全知全能の神はいるのか??(2)
どうも。
「全知全能の神はいるのか?」という質問があります。
これは宗教的な意味では無く、「全知全能の神は存在しえるのか?」という意味です。逆に言うと全知全能の神が存在し得ないなら宗教的な「全知全能の神」はいないということの証明にもなりますけども・・・。
ここでよくある話で自分の持ち上げられない山をつくったら全知ではないという話です。
ここらへんを中心に・・・さぁ存在できるのでしょうか?
回答(10件)
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宗教的な意味も含めるのならば、この設問は成り立ちません。
全知全能とは論理・法則すら支配するという意味です。この設問自体が「全知全能」には論理を変更することを含まないことを前提としています。
つまり「自分の持ち上げられない山も持ち上げられる、なぜなら全知全能だから」ということです。Aが同時にAでないことを可能にする、論理を超越した存在に対する論理は存在しません。「論理を超越した存在が論理を超越している」ことを証明したところで、「宗教的な『全知全能の神』はいないということの証明」にはなりませんし、この挑発的な文句も無意味です。
もともとパラドックスや、証明不能の証明が、「人間の知性の限界」「人間の知性の欠陥」と呼ばれています。「全知全能」が存在しないことを証明したとしても、それは証明者の知性の限界なのです。
「理性は理性の及ぶ範囲にしろ」「語ることのできないものは語るな」ということです。
この回答へのお礼
どうもありがとうございます。
宗教的な「全知全能」は論理・法則すら支配するという意味なのですか。
No.6の方が挙げてらっしゃる過去の質問では、
面白い問答があったのですね。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=47197
さて、ここで、ちょっとお話を思いつきました。
思いつきなので、どうなんでしょう、というところですが。
「死ぬ日に死なないようにできたら、死ぬ日を知っていたことにならない?
ということについて」:
あるとき、ある人がいました。
その人は全知全能と言われました。
ただし、その人自身は、自分の能力をこのように説明していました。
「自分は、ただ、自分以外に全知全能である人を知っており、
その人に頼んで、何でも知ったり、行ったりすることができるだけだ」
その人は、ある日、自分が死ぬ日を知りました。
しかし、その日に死にたくなかったので、「全知全能の人」に
死なないようにしてもらいました、とさ。
さて、この場合、
- その人は、死ぬ日を知っていた(その日は確かに死ぬ日だった)
- その人は、死ぬ日に死なないようにできた
の両方をクリアできていると言っていいでしょう。
山も同じ。
持ち上げられない山は存在してもいい。自分でつくれても、もちろんいい。
持ち上げたいときは、「全知全能の人」に頼んで、
持ち上げられるようにしてもらうだけです。
では、その「全知全能の人」自身は存在し得るのでしょうか?
「全知全能の人」は、このお話の「ある人」が、全知全能であるために
存在している、というわけです。
この回答へのお礼
どうもありがとうございます。
思いつきでもとてもありがたいです^^)
確かに二つともクリアできますよね。
ですが全知全能の人はどうなんでしょうね?
