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存在の定義とはなんですか?

りんごが1個ある。あるから存在する。見えるから存在する。
「あ」という単語があります。意識の中では存在します。
「あちゃちぇ」という物体は存在しません。しかし意識の中で言葉という存在としてあります。

そんざい 0 【存在】
(名)スル
(1)人や事物があること、いること。また、その人や事物。
「少数だが反対者も―する」「人類の―をおびやかすもの」「神の―を信ずる」「貴重な―」「気になる―」
(2)〔哲〕〔英 being; (ドイツ) Sein〕何かがあること、またあるもの。有。
(ア)実体・基体・本質・本性など、他のものに依存することなくそれ自体としてあり、非本来的・偶有的でなく、絶対的・必然的にあるもの。
(イ)現に事実として今ここにある事や物および人間の実存。現実存在。
(ウ)感覚や経験に現れるもの。現象。
(エ)判断において、主語と述語を結びつける繋辞(けいじ)。「 S は P である」の「ある」。
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いまいちパッとしません。存在の定義とはなんでしょう?簡単にいっていただけると嬉しいです。

A 回答 (14件中1~10件)

 


 存在の定義は、どこにも存在しない。
 
── 天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之(修行本起経)
 釈迦         -5630408 India  -4830215 80 /
 
── To be, or not to be: that is the question.(Hamlet III.I line 56)
 Shakespeare, William 15640426 England 16160503 52 /
 
── Je pense, donc je suis. (Discours de la me'thode pour
bien conduire sa raison, et chercher la ve'rite' dans les sciences)
 Descartes, Rene'   15960331 France 16500211 53 /
 
── L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature;
mais c'est un roseau pensant.(Pense'es)
 Pascal, Blaise    16230619 France 16620819 39 /
 
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その辞書どおりなんではないでしょうか?


そうやって定義したんだから、それだと言う事でしょう。
まああなたからして見たら「存在は存在するんでしょうか?」という質問ですよね?
まあそれを証明するのは一生無理でしょう。ただ世間一般的な証明の定義の枠の中で証明することは可能だと思います。ただ証明を何処までにするかによっては証明できたという感じにならなかったり、なったりします。まあ証明自体存在的な現象の枠の中で済ましてしまっているんでそれを超えた場合それを超えた土台に我々が行かなければいけないんですが、それ自体存在なので永久に証明は無理かと思います。
ただ仮定としては僕は証明できます。
なぜなら存在していないと定義出来るので存在は存在していなければならないよって存在は存在していると仮定できる。証明おわりwww

この回答への補足

中身はトマトジュースが入っているが缶の周りの絵柄はコーラの絵柄。
意識的にはそれはコーラという存在と認識するが。物体的にはコーラではなくトマトジュースである。

補足日時:2008/09/01 19:31
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『存在』は、やはり、人間が物を確認して初めて存在するといえるかも知れませんね。


林檎が1つ在っても、人によって違う林檎なのです。

そう、目から入った光が角膜を刺激してバーチャル世界に林檎を投影します。
そう、脳の視覚やで林檎の像として3D?で林檎の存在を確認します。

手で掴めば手の触覚が・・・。
しかし、人それぞれに林檎を認識して共通の林檎は在りえません。
しかし、同じ1つの林檎なのですね。

で、10番惑星が発見されたら?、
先ずは写真等で皆に知れ渡る事になる。
しかし、地球から離れているのでしょうから、誰も手で触れませんね。
それでも、存在する事になるのですね。

林檎が落ちるのを視て、引力(重力)を発見したのですよね?。
でも、林檎は引力(重力)で落ちるのは昔から誰もが知っていた事で、
ある人がそれを特別な事にしたから引力(重力)を確認できたのですよね。

『人間原理?』が『存在』に一役かっているのでしょう。

まっ、人間は0.1秒ほど過去の世界を認識する事しか出来ないとかなので、
という事で、現実の世界は0.1秒程先を行っているらしいですからね。
現実に存在しても、人間の脳で認識されるのは時間のズレが在るという事。
『存在』とはいい加減なモノなのかもね。

写真機のシャッターを開放にして長時間の定点撮影をすると?、
動くモノは全て写真に写らないとか、で、静止しているモノだけが写真に残る。
そう、動くモノの存在が消えるという事も有りそうですね。
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存在とは、字義通りに「在ること」「在るもの」と簡潔に定義できます。


それ以上でも、それ以下でもありません。

ただ、そうなると、実にその適用範囲は広いでしょうね。
思考や感情などの意識も、確かに現象として「在る」訳です。
ですから、意識という大脳の現象も存在という概念に含まれます。

