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もっと実用的な哲学はないものでしょうか?

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  • 質問者:cat_v
  • 投稿日時:2008/09/09 20:08
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ニーチェ、キルケゴール、フーコなどなどの著作を読んでる(乱読)のですが、けっして下らないとは言いませんが(むしろ「古典」や「基礎」としては大変価値がある)、正直、現代とはかけ離れていて何処か「机上の論理」めいたものを感じます。
回りくどいうえに、大して重要ではない事を難解な言葉で長々と綴っている…そんな印象を受けます。
確かにまだ既定の概念がなく、あるいはそこからさらに未来の先端を切り開いたという意味では、「当時」としては画期的であり革命的だったかもしれません。
また、哲学は「学問」であり、「教訓ではない」というのも分かります。

ただ、ここ最近読んだ書物の中で一番為になったのは、カーネギーの経営関係にまつわる経済本でした(経済といえど「人間」が主体であり、欲望が習性が如実に表れる分野で、ある意味哲学“彼らは失敗すれば文字通り「死」が待っているので”の領域かなと感じました)
あとは孔子の教えが現在参考になっています(ただ、儒教は何処かもう古い気がします…)
最近は知人からサルトルの実存主義の方をすすめられています(ニーチェやキルケゴールでは古典といえやや古いとの事…)。

そういえば、最近(でもないかもしれませんが)フランスか何処かの国で、著名な先生が「意味のない理論」を‘画期的な理論’として発表したら絶賛されて、ネタばらしした事件があったような…。
もっと実践的(最先端?)な哲学を探しているのですが、お勧めはありますでしょうか?

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このQ&Aは役に立ちましたか?(役に立った:3件)
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  • 回答者:typapart
  • 回答日時:2009/04/08 12:50

個人的には英米の分析哲学(特に日常言語学派や論理実証主義)を勧めます。
分析哲学の多くは論理学を踏まえたものですので(その分論理学の初歩くらいはたしなむ必要がありますがまあ論理学の入門書はけっこうあるのでそう苦労はないでしょうが)、(個人的に馬鹿にしている)サルトルだのポストモダンだのといった大陸系の哲学よりはるかに論理的にきちんとしており、また分析哲学では言語や論理を扱うことが多いので丁寧できちんとした思考を鍛える効果が期待できます(これが質問者さんの考える「実践的かどうかは分かりませんが)。

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  • 回答者:arayata333
  • 回答日時:2008/09/27 14:18

すみません、先程 cat-vさんの補足文とお礼文に気がつきました。

回答の仕方が雑然として広すぎてしまっては、 その広さが豊かさにそのまま変わるわけではないですから、 そのまま雑然としたままとなってしまうのはあたりまえです。  あくまで私の書き方が 混乱を生んでしまったところと分析し反省しています。

>よろしければ、締め切る前にarayata333さんの以前の回答に返答しておきますので、あとで読んで頂けると助かります(^_^;)<

上記のごときの乱文にもかかわらずの 返答はしたい旨について ここで知った以上、それを読まないですごす私ではありませんので、 そのへんはもう大丈夫です。

書きたくなったことを自由に書いてください。

* 

今回のコメントについてですが、レーニン自身は私服を肥やすために、国際協力の道を開いたのではないだろうと思います。 しかし、そのルートを使って 資本家や共産主義の上層部がそんな地点の欲におぼれていたのなら、 粛清を考えても、 なんのための理想だったのか?  やりきれないですよね。   「粛清」が づっとつづいていて、しかも

いえ、こんな話はもうしたくも無い話です。

いまさら 書く資格もないかもしれませんが、 共産主義にしろ、資本主義にしろ、 教育 とくに感性教育があれば、その面がもっともっとしっかりしてれば、変わっていただろうし、変わってゆくのになという想いが 私の回答の裏に流れている叫びのようなものであったことを理解してくだされば、 うれしいなとは思います。

ほんとに、その気持ちで あせりすぎてしまいました。

なんでニーチェは 感性教育について触れなかったのだろうなんて書いても 困ってしまうだけですよね(--);。

どうかしてました(^^)。  繰り返しますが ごめんなさい。

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  • 回答者:arayata333
  • 回答日時:2008/09/21 14:11

こちらの質問が、まだ締め切られていない事に、気がつくのが遅くなりました。(会社のPCを使っていまして、 故障と重なりメール機能を使えません。)

