デカルトの思想「我思うゆえに我あり」によれば
本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」だけだそうですね。
更に言えば、私のこの手足や顔だって本当に存在しているか分からないらしいですね。そして、学問や数学ならOKだろうと思いきや、これら全て無根拠だそうですね。1+1=2が正しいかどうかさえ・・・。
(方法序説で読みました。)

すなわち、

真理の追求だ!とかいって永い間、人々が頑張ってきた学問も・・・
宇宙の謎が解けた!と喜んでいた物理学者の努力も・・・
心から愛していたあの人も・・・

全ては無根拠であり、何の論理の裏打ちもないってことですね。

世間知らずの僕はこの事実を知った日、雷を打たれたようにショックを受け、空虚な気分になりました。しかし、少し世間に目をやれば、全くそんなことを気にせずに人々は生きているように感じるのです。
ここでクエスチョンです。

・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書などを参考にしたのですが)
・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?
・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

まだ社会人にもなっていない僕には全然分かりません。教えてください、m(_ _)m

A 回答 (13件中1~10件)

ある本(忘れました)により、まさに”目から鱗”のように凡人なりの理解を得ました。


それまではある種独特な才能の人々の禅問答的なお遊びと思っていました。

重要なのは次の3つの彼の時代背景、彼の職業、彼の研究対象の理解です。

ー1- 彼の時代は宗教が全を支配した時代でした。
      宗教は真理そのものであり、いかなる分野に置いてもその中心は宗教でした。
ー2- 彼は熱心で敬虔な宗教家として地位を得ていました。
      宗教家としてその歴史の研究者、探求者として、自他共に受け入れられていた。
ー3ー 自然の仕組みに鋭い観察力と探求心をもって日々送った。
      今で言う科学者としての資質に恵まれ、現在の数億から数千億の設備に支えられた
      先端科学ではない、多くを自己の五感に頼るしかない時代での自然界の営みと、宗教の教えの
      ”矛盾なき統一問題”が当時の全ての学問の目的でした。

当然 絶対的な宗教と自然観察からなる科学的理解の狭間で生ずる矛盾に悩んだと思われます。
今でこそ簡単に”矛盾”といえますが当時の彼は宗教と自然への理解は当然のごとく矛盾はあり得ず、矛盾があれば、それは宗教か自然か何れかへの自己の理解力の不足としてとらえ、さらに宗教への思索、自然への五感(この時代の科学は五感が重要でした)、自己の全ての思考、感覚を鋭く深く探求したに違いないと思います。

しかしながら矛盾は解消されない。
自己の能力を疑い、五感を含め全ての自己の感覚の何れをも疑う結果、全てを疑う事は、自己の存在でさえ疑うまでにいたり、
その自問自答の末に ”いや私はこうして考えている私は実在の何者でもない”存在そのものである! と確信する事になった。

よって ”我思う故に我あり”と 皆さんとは違った実在を肯定した意味にとらえています。
”私は宗教の導きでは自然を解ききれなかった、自然の理解に私の五感は無力、無意味なのか?
五感の疑いは即、自身の存在さえも疑える結果として 

 宗教 と 自然(科学) の矛盾 ー> 自己の宗教、自然認識への疑い ー> 自己否定
  ー> 探求者の深淵高邁なる導き ー> 結果”少なくとも探求者としての私はここに存在する”

という課程を 私 凡人としての理解があります。

無気力な言葉遊びなどでは決してなく世の中の真実を真摯に探求した苦渋の結果なのです。

現代版ではアインシュタイン(1879-1955)の”それでも神はサイコロを振らない”に通ずるような気がします。
同時代のガリレオ(1562-1642)では”それでも地球は動く”の表明は悲惨でした。
ちなみに デカルト(1596-1650)  ”我思う故に我あり”
おなじく  パスカル(1623-1662)は”人間は考える葦である”も浮かんできます。

以上 凡人の戯言ですのでお手柔らかに、ご容赦を。(年代、格言の参考 Wikipediaより)
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この回答へのお礼

