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宗教は動物にはないものと思います。死人に対してお墓を作ったり花をお供えすることなどは、人間が進化した結果の宗教心です。その宗教心は国や地域でさまざまな既成宗教を生み出しました。ですがその反面科学や知識が進歩することにより、既成宗教の信憑性は低下しています。ですが自分で宗教を選ばない人達は先祖の宗教を引き継いでいる人が多数です。信教の自由ですから先祖の宗教から離れる人もいます。その人達は無宗教になるひともいますが、多数の人は理論的で科学的に近い宗教に惹かれるようです。その為、新興宗教が多数つくられてきています。私としては宗教の多くは必要のないものと思っています。この世にとって必要な宗教と必要でない宗教を分けることはできないでしょうか?ただ増え続ける宗教は馬鹿馬鹿しいだけです。できれば宗教は一つにまとめるべきだと思っています。誰にでも人間としての宗教心はあります。その意味をもう一度見直して、世界で一つだけの宗教をつくれないものでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

そちらの質問は、“本来哲学が忘れたり、諦めたりしてはならないはずの問題”というふうに、 私はなのですが、 本気で思っています。



ごめんなさい。馬鹿にされてしまうかもしれないですが、その本気さの出どころを正直に書きます。 そのあたりの自己紹介を先に書きます。

わたしは、肉体労働者でほとんど本とか読んでいません。 アカデミックな哲学の世界の歴史とかを知らない人間なのです。
しかし、子供の頃 差別といじめから体を壊し何度も死の床をはいずった体験からか、物事を考えるのにいちいち徹底してその本質まで考える癖はついていました。

だからといってこの人生について解ることは、徹底して考えるほどに自分の未熟さ、青二才ぶり、甘さ、どうしようもなさ、小ささ、木の葉のような状態でしかなかったのですが、  自分の中では、これが60歳になってみて(50歳ごろ全体的にまとまったのですが) 物事は総合的にかんがえると(人生のことがらすべてをなのです。このOKウェブのカテゴリが無限にあるわけではないことから、60歳の思索者のそのへんを想像していただけると幸いです。)人間の能力はけして何もかも出来る可能性なんて持ってはいないけれど、 A地点からB地点までの一歩一歩の旅ならば必ず答えが見えてくるそういう確かな「可能性の大地」という世界、 つまり深く本質的にそして広く総合的に考えれば必ず 次への見とおしならば開けるはずで その頂点であるべき思索開拓の道が本来哲学であるはず、→ すなわち、この相対的は世の中にて、諦めていいような問題は存在しない。 哲学がそこにある限り、常に前進への道はあるはず。 という考えにいたっているというわけなのです。

宗教の問題に限らず、憎しみの連鎖の問題、生物の弱さの問題、医学の進歩の問題、経済の問題、外交のあり方の問題、大きくて不可能に思えてしまう問題も、 けして諦めてはならない。 哲学が諦めたらもちろんすべては絶望しかないのでしょうが、そんなことはありえない。という考えだということです。 

今では、論理以上に「諦めない心」のほうが大事と思えるほどになっています。

ジョンレノンでしたか「宗教の無い世界を夢見てごらん、国境の無い世界を夢見てごらん♪」といった歌詞(くわしくは知らないのですが)の「夢」を音楽と詩で語っていますよね。

夢は 音楽哲学にしろ、言葉や詩の哲学にしろ そこから生まれたさらに進化した音楽や詩や文学にしろ、 裏のその哲学がどこまで煮詰められているかによって 実現へと近づいてゆくという理論もなりたちます。

私が33,4歳のころだったでしょうか、友達が泣きながらそのニュースを知らせてくれた事を憶えています。彼がピストルで撃たれて殺されていなかったら、どのような哲学をわたしたちに語ってくれたのか、生きていたなら彼の60歳の頃のお話を聞いてみたくなります。

へんな自己紹介ですが、ここまでをここでの自己紹介とさせていただいます。

紙数の都合で 回答自体はANO15まで筆を伸ばします。(一応最初の回答という形ですが)

***
 paradox8様の質問文に直接対応した回答は次のANO15(から)となりますが、 まだ紙数がありそうなので、付け加えます。

私は上記のような「哲学人」なのですが、 最近、このサイト内にて、アカデミックな哲学の世界で“哲学の世界”自体が 膨大に分裂していてそのその思索における総合性を失ってるとかつかみがたくなってるとか聞いていますし、