書いた以上、すこしでもお役に立てればという気持ちはあります。

「感性教育」は現代において大変価値のあるものと思います。

それについてしっかりしたまとまった論文を見つけましたので URLをここにコピペしておきます。

URL→http://www3.omn.ne.jp/~michiko3/kouwa-endou01.html

参考になればと思いました。

いたらなさでご迷惑をおかけいたしました。

がんばってください。

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この回答への補足

ちなみに、レーニンや共産主義についての件なんですが、ちょっと気になったので先にこちらで返答しておきます。
歴史や政治については非常に複雑で、実は共産主義についても、共産主義を裏で支援していたのが、否定していたはずの資本主義という矛盾があります(正確には投資家達)。

冷静に考えてみて下さい、共産主義のはずなのになんで高級幹部や共産貴族がいるのでしょう?
そもそも、「真の平等」なんてこの世には存在しません。
あるのはよりより支配のシステムです。

結局、共産主義をやりつつもトップは私腹を肥やしていたわけです。
そして、その取引相手は資本主義。
世の中こんなものです。

この回答へのお礼

いえ、こちらこそ申し訳ありませんm(_ _)m
情報が多岐に渡っていたので、ちょっと混乱というか焦ってしまいました;
しかも、何気にかなり重要な事も申されておりましたので、ちょっと1朝1夜で答えられるものではない、と判断し私の実力では手に余っておりました;
本来ならお礼だけ申し上げて終わりにすればいいんでしょうが、私もこの通りの性格でして、問われた疑問を投げ出すのはどうしてもできず…。
よろしければ、締め切る前にarayata333さんの以前の回答に返答しておきますので、あとで読んで頂けると助かります(^_^;)

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 幾度かすでに投稿したことがありますが 次のような視点は 実用的で先端に立っていると考えます。

 人には 他人の注目を浴びてこそその力を発揮するという性格の人がいます。

 その昔 そういう性格の人とそうでない人との間に 出会い・協力・対立・確執などいろんな交通が繰り広げられました。前者の性格の人は けっきょくのところ 実力もあり 謙虚にもなり 社会に有用な人なのですが 自分が 親分でなければ どうしようもなく 生きていけないといった一面も持っています。

 やがて 一般の人びとは そういう実力者の種族をアマテラスと呼び 自分たちスサノヲとは かれらを区別するようになり 確かに かれらアマテラス族を 敬いつつ遠ざけようともするようになりました。(国譲り)。

 敬遠の結果は かれらを 二階へ・また雲の上へ挙げ たてまつることでした。社会が 一般市民の生活の場としてのスサノヲ圏と そして指導層のアマテラス圏といった二階建てになったわけです。

 (ただし おどろくなかれ アマテラスだろうが スサノヲだろうが 人は みな 万世一系として世代を継いで来ています。記憶が薄れるのは 誰もがそうであり また記録も定かでないのが 一般ですが そして その意味では 男系の一家系としてただちに明確なかたちを取ってはいないかも知れませんが 例外は ありません。しかも アマテラスとスサノヲとは 実の姉と弟です)。

 けれども悪いことに われらスサノヲは自分たちの自分たちによる共同自治を 放棄してしまいました。アマテラス族が やらせてくれ・全部まかせてくれと駄々をこねたからですが これ以後というものが いけません。

 その後 歴史は移り スサノヲ主権という民主主義を社会が標榜するようになってからも みづからの自治能力も誇りも何やかやも 失ってしまったままでいるからです。というよりも アマテラス政府と組んで 共犯者となってさえいるのかも分かりません。

 一部の現実を全体であるかの如く誇張して表現しましたが 一つのしかし頑強な傾向として こういうことが もしあれば 問題として取り上げるべきだと考えます。からだに刷り込まれているのかとさえ思われますが その意識を変えることだけなら 直ちに 出来るわけですから そうしなければいけないのではないでしょうか。

 だれも和を以って貴しと為すのでないならば 好き込んで波風を立てるわけがないはづです。和を以って貴しと為せとのたまう人に限って その権限を自分勝手に行使したいということでないでしょうか。
 この二階建て構造の家は けっきょく 頭で立ち 逆立ちしているのではないでしょうか。この現実の共同の観念 その意識を変えることは 一瞬のうちに出来るはづです。それぞれの自治体 ムラ(市町村)政府に 優秀な人間が集まるようになるといいですね。

