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自分を責めることは、自分をほめることなのでしょうか。

ある本にそう書いてあったのですが、納得がいかずにいます。

なぜ責める行為がほめるにつながるのでしょうか。考えても考えてもよくわかりません。。。

どなたかお暇なときに、くわしく説明していただけるとうれしいです。

A 回答 (8件)

唯感じたまま書いてみます、参考にならないかも知れませんが。


人間の心は大きく分けた場合に二つ在るかと思います、それは「一つは肯定」です、もう一つは「否定」です。

元気のいい人は人生に対して「肯定的」に傾いている人と云えます、精神疾患、になっている人は「否定的に」傾いているのかと思います。それは人間の中に在る心が二つあって「肯定」も「否定も」共に自分自身と云えるのではないか?と云う気がします。

誰でも自分が自分自身の心の中で言い争っている自分自身が居る事が分かる時が在ると思います。moo8973さんが書いておられる事は、自分がどちらに傾いているかと云う事で、同じ物事でも、「自分を責める」=「自分をほめる」と云えるのかと思います。

人生の見方でも、又同じ事を経験しても、人によって見方が違います。一人の人の心の中でも、絶えず二人で言い争っています。「否定」が勝った場合が「精神疾患」の始まりと云えます。

否定と肯定が出会う事が「悟り」と云えるかと思います。肯定でも無く否定でもなくなる事です。「あるがままに生きてゆく事です」肯定も否定も全て肯定する事です。その中に「精神疾患」の完治と云うものが在るかと思います。
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すみません。

 
言葉どおりのままですと、二つの言葉の意味は反対なままで、考えようがありませんでした。

何かに記憶違いでは?とかとかしか言えそうにないので、 半分冗談ですけど、
この二つの言葉の それなりに意味がありそうなつながりを書いてみますね(^^)。

昔「死ぬときに、これでよかったのだと言える生き方をした人が天国に入るのだ」というお話を聞いたことがあります。

死ぬ時じゃなくても、「うん、これでいいのか」といえるような生き方ができたら幸せですね。

でも、それはなかなか見つかりません。 これでもか これでもかと、進んでも成功してもなお、自戒し、反省し、 つまり自分自身を責めづづけ、一生懸命いきつづけて、 さて、死ぬ時には、そこまで行けば、多少肉体的には苦しくても気持ちはやっぱり最後には「これが自分のせいいっぱいだった」と安らかな気持ちになると思います。

また、たとえば歌がうまくなったとします。そこで自分をほめてしまうのは、そこで成長がとまってしまうことを意味しますから、 さらにほんとうに歌を真剣に追求したい人は、どこまでいっても自分をほめません。

でも、死の手前ではなくても 歌って歌って とうとうこれ以上自分には出せないからこれが自分の歌だと解ったときには 人と比較してはまだ下手でも 「そうか これが自分の歌だ」と、心は安らかになるでしょう。

そのように 他人ではなく自分を責めて責めてすべて他人のせいにしないであるってこそ、ほめようとしなくたって それが「自分をほめる」生き方になってる。  ほんとうに「自分をほめる」ことが出来る地点は、自分をその意味で責めきったときだ。

あるいは そのような徹底した生き方こそ真に「自分をほめる」生き方だ。

といったような意味合いならば、この二つの言葉はつながってくるかと思います。

でも、もし、そういうストイックな生き方を示しているのであるとすると、私自身は、全面的には肯定できない気がします。

あまりいっしょうけんめいすぎると、見えないこととか、気がつかないこととかあったりもしますし、 ゆったりと構えることでかえって落ちついて進歩できたりもします。

ですので、 もし無理やり考えると、こんな推理もありそうだという感じで(^^)、
解らなくても ここは自分を責めないで(^^)、ですのでほめることもできないかもしれないですが、   

笑って気長に、その本をもう一度 ゆっくり探してみま笑。
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その本の作者がどのような意図でそう書いたかは作者以外に判りません。

なので勝手な解釈で書きます。
「責める」という言葉には相手を追い詰めるとか責任を問うという意味の他に、一心に突き進む、積極的に働きかける、(馬を)御す。という意味があります。
また、相手の向上を目的とするためには、その欠点を明確に指摘するだけでなく、欠点を是正する方法を教えることが大切です。「その部分を是正すればお前は素晴らしくなる」「その欠点さえ無ければお前は素晴らしいはずだ」とこれは99%褒めて1%の欠点を指摘していますから、相対的に褒めている事になります。

もう一つの解釈として、自分の目的のために自分を揺り動かそうとするならば、つまり責めるならば、自分を褒めなければならない。

…と、この程度にしか考え付きません。
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その本って題名はなんですか?



もしかして 洋物じゃないでしょうか。
それだとしたら、翻訳ミスの可能性が・・・。
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誰も何も言ってくれなくなったら、お終いだ、って、よく言われるでしょ。


完全に見放さざるをえないようなバカタレは、周囲はおろか本人自身だって責めやしません。
責めても無駄だからね。
責めるということは、即ち、それに耐えられるはずということ。
つまり見込みがあるということ。
       
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自分を責める=自分の悪い所が分かっている=自分のいいところも分かる=自分の悪い所を潜在的に褒めることができる



ってのはどうですか?ちなみに僕は「責める=褒める」とは思いませんが
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あなたがあなたの行いを責めるのは決して悪いことではありません。


それは、神があなたに与えたチャンスなのです。
あなたは自分を責めることによって自分の行いの愚かさを知るでしょう。
そうしてあなたは神の偉大さを知り、その祝福を得るでしょう。
そして、あなたにとって最高にあなたを褒めるは神の祝福を得ることなのです。
つまり、自分を責めるも自分を褒めるに通じるのです。

まあ、「自分を責める」と「自分をほめる」とは二律背反、
普通は、「自分を責めるよりも褒めよ!」というのが一般的。
この二律背反と一般性を覆すには、神の力でも借りるしかないでしょうね。
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その本もう一度読み返せばいいのでは?というのが本音ではありますが。



一応推測すると…

自分を責める手法には、自分を適確に分析評価し、問題点を列挙する事もあります。
すると、全ての点で褒めるべき事がまるで無いって事は稀で、部分的には評価できる(=褒める)事も多いでしょう。

またその問題列挙されたことを解決したならば、その成果は褒めるべき事です。(というかそういう結果を導かない「責め」は単なる「嗜虐」でしかないとも言える)
そして次は成果を上げ褒められるでしょう。

と言っていたのなら一応筋は通るかなと思います。
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