皆さん、回答本当にありがとう御座いました。代表して一つのお礼とさせて頂きます。
僕は全ての回答を読み、色々と考えました。その結果、ある結論が出ました。それは、自分は理性主義に妄信し過ぎていたようだ、ということです。僕は、「AだからB」と言う風に、全てのことに理由があり、それを頼りにしていけば、正しく生きていける!、そう信じていました。そして、理性の極み、と思われた数学や物理に嵌っていました・・。どうやら理性や論理100%のブラック無糖では生きていけないですね。No.1の方の回答にもあるように、今の自分は1秒前は存在していなくて、自分は何者かが「今まで生きていた」という記憶を植えつけられただけの存在かもしれないとか、明日宇宙が消滅するかもしれないとか、ぶっ飛んだことをいわれても、確かに論理や理性はそれを否定することはできないですね。しかし、その可能性もあるのに、私たちは「生きている」んですよね。そんなことは決してない、と「無根拠」ではあるが信じているんですね。そこには、論理や理性などないですね!!ただあるのは、「こうありますように」という、「祈り」のようなものであるはずです。理性だけで生きていける!と思っていた僕ですが、何だか理性の限界を見た気がしました。そういった意味で、僕の世界観はこの「教えてgoo!」で変わりました。
他にも、デカルト解釈の甘さなどご指摘していただけて嬉しいです。これからはもっと哲学にも、精進しようと思います。
これから進学を控える僕は悩んでいましたが、何だか楽になり、スッーとした気分になれました。本当にありがとうございました!!!

お礼日時:2008/08/18 18:45

御質問者様は容認したのでしょうか。

でも、それを私は正しく知り得ないのです。

>本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」

それが、本当に正しく、真理だとは言えるし、ご自身は体感もするでしょう。それが本当に正しく真理だという私からの回答は御質問者様にとって無根拠です。

>なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
 そういう視点においては、人々が平然であるかどうか、人々が生きているかどうか、御質問者様には知るすべはありません。無根拠です。
 完全にこの視点のまま世間に目をやる意味はありません。

 御質問者様が「人々が平然と生きている」と認めているところに1+1=2が成立しているのです。
 だからでしょうね。平然と生きているのは・・・
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>・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?



ご質問者様が考えている様なことを考えていないか
また、そんな事考える必要もないから
これに加え、それを知っていても「現在自分が生きている」をいう事実を否定できないから
これを否定できない以上は「生きているという状態を続ける」のが普通だよ
自殺とか苦しい事から人は逃げる傾向があるからね


>・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など
>を参考にしたのですが)

間違ってないけど、囚われ過ぎ
今ままでに色んな考え方や哲学が生み出されてきた
デカルトの思想はそのうちの一つでしかない


>・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?

まあ、甘い点があるよね
確かに全ての事柄は無根拠であると言えるけど、それを言ったところで何?って話でしょ
(凄く簡単に説明してます。多分、この辺りを真面目に説明するとここでは書ききれない)
ついでに他の方も回答されているけど、自分自身の存在自体証明不可能なんだよ
であれば、デカルトの思想の根幹が揺らいでしまう


>・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きてい
>る「覚悟の人々」なのでしょうか?

一番最初に答えたように、デカルトの思想自体を知らない人もいるよ
ついでに言えば、その思想を知っていても、覚悟なんかなくても普通に生活できると知っているというところかな

存在の証明ができなくても「実際に存在している物は存在している」
それを前提としなければ頭でっかちの、悲壮感だらけの事しか考えられない人間になるだけ
正確には、時にはデカルトの思考について考えるのは温故知新として必要だけど、古い時代の考えから前に進まなきゃ何も始まらない


ちなみに全ての存在の証明が無いとご質問者様は生きていけないのかい?
自分が好きな物や人の存在が証明できなかったら、ご質問者様はその好きな物を嫌いになるのかい?