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この回答へのお礼

思うに、日本人は縦社会…いわゆる大名制だったのだと思います。
これが幕府崩壊後は「天皇」を据えつつも、民主主義に変わっていきました。
日本人は和を保ちつつも自立するはずでした。
それが戦後、敗戦により閉ざされてしまったんだと思います。

それでも「豊か」になるのを目標とし、頑張ってきましたが、それが何と達成されてしまいました。
今の日本は目標を見失ってるんだと思います…。

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  • 回答者:abc2008
  • 回答日時:2008/09/16 17:25

乱読されているとのことで、求めるものが何か分かりませんが、もし、生命哲学についても興味があるのであれば、法華経を解説したものなどを読まれればよいかと思われます。法華経というと仏法、宗教の範疇かと言われるかも知れませんが、元々釈尊が説いた時は、その悟った真理を民衆に伝えるための一つの演繹的哲学でしたから、わりと面白いかと思われます。結局、信仰の対象となれば宗教であり、学問と見れば哲学かと思われます。

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この回答へのお礼

>乱読されているとのことで、求めるものが何か分かりませんが
極端な言い方をすれば全て…という事になるんでしょうが、根本的には「実用的」なもの、つまり「現代」で通じるものですね。
多種多様かされた現代では、昔のようなオールドタイプの哲学ではもはや通じない…と思う事が多々あるのです。
むろん、根源的には人間は同じですから昔も今も「似たようなもの」は沢山ありますが、その一方で「昔の人間」と「今の人間」は「別の存在」ともいえます。
特に最も実存主義に近いと言われた儒教や仏教でさ、最近では現代との温度差を感じます(むろん通じるものも沢山ありますが)。

法華経ですか。
てっきり宗教系かと思っていましたが、割と原典は哲学に近いんですかね。
ちょっと気になりましたので調べてみます。
御紹介ありがとう御座います。

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  • 回答者:apple-man
  • 回答日時:2008/09/15 12:50

>もっと実践的(最先端?)な哲学を探しているのですが、

 形而上学をメタフィジックスといいますが、
同じ哲学の分類に、フィジックス、つまり
物理学があるわけです。

 物理学で語られる法則に従えば、人間は
月のも行けるわけですから、最も
実践的、実用的、さらに常に進化し続ける
分野ですから、最先端と言えると思います。

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この回答へのお礼

仰る通りです。
ただ、この物理と哲学の境目がよく分からなくなってきており、ポストモダン(次の哲学)がまだ決まらないというよりは、もはや哲学そのもののが不透明になってきている…。
そもそも、哲学と科学を区別し、それぞれを専門化させ先鋭化させてきたのに…。なんとも皮肉な話です…。

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  • 回答者:arayata333
  • 回答日時:2008/09/14 09:21

ANO17.18です。
もっと、ゆったりとした歩みで回答すべきだったと思います。

もうしわけありません。 ごめんなさい。

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この回答へのお礼

いや、謝る事はないんですよ^^;
すみません、私ももっと丁寧な言い方ができればいいんですが、ちょっと私の能力では読解力が限界で…私もワーキング・プアなので、arayata333さんの回答にお礼をするとなると相当な時間と労力(精神)が必要になりますので、ちょっと今直ぐにはお礼しかねるかなと…。

個人的には、情報が多岐に渡っており、まとまりがない為、要点が把握し辛いく、もう少しまとめて頂けると助かります^^;
出来る限り、私も返答致しますので、もう少し待って頂けると助かります;

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  • 回答者:arayata333
  • 回答日時:2008/09/13 14:30

すぐ続けて書くのは迷いました。 でもワーキングプア状態の時には、まず時間のコントロールもかなり不自由です。  哲学カテにては他の方でもやはり紙数の少なさに編集の苦労をされている方はけっこういるようですが、 ともかく哲学に関しては書きたいことを「書きたいことをともかくでもまとめる」というだけでもなかなか大変だったりすると思います。

質問するほうは もちろんそれだけ長く思索したうえでの解決しない課題とかを質問するので、へたすれば質問者のほうがより深くのそこことへの学習とか思索の上でその質問をしていたりしますが、 それでも質問点は一点がほとんどでしょうから、   そのへんを読み取ることで、回答するほうはさらに苦労します。  