こんばんは。
このごろは寒いですね。早く暖房入れないと下宿生にはつらいです。
さて、「全知全能の神は存在しうるのか」についてですが、私は存在できると思います。もし、全知全能であることに矛盾することを実行した場合、その次の瞬間から全知全能でなくなるだけです。
たとえば、自分の持ち上げらない山を作るには、自分が山を持ち上げられない存在になればよいのです(つまり、全知全能ではなくなる)。
「神が全知全能のままで、自分の持ち上げられない山を作る」ことはできないのではないかとも思いますが、これは、成立しえない課題なので、この課題そのものが「無効」です。
また、6の方がふれられている過去の質問(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=47197)のなかの、「全知全能の神は自分の死ぬ時を知っているが、全能であるからその時に死なないようにできる。これは自分が死ぬ時を知っていることにならない」について考えてみますと、まず、「将来、神が死ぬ」未来は、神は全能である故、「もし神が、自分が死なないように、しなければ」という前提でおこります。ですから、「自分が死ぬ」という未来を神が知っているということは、「神が自分を死なないようにした」場合の未来を知っていることとは別なのです。
・・・とかんがえたけれども、どこかに穴があるんだろうなぁ。
この回答へのお礼
こんばんは。
どうもありがとうございます。
全知全能はその条件では存在できますよね。
質問の答えにはなっていないかもしれませんが、
『全知全能の神』がこの世を創った創造主だとすると、
不完全な存在である人間を作ったりしないと思います。
人間が、自然を、地球を、将来的に宇宙を荒らすことになる(人間は試行錯誤して進化しますから、
その過程で万物を荒らすことは避けられません)と、
最初から分かっていたのであれば、それも『神の計画』に
組み込まれていたことになりますから、『神は我々を見守って』いないと言う事になります。
いずれにしても、宗教的な神は、全知全能ではないと言うことになります。
(全知全能であれば、信者を試したり、怒って天変地異を
起こしたりもしませんよね)
この回答へのお礼
どうもありがとうございます。
全知全能であれば不完全な存在を作らないって感じはしますよね。
神様がもしいるのならまったくひどい人ですね^_^)
No.6ベストアンサー10pt
「自分の持ち上げられない山」については、例えば、過去の質問(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=47197)の回答(No.9など)でも指摘されています。
これに対して、その質問におけるNo.11の方の回答は、「神は矛盾をも超越する」というもので、この質問のNo.3の方の回答と同趣旨のものでしょう。
一応の回答にはなるでしょう。ただ、「神は矛盾をも超越する」という命題自身は「人間の論理学」におけるものです。「人間の論理学」によって「神の論理学」の存在の可能性を指摘することは有意味なのか、という疑念が否定できないように思えます。
13世紀の神学者トマス・アクィナスは『神学大全』の中で、この問題に対し、「神が『自分の持ち上げられない山』を『作れない』のではなく、『自分の持ち上げられない山』は『存在し得ない』のである」と回答しています。すなわち、当時の神学者にとって、「論理学=理性」は、それ自体「神の秩序」でしたから、論理的に矛盾する命題はそれ自体『存在し得ない』はずなのです。これは、「人間の論理学」と「神の論理学」を区別しない態度であり、これも一応の回答とは言えるでしょう。
ところで、前掲の質問における最終的な回答は、No.21の方の回答にある「全知ならば全能ではない」というものでした。つまり、将来の出来事を予言しつつ(全知)、その将来の運命を変えることができるとしたら(全能)、全知でなくなってしまう、ということです。
しかし、これも結局、「全知」も「全能」の一種と考えれば、「自分の持ち上げられない山」の問題と同じことといえるでしょう。
なお、この点に関するアクィナスの回答は、「神は未来に『起こること』を知っているのではなく、未来に『起きていること』を知っている」というものです。つまり、神は時間をも超越しますから、「1時間後に雨が降る」ということを、「今、雨が降っている」ということと同じレベルで知っている、ということです。「予言」ではなくて「認識」なのです。したがって、予言による運命を変更するなどということは観念として「存在し得ない」のです。
また、前掲の質問のPart.2(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=48810)では、「神が時間的な因果律をも超越するのなら、全知全能もありえる」と結論されています。つまり、将来の出来事を予言しつつ、その将来の運命を変えても、さらに過去に自分のした予言を時間を遡って変更すればよいということです。