また哲学の歴史自体が、何か個とか個性というあたりでもしかしたら へんな曲がり方をしてきてしまったらしいことも聞いています。  個とい概念はとても大事な人間性についての思索なのですが、絶対個という概念を 文字通り「絶対」に通じ合えないのだからそれが故にお互いを尊重しあうことが大事なのだとかいうふうな簡単な考えでまとまってしまっているらしいことも聞いています。

 アカデミックな哲学が こんな地点から抜け出せないでいるというのが事実であるなら ちょっと信じられない世界です。

学者の卓上の論理というのは もしかしたら、生きる必死さ、真剣さに欠けているのかもしれませんね。 それだから この宗教の問題にも哲学が答えられなくなっているということなのかもしれません。 ここにそのような推理が働いてしまう者です。

でも、本来 人間の哲学の可能性を哲学すれば、深く広く総合的、本質的、厳密に考えれば そんなはずないと思う者の 私はもちろんその一人です。

私自身は、諦めません。  つづけます。
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重大と思われる訂正箇所がありますので、  それだけ付け加えさせていただきます。

  どんどん、かってに書く形となってしまっていますが、 社会的な責任上のことですので、 書いたことへの責任は ここではよりいっそう重みがあります。  どうかご了承ください。

そちらの文に 対応すべく その質問文の一番最後の文

>世界で一つだけの宗教をつくれないものでしょうか?<

について 最後にまとめる形をとって前回終わっていますが、わたしの考えは それはなにも宗教である必要性はなく、哲学がしっかりすれば、そしてその啓蒙とか教育や対話の場がしっかりすれば、 その組織すら 今の情報化社会では必要なくなってきているのでは、

という前提で語っているものです。

たぶん、もはや、新しい 科学的理論的な装いの宗教はそんなに増えていかないと思いますが、 ずる賢い人達が例えば、ここに書いてる哲学から
うまくそれらしい今までの宗教をまとめるような教義とかを開発し、あたらしく他にはもう反論できないような宗教組織を 私たちの宗教心を利用して作り上げたとします。

それは、共産主義が失敗したような「粛清」とか自由の圧制とかもなく、末永くつづくかもしれません。 

でも 哲学からは、 そんな組織は、別にいらないよ、 なくても大丈夫だよという答えがでてくるはずなんです。

わたしが言いたいのは そのことです。

では、既成の宗教は というと たいていはその教義はいろいろな解釈が可能な抽象段階でもあるのですから、逆にこれも いくらでも科学的理論的な装いはできます。   でも それはおおいに歓迎するだけでいいのではないのでしょうか?  

しっかりした解釈であれば、宗教どおしの争いは、まず消えてゆきますし、 それはやがては、伝統文化としてのみ大切に守られてゆく世界となってゆくでしょう。  それ以前に 組織は組織として、その中の哲学的な力のある人達が、 その組織を利用して すばらしい和の世界を私たちの世界にもたらしてくれるのではないでしょうか。

すべての宗教組織にたいして、何も反対する必要すらなく むしろ応援してあげる中で そのような方向にもってゆけるような哲学を論理を 私たちは深めてゆけばいいだけのように思っているものです。

もちろん、あからさまな金儲けのキリスト教の一派とか実際に私は知っています。  それに、そうでなくても その影に「ずるい人達」が隠れていたりすることも知っています。

でも、 それでもなお、 そのすべてを包み込めるのが 哲学の道と信じてます。  

そこには 教祖もリーダーも いりません。  例えば OKウェブだけじゃなく、「Q&A」での話し合い、質疑応答の中での話し合いの質が高まるだけでも、 それは やがて資本主義社会の自動共同購入組織にもなりえるということを考えてみてください。  しかも そこには 自動的な教育ボランティア組織も発展してゆくでしょう。

私たちは そのへんの世の中の「見とおし」を しっかり哲学できるようになってゆけばいいだけです。

わたしが諦めていない。 というのは 新しい世界に通じる宗教を作る可能性を諦めていない。ということではないわけです。

平和や 私たちの尊い宗教心を真剣に考えて生まれてきたはずの昔の知恵がやがて宗教どおしの ひどいとしかいいようのない戦争や争いになってゆくのを 食い止める道を 諦めてなんかいない。 ということです。

もちろん、書きたいことは山ほどありますが、  それは 私の方からはここでは特に対話の中でしか話すつもりはないんです。 

でも、 この誤解は どうしても 責任上さけておきたかったところです。

おおざっぱなことしか書けませんでしたし、 いっぺんに長々と書く形となってしまったことを お詫びいたします。

でも 私も 一生懸命なんです。

どうか この失敗を 大きな度量で お許しください。

ごめんなさい。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございました。
平和の為に宗教を統一できる可能性があることを示唆してくださりありがとうございます。

