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特に経験者の方々へ聞きたいのですが、戦争の時代に生きるとはどのような事だったのでしょうか?

それと「アンネの日記」についでどのようなことを思いますか?

A 回答 (5件)

戦争の前半は普通の生活でした。


後半戦局が不利になり物資が窮乏し、本土がB-29の爆撃を受けるようになると大変でした。
私の居た東京では食糧不足が深刻で、狭い庭の草木を抜き薩摩芋、かぼちゃを植え足しにしました。

爆弾の落下音が聞こえると、住宅地にはあまり落ちないとは聞いていましたが、その怖さは経験者しかわからないでしょう。
味方の高射砲弾が高空で破裂し、その破片もたまに降ってきました。
一日一日が長く今日も生きられたかという感じでした。
それでも日日の新聞を食い入るように読み、かすかな希望を抱いていました。

戦争が終わって月日の経つことの早いこと、あっという間に63年たちました。    大きな災難に遇わなかった幸です。
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私の父親は、というかウチは江戸っ子で、戦時中も東京市・東京都にずっといて、ドウーリットル空襲から3回の東京大空襲まで東京はなれなかった人でありますが、当時ティーンだった父の話を聞くと、もう最後のほうはみんな感覚がマヒしていて、「焼けた?」「焼けたよ」なんて会話はあたりまえ。

空襲後に残った電信柱がいい燃料になったので、みながナタもって取って行ったそうです。食料は炊き出し、缶詰配給などがあり、飢えた経験はないそうです。また、祖父が軍需工場(通信機器)やっていたので、ビールの配給券があり、ときどきビールを取りにいき持って歩いていると、憲兵が「もしもし」と声かけてくる(決して荒っぽくなかったそうです)、そこで、軍需工場配給許可の伝票をみせると「お疲れさまです」と敬礼してくれる、なんて感じだったそうです。全部が狂っていたから、みんなで乗り切ろう気分だった、というのが生き残ったあとの感想だったそうです。学校に来ていた配属将校もごく普通の人で、ドラマとかにでてくる粗暴な人などではなかったし、軍事教練はみなまじめにやったよ、とのことでした。

アンネの日記は、研究版というのがあって、十代の女の子が性について考える文章とかがあるそうです。
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こんばんは。

これは、祖父母や語り継ぐ会のひとからきいたはなしです。戦争じとても苦しくて、なんでも食べれるものは食べなさいといわれれてたべていたそうです。食料から日用品までも配給制になってしまいたいへんだったそうです。20以上の男子は、徴兵制度で、連れて行かれ、学生は、軍事工場や、救護にあたらせたりしていました。また、関係ないかも知れませんが、アメリカが、原爆を落としたから戦争が、終わったとアメリカではおしえているそうです。ともかく戦争時代は、とてもつらいとことです。後、{アンネの日記}も戦争中ですが、あれもとてもかわいそうです。今生きてる人は、とにかく話を聞いて、伝えていき、世界平和をいのるべきです。
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これは両親から聞いた話しです。



 父の体験談では戦争中は食い物にも困らず、生活必需品は国家が何とかしてくれたとのことです。疎開は天国そのもので、全員にご飯、汁物、一肉、一菜が3食保障されていた。貧乏子沢山の実家ではご飯は戦争さながらで、ちょっとでも遅れれば食事は無かったそうです。それが戦時中の統制経済で国家が食料を配給制にしてくれたため割り当てが決まり困らなくなったとのこと。
 母の体験談ではとうもろこしは不味かったが食えた。終戦直前に配給されたフスマと蓬を練って作ったナゾのパンは食えなかったとのことです。戦時中にスイトンなんて存在せず、戦後に米軍が小麦を放出した後に普及したとのことです。
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それは悲惨だったでしょう。

センチは生き地獄です。
「アンネの日記」はとてもエロチックなところがある
のですが、それは削除されています。あれがすべてでは
ないのです。
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