し、しかし、哲学界ってのは、古代ギリシャ時代から実にややこしいところ。
「存在=在ること、あるいは、在るもの」という定義では納得しない向きもあります。
で、「存在が第一義的で意識が第二次的なのか?」などの論争も度々。
こういう場合には、存在という概念を、もう少し、厳密に定義しなければなりません。
「存在とは意識から独立した客観的な存在である」と。

>個々の存在はイデアの影でありイデアこそが真の実在である。

これが、ソクラテスの弟子であったプラトンのイデア論ですよね。
もう、こうなるとソクラちゃんは、「存在=在ること、あるいは、在るもの」では納得しません。
で、「存在が先か、意識が先か?」という鶏と卵の論争に。

まあ、存在の定義も、「存在=在ること、あるいは、在るもの」で済まされる場合も。
まあ、存在の定義も、プラトンのイデア論の亜流を意識すればもっと厳密に。
そういうことだと思います。
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× もう、こうなるとソクラちゃんは、「存在=在ること、あるいは、在るもの」では納得しません。


○ もう、こうなるとプラトンちゃんは、「存在=在ること、あるいは、在るもの」では納得しません。
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触れるか、触れないか。

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この回答へのお礼

意味が理解できませんでした。604エラー

お礼日時:2008/09/02 18:22

最初に回答を述べます。

「存在の定義」はありません。
国語辞典を引くと、「有ること」等と書かれていますね。でもこれは「定義」ではありません。「定義」とは概念等を明確に述べたものですので、
日常用語としての「存在」と云う言葉にはあまりに多くの漠然さがあります。ただ、知覚に拠らず「存在する」ことは認められますね。空気や冷蔵庫の中のケーキ等は、見えも聞こえもしませんが、有るのなら有る訳ですから。
では「神の存在」となるとどうでしょうか。いささか宗教的な分野に入ってしまい、どの人にも明確な「定義」は見つけられませんね。
定義から出発する数学では、「或る集合の中に存在しうるか否か」を問い、「存在すること」よりも「存在の可能性」を考察します。ですので、「矛盾が無ければ可、で良いんじゃないの」と云った感覚です。但し、とても厳密に考察しますが。
では「哲学」は、と云うと、「存在」と云うことそのものが問題となっています。つまり、「存在とは如何なることか」を研究しています。所謂「存在論」です。
ところで言語は一筋縄ではいきませんね。「There is nothing.」を「There is ~.」は「~が有ります。」と暗記している人は、「何も無いが有ります。」と考えてしまいますかr。
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補足: イデア論の亜流にかんして。



「存在が先か、意識が先か?」の論争から「そもそも存在とは?」へ。
で、議論は、No6さんの「触れるか、触れないか」という具体的・実証的な見方を否定。
具体的で実証的な見方を否定すれば、もはや、そこに広がるのは言葉遊びの世界。
こうして、ヨーロッパの中世には「神=最高の存在」という学説まで登場。
で、現在では19世紀の宗教思想家キルケゴールに端を発する実存主義がそれを継承。
こうしてプラトンちゃんの考えは、姿を変えて脈々と受け継がれている訳ですよ。
だが、No6さんの「触れるか、触れないか」を覆すもんではありません。
「人間が観察し観測できるもの全般が存在である」という考えの前にはいかなる思弁も無駄。
まあ、こういう問題は、素直に常識的に考えたがいいですよ。
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指摘がすでにあるようにその辞書にある定義がより厳密と思います。



>中身はトマトジュースが入っているが缶の周りの絵柄はコーラの絵柄。
>意識的にはそれはコーラという存在と認識するが。物体的にはコーラではなくトマトジュースである。

これは(ウ)感覚や経験に現れるもの。現象。のカテゴリーでありより限定的な存在の事例になるでしょう。すなわち、慣用的なすべての存在の定義を包含できない。外側の缶でだまされている状態。こういう引っ掛け的な問題にもし注意を払う人なら、これは金属と金属のなかに閉じ込められた、なにか液体のようなものである。そして金属表面にはコーラと書いてある存在である。とかいうかもしれません(笑い)。
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 自同律(自己の同一性)だと考えます。

自己還帰あるいは 自己への到来とも言います。
 人間として わたしがわたしであること です。
 そのほかの生物あるいはものごとについては 残念ながら 二次的・三次的な存在だと認識します。

 別の質問に 次のような回答を寄せたら 無視されてしまいました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 存在と存在理由とは どちらが 大切ですか。
 生きる理由が分かったから 生きるのですか。
 生きるから 考えるのではないのですか。

 存在と理性と どちらが 大切ですか。
 理性の要求を満たしてからでないと 存在を受け留められませんか。
 考えるから 存在するのではなく その逆ではありませんか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《わたしが わたしすること》と言いかえたほうが いいかも知れません。
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