お礼日時:2008/10/10 20:35

紙数の都合で ANO14から こちらにつづけての回答となります。



私の中には 論理的には全ての宗教の教義は、抽象的表現の段階にとどまろうとする因果があり、そこを解きほぐさないかぎり この問題は解決しないとかいう論理があったりしますが、その考えは手短になんてとても書けませんから、 もし興味がありましたら“その時点でその点も書いていくという形”にさせていただきます。  興味があれば 対話は弾み、論理は力強く意味と価値を帯びてきて 短くも有効なパワーのある論議も それこそ論理を超えて生まれてもきましょうからです。

まずは、私の方からは、 paradox8様の質問に出来るだけあわせての回答を書いてみます。

1、人間は、猿から進化した時、その進化がどのような過程のものであれ「自他を見つめる」脳を、その最初から獲得しています。 それを神の贈り物とする宗教はたぶん一神教での哲学とかでは 多いのでしょう(でもそのこと自体は、哲学的装いとも私は呼びたいです。ほんとうは簡単に書くとそう呼べる点が大きいというのが正確な表現となりますが、言いたいことは 神の贈り物は、存在全体なのですから、なんでその一部をもっともらしく贈り物とするのですか?ということなのです。)けれど、 ともかくそういう脳を獲得した故に、人間は反省し進歩(正確にはAからBに進むことが出来る力の事です。それは、考えることが必ずしも本質的に進歩といえるのではないからですが、 ここでは簡単に話しを進めていきます。)することができるようになり、 そこに「言葉」の世界も獲得してきたわけです。

でも「言葉」によって、複雑化した脳は、もともとの「自他をみつめる脳」を持ったときの純粋な“森の中での人間誕生の時点”での 人間性への希望のようなものを忘れていたり、かえって見失ったりもしています。

 そこを私は赤ちゃんがはじめてお母さんに向かって笑う目の中に、 その心のふるさとを見る気がするのですが、    

これ理屈じゃないところまで言ってるので、この論議は私の方からはここまでとします。

>宗教は動物にはないものと思います。<

ほんとにそうですよね。 本能にしばられた生きることにしか他に意識がむかわない、微笑むゆとりなんかなかった、長い長い生物の歴史、長い長い気の遠くなりそうな命の連鎖の中に、 はじめて生きるための仲間としての友というのでななく、同じ人間、としての「友」を見つけ 笑いかけたのが人間なんですからね。 生物として死んでゆくその「友」、「人間」にたいして 始めてほんとの悲しみという涙を流し(動物にも別れの感情もありますが、人間の悲しみは こうして本来始まったときから深いはずなのです。)そして > お墓をつくり花や水を お供えする。 <     ほんとに心の奥からそう思います。  本来の哲学の心とも言えるかと思います。

あっ、 そちらと少し言葉の使い方の違うところを 今発見(^^)しました。 >人間が進化した結果の宗教心です。<のところです。

私の方からの文の流れですと、「人間が」のところが「人間に」となり「が」ではなく「に」になってしまいますね。

“人間に進化した”時点で 私たちは言葉以前にも宗教心は獲得しているかと思います。とうふうにです。

 でもこれは「言葉」って何かを深く考えてゆくと、そちらの言われてることの内側の心境と 私の言ってることとは ほとんど同じことを言ってることとなります。 反論が言いたいのではないので誤解しないでください(--);。



と、このように そちらの文面に一つ一つ書いてゆくと いくらANOを続けて使っても それだけでいくつANOを使うことになることやら  という気がしてきましたので、 ここで 一気に 最後の段に飛び、 一応まとめておきます。 

>その意味をもう一度見直して、世界で一つだけの宗教をつくれないものでしょうか?<

進みつづけてみなければ その結果は解らないことであっても、これを諦めたらなんで「哲学人」と言えるのかと 私は思ってしまうのです。

同じ事を繰り返しますが 私は諦めません。

でも この問題 簡単に答えは出てこない問題であるとも思ってはいます。 

では どうしたらいいのかの 案にこぎつけるまでは ここにても本当はもう少し先をこそ続けたいのですが、

もしよろしければ、その困難さについての、次の回答の場を このおいぼれに与えてくださいませんか。  

もちろん、そちらの興味があればということです。

  どんな結果にも私は自称「タフなる哲学者」ですから私のことは心配いりません(^^)♪。

どちらにせよ、書かせていただきありがとうございました。

今後とも宜しくお願い致します。
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人間に不安感、疎外感、群れたがる習性などが有る限り需要は無くならないと思いますし大きな市場が有りそれに適用できる神がかり的な超能力を持った指導者が存在すると信じられていれば何百年後でも宗教は存在すると思います。