哲学カテの特徴ですね。 (ちなみに、哲学カテで質問者が持論を述べるのは、自覚の無い人は別として、そういう質の質問の深化が目的ですから
このカテにおける自論や持論の展開は 哲学が車でいえばいざ走る車輪のじくたる部分のようなものであることを考えて その規則にしても、歯車のゆとりを 大きな心で考えて欲しいところですね。)

つづけて書きたくなる心も あらゆる学問に通呈しているはずの、だからこそ「今」を走る見通しをナビする思索でありえる世界が哲学なのですから、 哲学界が其の役割を果たしていないと思われる時の、私たちの筆は、熱くなりすぎたり、 このように常識の枠をすこしは飛び出してもしかたないのではないでしょうか?

大きな度量にてお許しください。

書き加えたいのは、何のための実用性か、また実践性かという哲学です。

あるいはその入り口の部分です。

意思決定論は、現在、そういう図があるわけではなくても、思索と実践の循環図のような円上に考えられています。  

意思決定点を円の一番上に持ってくるとわかりやすいと思うのですが、その時のエネルギーを現すのに、仮に時計周りのエネルギーが働いていたとしすると、 円周の4分割線の半分の実践線は右側となり、 右上は初動エネルギーが必要な思い切った行動の習慣化に関わる実践段階、右下はいざ実践してみてのテストが終わったと思える段からの反省をともい改善をともなう実践の段階、    そして左側は思索線であるわけですが、左下が学習線、あるいは情報吸収線、 左上が計画段階思索線とかいったふうな感じの図に表されるとちょうどいいような 論理が意思決定論にて展開されているわけです。

そこで、では、この図にて、 ここでの論議にもありましたところの「意思決定の主体」のあたりはどこに、となると、 計画段階思索線の手前の点、つまり一番左側の円上の点を情熱エネルギー点とすると、  その情熱エネルギーを生み出す根拠となる部分である、とうことになります。

そして残念ながら、まだ成功哲学とかで言われるエンスージアム(情熱やその宣揚の世界)は、そのへん曖昧なままです。

なぜ、これだけの哲学の歴史がありながら、こんなに実践性のある成功哲学や経営哲学の中に総合的にそのへんが語られることが無かったのでしょう?

なんでバラバラなままなのでしょう? ほんとに真剣なのだろうか? これが私の疑問です。

たしかに、こう書いている私の命も尊い。 でも同じようにすべての命も尊い。 それを感じる心が 実は猿から人間になったばかりの(類人猿からといったほうが正確かもしれませんが、言いたいことはおなじなんです。)「見つめる目」自体には、すでに、今の文明人よりもはっきりあったという論理を私は持っていますけど、 その説明は置いておいて、

そこを、こんなふうに考えてみて欲しいのです。

睡眠中の夢の中に出てくる人間はただの映像、実際の「現実」の中の友ではなくて、いくらそこで応答があろうとも、それがどんなリアルであろうとも、そこにその尊い存在である生きた友は存在してるわけではない。

それを感じられる意識、同じ映像なのに、たしかに「夢」じゃないと感じられる意識、これが人間意識という意識なのだというふうにです。

この大地に生きてるすべての人間が 友であり、苦しんでいればなんとか、なんとかでも さすってもだきしめてもどうにもならなくても なんとかでも何とかしたい気持ちとなる友意識、 これが実は 一番最初から人間にあった一番大事な意識だったし、 だから反省もでき言葉も獲得したのに、 複雑になってしまってかえって肝心のもともとの「見つめる」力生物でもある自分たちを見つめる力を失ってもいった、 

さて哲学すら その流れにおぼれたのなら、今こそ泳ぎを覚えなおせばいいだけなのでは、というのが私の哲学なのです。

意思決定の哲学、あるいは学問は現在、図にすると円としてベストにまとまるとおもいます。

しかし、私の図は違います。 いや現在の私の中での意思決定論は 絵のような感じのものです。 友、愛する友、人の絵そのものです。

それをグーグルの地図上に上から鳥瞰的に俯瞰して考えてると点としても考えることはできますが、其の点こそ、地球大の円でもあり宇宙大の円でもある点という概念が適用できます。 人間の内側の意識と グーグルの地図で考えることのできる世界情勢の渦との「ズレ」は、こうしてもっとも効率よく修正していけたりします。