また物の価値なんて自分で決める事



PS.哲学する事はいい事だと思ってます。ただし、頭でっかちになっちゃダメだよ。理論じゃ説明(証明)できない事も多々あるって考えていた方が真理に辿り着く早道だと思うしね
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・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?



そうだね。 これ疑うのが一番の早道でしょう。
「我思うゆえに我あり」これ自体が子供じみてるし、真理ではないことは確かですね。理由をつけるとしたら、誰しも考えてるから、犬や猫だって考えてるよね、デカルトにいわれるまでもない程度のものだからね。こんな真理でもないものを土台にしたものに真理さえないよね。迷ったときは最初の思想を疑えは基本だね。
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 ANo.3に書いた通りではありますが、modoki666さんのANo.8の中段にあります、『自分が考えていること(事実たる行為)こそ自分の根拠ならです。

』までいたり、デカルトに関する理解を改め、且つ、深めました。
 1. 根拠は創造界におけるDroste効果的にいくらでも主格たる意識性は手繰っていくことになるでしょう。これを終局させるのは、創造という事実認識、事実を根拠とすることから飛び越えることでしょう。でも飛び越えた向こうからきている、主格意識(どこまでも手繰っていく)はそこからきているので、存在する。考えている(意識している)事実者、プロセスが存在する。そのものの確証根拠は得られなくても、それは存在している。ということかな
 2. 死体や物質、他人。自分としての主格意識が中に入っていない存在は、客体対象・objectである。そういう意味では主格は存在しない。確認証の外のものである。意識はない。でもその中に主格たる意識をいれられれば、それの存在は客体ではなくなる。その意味では確認証となる。
 3. 生きて存在している、自己の主格たる意識が依り代としているこの身はいかがか。実は之は自己たる主格の意識が、客体的に知覚・経験(行為を含む、行為には呼吸も入る、知覚も入る)している客体対象・objectである。(この私自身は、そういう瞬間に幼児のときからおちいり、不思議そうに自分の四肢やら体全体、周囲を見回して、奇妙な思いに入っていった) そういう意味で存在は確認証しているということはいえない。そこにころがる他人の死体と同じものである。
 4. そういうことで、デカルトとともに、自分という主格の意識がしている、経験と行為を確認証するだけにとどめています。
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デカルトが生きた時代は、キリスト教の教えが非常に強い時代でした。


キリスト教では、人間は神によって造られたとされています。
デカルトの頭の中に、
じゃあ、自分の全ては、神によって造られて支配されているというなら、「自分って何」という疑問が生まれます。
「自分」という根拠はなに?
「自分」というものはないの
それが、「我思うゆえに我あり」でしょう。
全てのものが人間が考え出したもので、無根拠で論理の裏打ちもなくて、間違っているかもしれない。
でも、自分が考えていることこそ自分の根拠なら、別にふざけるわけではありませんが、赤塚先生が漫画で書いた、「それでいいのだ!」ということでしょう。
それも多くの人たちが「思う」事を積み重ねて、それをデカルトが「思って」それで、デカルトの考えにいたるのでしょう。
永遠に人類が「真理」というものに到達できなくても、そんな能力ないのだとしても、「考えること」が自分の根拠なら考えればいいのではないでしょうか?
人々は平然と生きてもいないし、あなたの考えが間違ってるわけでもなく、デカルトの思想がおかしいのでもないと思うし、「覚悟の人々」でもないと思います。
もちろん、あなたのような疑問を持つ人もいるし他の疑問を持つ人もいる、自分の考え方一つでうれしかったり悲しかったり、人を怒らしたり、喜ばせたりするでしょう。
「真理」を得て、強くなって自分を安定させたい「自己」を強くしたいと考えるよりも、どんな状況でも考え続けた「自己」を持って、未知の事でもぶつかっていけるから、今があるのではないでしょうか?
もちろん様々な問題があるにしても。
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>雷を打たれたようにショック


まぁ~まぁだいじょうぶ?
「私以外の全ては無根拠」であることに、お悩みなのですか。
「私以外」どころか当の「私」自身だって無根拠かもしれません。
で?Et alors?(笑)