でも仮に全く無くなった場合の弊害は様々な宗教が乱立、敵対している現在よりも更に悪化するでしょうし質問者さんが仮に世界が一つの宗教に統一されれば争い事は無くなるとお考えならそう旨く行かないと思いますよ。統一する為のエネルギーが大きな害悪となって更なる不幸を招くと思います。

実際ヨーロッパの歴史を見れば分かりますが同じ宗教の国家間でさえ血で血を洗う戦いを長年続けてきた訳で宗教は逆に戦争に利用されてきました。主の名の下に相手を滅ぼすと言う訳ですね。

現在の世界状況を見ても分かりますが争い事はそのほとんどが経済問題が原因だと思います。
過去宗教に名を借りた戦争はいくつも有りましたが本当の原因は人間の欲望が招いた経済問題だと思いますね。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。
宗教の統一は不可能ということですね。もっと前向きな回答を期待していました。経済問題で戦争に利用される宗教をなくしたいのですが無理でしょうか?

お礼日時:2008/09/21 23:55

 ANo.11で頂いた補足(全ての宗教にはビジネスや詐欺の要素があります。

)は、ある種の信仰にあり、団体の会員である私にも、小気味よく、さっぱりするものです。
 俗塵で汚れた私も、そんなことの切れ端でもないかと、どんなものも見逃すまいと、目を警戒に皿のようにして、細かいところを見張っている、疑い深い人間です。まぁそんな目的外のことでは、或いはその団体の信仰の外にいる人にはわかるでしょうし、或いは判らないこともあるでしょうね。
 詐欺性についてはとても難しいかもしれませんね。判断が。
 だが事業性ということは、組織運営ですからね。この地上の経済社会での。私は一定のことは、認めざるを得ないかもしれないと存じます。
 ご寄付と奉仕、そして犠牲だけでは、成り立ちませんよ。
 安価であるにしろ、一定の経費はかかるでしょうね。
 それがいろんなことの中で妥当なつりあいがとれているかどうかですよね。そういう意味でビジネス面と仰せられるなら、どの組織にもそりゃありますよ。
 私がいってきたビジネスというのは、心は野心が先行していて、一丁、事業にしてやろう、金儲けの手段や政治勢力の基盤にしてやろうという、根っこから、始まりからの本筋的なビジネスのことなのでした。
 これらを全て一諸にするのは少し大雑把ではないかと、危惧します。

この回答への補足

無宗教の人でしたらわかる問題のはずでした。特定の宗教を信じていると、どうしても自分の信じている宗教を守る考えを持ってしまうものです。krya1998さんが無宗教でしたらわかってもらえたでしょう。勢力を伸ばして安定した宗教は、ビジネス的な野心がなくなったように見えるだけです。しかしどの宗教も始まりからの本筋的なビジネスは無いようにみえます。教義や教理でビジネスを先行させるような宗教は探してもみつけられないでしょう。しかしユダヤ教やキリスト教の聖書にはビジネス的な野心とまではいきませんが、信者は収入の十分の一を献金するようにと書かれているようです。ですがビジネスになるかならないかは宗教者(運営者)の問題であり、どの宗教にも金儲けのビジネスにできる要素はあります。

補足日時:2008/09/16 13:58
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 ANo.9


 そうすると、やはりビジネスや詐欺の宗教は宗教というカテゴリにparadox_8さんも入れておられないですね。
 統一教会とか、批判がありますが、そして教団をあからさまに政治活動に使っている組織(まぁいいこともしているのでしょうし、現代、熱心に支持している人もいるので、あからさまにはいえませが)もあり、そういうビジネスや詐欺、オームなどのカルト、政治勢力の基盤をになう宗教っていうのは、paradox_8さんのご質問のparadox_8に入れては、おられないと解釈できますね。補足のお書き込みから、理解すれば。

この回答への補足

>そうすると、やはりビジネスや詐欺の宗教は宗教というカテゴリにparadox_8さんも入れておられないですね。

全ての宗教にはビジネスや詐欺の要素があります。ですので入れていないのではありません。問題を起こした宗教団体は極端な活動を行ったので明るみにされただけです。他の宗教にもカルトのオームや統一教会などの宗教と同じような問題を起こす因子はあります。ただ明るみにされないだけです。

補足日時:2008/09/15 13:02
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私は無宗教という状態は人間社会に存在していないと考えます。