意思決定とは 総合文化哲学であり、そこから導き出される当意即妙に変化してゆく命そのものでもある行動、という感じのものとなっていきます。

私のお勧めの 最先端の哲学は、猿のすぐ次の太古の人間の意識、あるいは生まれたばかりの赤ちゃんの希望という名の最初の笑顔、言葉以前の、踊りの心の世界なのですが、

どうか、新しい若い魂で哲学しなおしてみてください。

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この回答への補足

すみませんが、私の‘質問(とうか紹介を請うた)’である「もっと実用的な哲学はないものでしょうか?」から完全に脱線しており、いつの間にか私が答える側にも回っている為、答弁がそろそろ辛くなって参りましたのでここで閉め切らさせて頂きます;

皆様、誠にありがとう御座いました。
勝手な判断でポイントをお付けいたしますが、どうかお気になされずに頂ければ幸いです。

この回答へのお礼

arayata333さま、まず御自分の考えを整理されるとよろしいかと存じます^^;
真摯なお気持ちはよく分かります。
しかし、まず「自分が何を言いたいのか」の‘要点’をまとめた方がよろしいかと存じます。
考えが泡のように次々に湧き、それをそのまま相手にぶつけたので把握し辛いです;
相手に分かり易く、できるかぎり簡潔にして、流れを作ってご説明されるとよろしいかと思います。

あと、改行と行間がおかしな具合になってますので、話の内容でグループを作り、まとめるようにした方がよいかと思います。
かなり読み辛いですので;
ちょっと私の能力では把握しきれませんので、締め切り後余裕があれば前の回答のお礼にて返答させて頂きます。

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  • 回答者:arayata333
  • 回答日時:2008/09/13 12:23

レーニンが スターリンのような失態を予測できなかったか ともかく止められなかったのは、 その幅の広い思索を後継者に教育できなかったからという教育の問題としてしか、私には理解できません。 教育力と、その内容との両方に欠陥があったはず。  でも もっと疑問なのは、哲学史にてなんでその両方の欠陥が追及されていないのか?ということです。 (ほんとうに人間としての真剣さがあるのだろうか?哲学者たちって? とか思ってしまうのです。)

ユーゴスラビアのみが、当時唯一資本主義国を抜かして経済が発展しかかっていた国だったわけですが、 そこで起こった学生運動(唯一まともと思えた学生運動)は、とうとう国を巻き込んで、経済失速を招きました。

其の因は、責任の不明確化にありと学者によって分析されているようなのですが、結局経営者の経験が しっかり教育出来なかったこと、情報の伝達の失敗です。

情報時代がやってきました。 

発展途上国の存在や その実情とかを考えれば、レーニン自体の考えも狭いのではと思えてしまいますが、 もし、今、この私たちの時代にしっかりした教育 あるいは情報伝達の高度化を実現さへできるならば、 高度資本主義社会のさらなる発達自体を、「最大平等」の実現のための大きな力に出来るというシステムを 多数考えることができるはずなのですが?

生活協同組合の最初の思想は、女性の教育者による共同購入とそれによる競争の激化と共同のシステムの力での教育力によって 経済発展と民間福祉をバランスよく両方とも発展させるという事業(資本主義社会内の)だったと思うのですが、  これも、すみませんが、いそがしくてその後どうなったのかは知りません。   しかし、共同購入がアメリカでのそのビジネス面での進化とともに、ギャザリングとして日本でもネットを通して盛んである点しかしりませんが、 そのギャザリングに教育改革の熱が無いことは やはりブルータスおまえもかの 心境となってしまう私です。

すみません、書いておくべき自己紹介があったのですが、 わたしは現在ワーキングプアー状態を生きている者です(精神的には負け組みであることを認めては^^いませんが…。)。

月一冊の本を購入するのも大変な思いとなるような状況にあるわけですが、はてさて、こうなるようなある求道人生(複雑になるので内容は言いたくない気持ちになるのですが、踊り心のみを一筋追求してきた者です。)を、選択してきたということは、 これが「自由の刑」を受けてる状態なのですか?(今度は、みなさんの質疑全部を読んでから書いてます。)

自己紹介はとりあえず以上。

((予断ですが「自由の刑」という言葉だけですと、このタイトルはいろんなふうに受け取れてしまいます。訳の問題でしょうか? 自由なんてものは人間の理想やあるべき姿のためには刑罰に処すべき!とかいう急進思想なのか? とかとか ? にとどめておきますが(^^)。))

