家。
大廊下「下之部屋」には、松平加賀守、松平越前守。
以上は、権中将~権大納言。
「黒書院溜之間」・・・井伊掃部頭、松平肥後守、松平讃岐守。
(この3人は常溜と称されました)。
松平隠岐守、松平下総守、酒井雅楽頭、松平越中守。
(この人たちは飛溜=一代限り、または、功績により指名された者)。
元老中。
以上は、侍従~権中将。
「大広間」は、先に述べた通り。
四品~権中将。
「帝鑑間」・・・城主格以上の譜代(御譜代衆と呼ばれた)。
五位~侍従。
「柳間」・・・・五位の外様大名。
「雁間」・・・・城主格以上の譜代(詰衆と呼ばれた)。
五位~侍従。
「菊間縁側」・・三万石以下の無城譜代。
五位。
(よもやま話)
(1)「大廊下詰」は別格として、最高の格式を持っていたのは「溜之間詰」でした。
職務としては、5~7日に一度登城し、「白書院」で公方さまのご機嫌伺いをし、同じく「溜之間」の老中たちに挨拶。
次に、「白書院」では、老中が公方さまに拝謁し、政治上の諮問を受けたことに対して意見を述べる。
逆に、公方さまが諸問題を諮問する時は、老中や溜之間大名たちを呼んで問題提議をしました。
このようなことから、溜之間詰大名は、老中格としての権威を持っていました。
また、公方さまの名代として、御所(禁裏御所や仙洞御所)に昇殿し、天皇や上皇の拝謁を賜りました。
(2)毎月朔日(1日)の月次御礼(公方さまへのご機嫌伺い)は、「大廊下詰」と「溜之間詰」大名は「黒書院」で、その他は「白書院」で行われた。
(3)彦根の井伊家は将軍の親戚でも何でもないが、特に三河時代からの古い家臣で由緒ある家柄であったため、代々顧問待遇を受けて「溜之間詰」であった。そして、役職に就けば必ず「掃部頭」を名乗り、大老であった。
(4)さて、「大広間」の大きさ・・・
上段の間・・・34畳。
中段の間・・・34畳。
下段の間・・・44畳。
二の間・・・・52.5畳。
三の間・・・・70畳。
四の間・・・・70~80畳。
(5)では、「大広間詰」での大名はどこに?
格式が良くて・・・二の間。およそ3~4人。
次が、三の間5~10人。
そして、四の間15~20人。
そして、先にも述べましたが、座る場所も厳格に決まっていています。
これほど広い場所ですので、上段の間で公方さまが朝廷の使者などと話しをしていても、ほとんどは聞こえなかったのではないでしょうか。ただの「立会人」のようなものでしょうね。
(6)登城した大名たちは何をしていたの?
大名同士で世間話でも・・・。とんでもありません。大名同士が結束されては幕府転覆を狙うことも有り得るので、殿中ではいっさいの私語は禁じられていました。そして、老中などの役職者は日々これ忙しい毎日でしたが、大方の大名はただ出仕をするだけで何もせずに、ただただ「ボケッ」として刻を潰しました。そして、八ツ(午後二時)くらいになるとお城下がりをしました。
(7)湯茶の接待は?
まったくありませんでした。ただし、茶坊主という接待役がいて、御三家と大名の中でも賄賂を贈った者だけには出仕すると、こっそりと一回のみお茶を出してくれました。それ以後は、自分で湯茶場へ行き、自分で注いで飲みました。どんなに偉い大名でも、江戸城内では、公方さまの、ただの家来だったからしかたがありません。また、茶坊主に気に入られない(賄賂などを贈らない)大名などは、出仕しても茶坊主は知らん振りをして通り抜け、今でいう「シカト」され、冷遇されていました。そして、弁当を食べる時や食べた後、お茶が飲みたければ、自分で湯茶場へ行き、自分でお茶を入れて飲みました。さらに、夏はともかく冬でも火鉢などは一個もなく、座布団さえありませんでした。
(8)大名同士でも親戚もあれば親友もいたでしょう・・・。
そうした者同士が集まる時は、必ず、上屋敷で行い「別に騒動を招くような話ではない」という証に旗本に頼んで立ち会いをしてもらいました。
あなたの「答」になっていたでしょうか?
この回答へのお礼
ありがとうございます。
二の間以下は広間が途中で折れ曲がっているところより後ろですね。
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