しかし、時間的な因果律と論理的な因果律を厳格に区別しない通常の論理学の下では、時間的な因果律を否定することは、矛盾(論理的な因果律の否定)を認めることと大差なく、これもまた「自分の持ち上げられない山」の問題と同じことのように思えます。
そして、アクィナスのこの点に関する回答は、「過去の出来事を変更できるということは、神の全能性に反する」ということです。すでに指摘したように、神は時間をも超越しますから、過去の出来事と現在の出来事に区別はなく、したがって時間的な因果律と論理的な因果律にも区別はない以上、時間的な因果律を否定することは論理的に矛盾しているということになるのでしょう。
私としては、この質問のNo.4の方の「できないことが出てこない間は、全能」という見解を推したいと思います。
アクィナスは、これを「神の全能性は、可能態ではなく現実態である」と表現します。つまり、神の全能性は「何でもできる(可能)」というものではなく、「(過去・現在・未来にわたって、現に)何でもできている(現実)」というものなのです。神の全能性に反する事実は、神が全能である以上、事実として存在しないし、将来にわたっても存在することはありえないのです。
まあ、要するに、我々の考えそうなことは、既に1000年前の人が考えてしまっているんですね。
アクィナスの議論に弱点があるとしたら、アリストテレス以来の「論理」を絶対のものとしている点でしょう。しかし、「論理」を放棄して議論しようとすると、それは「信仰」になってしまいます。したがって、彼を超えるには、アリストテレス以来の論理学とは別の「論理学」を構築しなければならないのですが、これがなかなか難しいのです。
この回答へのお礼
どうもありがとうございます。
実はわたしも「それ」を見てこの質問を思いついたのですね(笑)
昔の人は偉大ですね・・・。
おはようございます。
この質問のポイントは、
「全知全能の神は存在し得るのか」と「神は存在し得るのか」という
質問を区別しなければならないということではないかと思います。
もしこの質問を宗教的な意味にとらえないならば、
前者の形では少しまずいと思います。
前者は「全知全能」という時点で既にキリスト教の影響下にあるからです。
つまり、前者の問いは宗教的な意味あい抜きには問い得ない問いなのです。
神を、一般名詞としてとらえるならば、必然的に後者の質問になるのではないでしょうか。
この回答へのお礼
どうもありがとうございます。
ポイントは「そこ」ですよね^^)
できれば「そこ」を踏まえた上で書き込んでいただきたいですね^_^)
私の質問の意味は後者の質問ですよね。
> 自分の持ち上げられない山をつくったら全知ではない
だからといって、全知全能がありえない、ということには
ならないと思いますよ。
たとえば、そういう山をつくることができても、
実際につくらない間は、全能なわけでしょう?
ひとり神のみが、そういう山をつくることができる。
でも、つくらない。
なら、やっぱり全能です。
知らないことが出てこない間は、全知です。
できないことが出てこない間は、全能です。
あれ? 何かまちがっているかなぁ?
この回答へのお礼
どうもありがとうございます。
そうですよね。
つくらない間は全能ですものね。
全知全能という定義が問題です。
なにをもって全知全能である状態だとするのか。
人間が全知全能でない以上、神が全知全能状態にあるか否かを
確認することは究極的には不可能なのでは?
物理上も理論上も。
とすると一見矛盾がある状態も、人間の認識できないレベルでは、
もしかしたら矛盾なく解決されているのかもしれません。
全知全能というのはそういったレベルの話だと思います。
だとすると「全知全能」に対して我々人間ができるアプローチは
禅問答のネタにするぐらいということになりそうです。
この回答へのお礼
どうもありがとうございます。
禅問答のネタにはなりそうですよね・・・。
自分自身を含む定義は作れないというのがあった気がします。
つまり「誰も持ち上げられない山」の「誰も」の中に全知全能の神を含むと成り立たないのですが、でも「全知全能の神」なんですから、この問いに「ただし全知全能の神は含めない」というのを加えればよいのです。「全知全能の神」なんだから問題を変えることも可能です。
でも、そうすると全知全能も最初の問題はできなかったことになりますが、でも、それだと問題を変更できないということで全知全能という前提条件に反するし、ウワー!
だから、「問題を変更すること以外については全知全能」と問題自身を含まないようにしないとね。
この回答へのお礼
どうもありがとうございます。
自分自身を含む定義は作れないというのがあるんですか・・・これに関してもそれはいえそうですね^^)
宗教的な意味の無い神というものはありえるのですか?
この回答への補足
どうも。
神は「KAMI」という名詞としてとらえていただければ結構です。
つまり全知全能の「存在」はありえるのか?ということですね^^)
みなさんの意見を広くお聞きしたいです。
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