さて、月を美しいと思う心、そよ風にゆれる小さな花、青い朝方の空に雲が描く筋の美しさとかとかに感じる心って 東洋人だけのものじゃなくって人間の属性でもある点を 私のほうからは書いておきたくなりました。

で、このOkウェブでたまたま知り合った(リアルな場でのことではないので誤解しないように^^)女性は、私に彼女が 男に捨てられてすさんでいたときに生まれた子供によって こころが救われた心境を詩に書いていたことから 其の詩をおしえてくださいましたが、 その人は、 フランスの哲学者アランの勉強を 子供の教育のためにもしておられる方でした。

このアランの本は 生涯で唯一私が高校生の時にすこしだけ読んだことのある哲学書?なのですが、 調べてみると、この方は 人間の情の世界(月に感動するような世界と書いておきますね。)の徹底した研究や、経済(ビジネス)の研究も、きちっと総合的にしていた人で、 それによって今までの哲学を大改革しようとしてた方であるようなのです。

大学教授でもありますし、教育学者としても有名な方のようですので、弟子はたくさんいたと思うのですが?  

この方のその後の哲学史における改革はどうなっているのでしょう?

欺瞞によってか 権威ある論壇?によってか、つぶされてしまったのでしょうか? 

それとも、 論壇を正すほどには迫力ある正しい情報伝達は、このアランにして出来なかったということなのでしょうか?

何か知っていましたら教えてください。

ニーチェって 類推から察するに キリストを超えたのではなくて其の入り口に論壇のだらしなさや甘ったれた考えからではない新たな地点から立った人にすぎないでしょ。   つきつめれば、昔の長老と同じ地点に私たち哲学はまとめなおされると思います。(たぶんですが、パーリ語の長老も同じ傾聴に値する深さをもっていると思います。)

現代情報化社会の若者は、今こそ、「今」としての画期的であ革命的な、実践的(最先端?)な哲学を、

自ら 多くを学びつつも、まとめなおし、教育力と教育内容を万全にしてネットで流していってください。  探すのは本だけでなく ご自分の脳と その図や文章にもよってください。必要なら外(刺激の中)にとびだしてでも(^^)。

最後に ちょと皮肉な 成功哲学の長所の見つけ方をお伝えしますね。

決める主体の肝心は 情の世界、そのへんがVAKぐらいにしか追求されてない欠点とかはありますけど、 いいとことパワーのあるところはさまざまに内包されてます。(肝心が抜けてるのはおおきいですけど…)

個人が 二分化の負け組みから抜け出すため成功哲学としてではなく、 二極分化をどうしたら止めることができるか、あるいは其の害を極力減らすことが出来るかということの成功を求めて、それをまとめなおしてみてください。

それに役に立つ部分はすべて 成功哲学の長所です。

今回は以上。

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  • 回答者:ab92
  • 回答日時:2008/09/13 03:59

#14で回答したab92です。お礼の言葉を見ました。

>>ただ、私が思うに「月が分子の集合体」である事と「月の美しさ」  と“両方知っておく必要がある”と思うのです。

まさにその通りですね。偏らないことが大事だと思います。
人間がインターネットを使えるのは、ニュートンの発見の賜物
だということを忘れはしません。ただ、
月の物質的構成やメカニズム、論理的記述のみに固執して、
ありのままの月の美しさを感受することを忘れてしまった人間を、
私は人間と呼びたくはないなぁ(笑)・・・信念としてね。

これはあくまで私の信念ですが、
私にとって思考とは道具に他なりません。
それ以上でも以下でもないんです。
思考や思考から得た知識というのは、
私の生活を便利にし、人生の方向性をより安定させてくれます。
しかし思考することが全てではありません。
(哲学者はそんな私を笑うでしょうが)

例えば、
母親が自分の子供を愛しいと思うことそれ自体が重要であって、
なぜ?どうして?は愚問だと思うのは私だけでしょうか。
偉い哲学者が、なぜ?の答えを出したからといって、
母親の眼差しの先に映るのは愛しい我が子それ自体です。