そうですねぇ、根拠があることがいいことばかりではないかもですよ。
たとえば…貴方の親御さんに「どうしてボクを産んだの?」と聞いたところ
「産むつもりなんかサラサラなかったんだけど、できちゃったから仕方なく、それだけ!」
とか或いは
「歳とって弱ったらメイッパイめんどうみてくれる人が必要だからねぇ。お前を頼りにしてるんだよ。ぜったい親を見捨てるんじゃないよ。そのために産んで、いっしょうけんめい育てたんだからね!」
とか
「実はね、いずれは秘かに殺してガッポリ保険金を狙うために産んだんだよぉ。。。」とか言われちゃったら。
産んだ根拠は根拠でも嬉しくないでしょう?

私はデカルトなんて難しそうなの読んだことないですから
>・僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など を参考にしたのですが)
>・それともデカルト思想がおかしいのですか?

については何とも申し上げられませんけど
>・人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生 きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

なかには、そんな人もいるかもしれませんが、殆どの人は、そんな悲壮なことはないんじゃないでしょうか。貴方御自身は現に「十字架を背負って生きている」「覚悟の人」ですか?

確かに論理の出発点である前提には実のところ何ら「根拠」と呼ぶに足るものはないのかもしれません。それでも、諸学問とりわけ科学の方面は、前提としての仮説を据えることで出発し発展させてきました。たとえフレイザーいわく
「真理とは結局、最もよく機能することが分かった仮説に過ぎない」
のだとしても、こんにちに至るまで我々が享受してきた利益もまた大きいはずです。
科学って、すごく緻密なようでいて、けっこうテ・キ・トーかもしれませんよ(笑)
No.1さまやNo.2さまの仰ることも頷けます。

宗教的なあとづけというのも、たいへん伝統的なものですが、それだけ人というものは営々と根拠を求め続けてやまなかったのですね。イジラシイくらいですね。どうしてなんでしょうね~(笑)
宗教でも科学でも結局、出発点は同じことかもしれません。そして最終点においても。

デカルトは「Cogito, ergo sum.」という、あまりにも有名なコトバを残していますが、実は
「その言葉の中には“思うものは存在する”ということの証明が抜けているので、論理的に真であるとは認められないのでは~?」(つんつんつんつく☆)
と突っつかれて
「こっこれは!霊的直感によって生まれた真理なのであり!霊的直感に哲学的証明はいらない」と答えてすましていた
らしいのです。(爆)

以下、御参考。
『デカルトの例の一句についてホントのところ、どうなんでしょう?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1805568

あと数学カテゴリーでの常時人気質問です。
『1+1=2の証明って?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa217225.html
                    
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 認識の主体について こういう議論が出来るかと思います。



 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。
 ▲ ______________________
  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
(パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
__________________________
 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしています。
 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。
 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  * 念のために この点についてのデカルトの文章です。
   ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
    (方法序説 4)
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。

 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・
 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが
 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
  (方法序説 2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。
  ▲ ________________________________________________
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
____________________________________________________
 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしていますが 大目に見ておきましょう。
 《わたし》は どこへも行きません。いま ここに あります。
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その、デカルトと言う人、1+1がなんだかも分からない


ボンクラらしいので、教えてあげましょ。1+1は2ですよ。

1というのは単位です
例えば2+2=4のように
2は1が二つ集まっててそれが二つと二つを足すから4なんだよ
というように1は単位です
a+a=2aのように同じ単位なら計算ができます
しかし
みかんが一つ、みかんの皮をむいてでてきた実が3つだとすると
この足し算はできません
この場合
(1)a+3bとなるので
同じ単位どうしで足し算をするということは絶対条件であり
1+1は互いに同じ単位ということで問題は出されているので
1+1=2になります
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デカルト曰く「私以外の全ては無根拠」が正しいとすれば、


他人からみればデカルトの存在も無根拠。
そんな人のいうことを素直に信じるほうがおかしいのでは。
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