水族館にて恋人とただただ神秘的な風景に圧倒されている
時のことを想像してください。
「なぜこんなにも神秘的なのか?」理由を問うのは愚問です。
ただただ恋人とその神秘性をありのままに受け止めていたい。
それが人間性です。

誰かに同情する時を思い出して下さい。
他者の気持ちを察するというのは、
あくまで人間の推論に過ぎなくて、
決して証明できることではないですよね。
だからといって人は、そこで同情を止めるのでしょうか。
同情を止めたからといって、人は涙を止めるでしょうか。
泣き崩れている人を見て、抱きしめずにいられないあの情動は、
論理や物理的記述というレベルでは説明しきれないでしょう。
たとえ感情発生のメカニズムを人が理解しても。

↑つまらない話だったらごめんなさい(笑)

哲学者は論理の最終目標として、何を望んでいるのだろうね。
ある答えが欲しいのか、
ただ論理的思考プロセスを楽しんでいたいのか、
机の上で思考に耽ることで金を稼ぎたいのか、
人間を捨ててロボットになりたいのか、
科学から生まれる副産物を生活に役立てることが目的なのか。
どこに向かっているのでしょうかね。

論理性のみが、この世の全てを請負っているわけではいということに、
科学者及び哲学者には心得ておいて欲しいですね。
論理的・物理的記述が成す真実というものが
世の中に溢れかえったとしても
母親は母親であり続ける。

“考えない哲学”があってもいいような気がする。
Don't think, feel !!! (考えるな、感じろ)
ブルース・リーの名セリフなんですがね、
東洋的な世界観って好きです。
東洋思想が西洋哲学より劣っているとは決して思いません。
東洋で武道が栄えたのも、how?(どのように進むべきか)
を重んじてきたからだと思います。
how?こそ実用性だと思います。
それは思考に没頭し過ぎずに、直感を信じて行動しろってことです。

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この回答への補足

(No,1)
>私にとって思考とは道具に他なりません
仰るとおりです。
ただ、「よく使わねばならない道具」です。
そして、その道具自体が使い方次第で我々に被害をもたらすのもまた事実です。
本来、「哲学」とは「その在り方を問いただす学問」なわけですが、むしろ問いただされているのは哲学の方かもしれせんね(ここにズレが現代では生じてきているのかも知れません。「ミイラ取りがミイラになる」というやつです、最近、哲学者にも多いらしいですよ)。

>なぜ?どうして?は愚問だと思うのは私だけでしょうか
「子供を愛せてるうち」は問題ありません。
問題は「“子供を愛せなくなった時”」です。
この時、自分の在り方や子供との関係を見直すのに、「何故?(哲学)」が必要と考えます。

>「なぜこんなにも神秘的なのか?」理由を問うのは愚問です
哲学者ではありませんがドフトエフスキーが同様の事を言っています(といっても、ドフトは多くの哲学者に学者になるきっかけを与えていますが)。
しかしながら、ある意味「それが人間である」との事。
簡単に言えば、納得がないとダメなんですね。
(「興味」と言ってもいいかもしれません)

この回答へのお礼

(No,2)
>哲学者は論理の最終目標として、何を望んでいるのだろうね
正直これは分かりません。
科学もそうですが、いやある意味全てのものがそうですが、一応哲学では「その探求」というものを目的の一つに掲げています(むろん、建前とも取れるし本気とも取れる…実に曖昧ですね;)

>ある答えが欲しいのか
そうだと思います。
しかし、「最初から答えの無い探求」とも取れます。
(これを映画「パイ(Π)」では円周率に例えて、現代社会を皮肉ってます。ちなみに内容は非常に難解(しかも現代なのに白黒!)ですのでお覚悟を…)

私なりの結論を上げるなら
「現物>理論」なわけですが
これが
「現物<理論」となると、おかしくなるわけです。
ところが、
現代ではまさに「現物<理論」が社会でも法則でも通ってしまう。
いえ、既に「現物<理論」の上に世界や社会や宇宙が成り立ってると言っても過言ではない…。
一体誰がブラックホールを見ましたか?
そもそも、現実においてブラックホールなど直視できますか?
ある意味、世界の全ては「理論」なわけです。
しかし、その一方でまだ完全に証明できてるわけでもなく、「現物<理論」でもない。
ここに混乱が生まれるわけです…。

我々に出来るのは「情報を整理」する事ぐらいです。
その為の哲学と考えます。
以上、駄文失礼…;

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