例えば「無宗教」と自称する人達であっても、人間社会で生きるのならば
多くの社会システム、つまり宗教的行事から無縁ではいられません。
信教の自由が保障されている日本であっても、「無宗教」ではなく
同時に多数の教義を取り入れている「多宗教」の状態にあると考えられます。

一般に宗教家からは世俗主義と評されますが、あえて私は自由主義と呼びます。
この信教の自由・多宗教の状態こそが質問者さんの求める「一なる宗教」たりえる
唯一の存在でしょう。




そもそも宗教はより良い人間関係の構築や社会統制の為に用いられてきた経緯
があります。また、国家の都合の根拠として聖典が用いられたことも
1度や2度ではありません。これは偏に人類社会の運営に「論理的な根拠」が欠如
していた為です。
ですが法理論の発展・人権思想の誕生・近代哲学による「個」の概念の誕生により
人間の精神性は、それぞれが「論理的な根拠」を持ちえるまでに進化しました。
残る問題は個の誕生により考えられる、社会運営上の軋轢の解消のみです。



だとするならば、それぞれの宗教行事を取り入れ、お互いの立場を尊重する
現在の状態こそが理想であるのでは疑いようがありません。
我々の「一なる宗教」の教義や経典は、個々の心の中にこそあるのです。
唯一すべての信徒が共有すべき教義は、「相手の意見・自由を尊重する」ことだけです。



余談ですが、現在の政教分離の論理的な根拠はここにあります。
つまり、国家の支配者が一つの宗教に拘泥すれば、他の宗教の規制・弾圧につながり
信教の自由を侵害すると考えるためです。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

>唯一すべての信徒が共有すべき教義は、「相手の意見・自由を尊重する」ことだけです。

全ての宗教が「相手の意見・自由を尊重する」ことができればいいと私も思います。ですが他宗教を邪教と言って批判する宗教者(運営者)は多くいるのです。その為にその信徒も他宗教を邪教と言ってしまうのです。これは宗教者の問題です。宗教者が信徒をマインドコントロールするのは私利私欲の為がほとんどです。宗教は宗教者にとっては非常に利益になるものです。この欲をなくすことがまず必要です。その為に宗教は信者から一切金銭を取らないようにするべきです。これができなければ宗教はなくしたほうが良いと思っています。

お礼日時:2008/09/14 18:09

 ANo.8


 paradox_8さん、異端の研究もたくさんあるのでしょうね。
 これは宿命的かも知れませんが、どんな研究があるのかこれも知りたいところですね。
 もう一つ宿命的なのが、邪教でしょうか。先ほどのビジネスや詐欺なども或いは宗教かもしれませんし、もしそうなら邪教なのでしょうね。
 これなどももしご存じでしたら、ちょいと補足に書いて頂けませんでしょうか?

この回答への補足

>異端の研究もたくさんあるのでしょうね。

特にこれといった研究はしていません。なにが異端でなにが邪教かはそのときの時代背景や、人々の必要に応じて変化するものです。キリスト教も宗教改革当時のプロテスタントはカトリックからみれば異端でありました。カトリックもプロテスタントからみれば邪教でした。現在はお互いを認めているところもあるようです。邪教か邪教でないかは信じる宗教によって変わってしまうものです。ある仏教徒はキリスト教を邪教という者もいます。キリスト教徒も仏教を邪教という者もいる始末です。とにかく宗教とは死後への希望を生み出すものでなくてはありません。現在ではどんな宗教であれ希望の持てる宗教が良いのではないでしょうか?特定の宗教を信じるのでしたら他の宗教を邪教と言わないことです。邪教と言う者は宗教者です。なぜ宗教者が他の宗教を邪教と言うのかは、自分の宗教に縛りつけて信じさせる為です。他の宗教を邪教と言うことにより、信者を自分の宗教から逃がさないようにしているのです。他の宗教を邪教と言うのも邪教です。無宗教者(特定の宗教を信じていない者)にとってみればどの宗教が邪教であり正教かは関係ありませんよね。^^

補足日時:2008/09/14 16:04
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 ANo.6


 ビジネスの宗教宣伝者、団体もありましたし、ありましょう。そしてこれからの生じましょう。
 被害者に酷ですが、だまされる方も、宗教に期待すること、望むことがあったのでしょうかね。
 金銭だけの問題ではないと存じます。つまり、普通の凡人はだまされないと存じます。
 でも私も当然に老齢になり、肉体に酷なこと、クッションのないところは、つらいです。
 ちょいと心に入ってくる、柔らかなこと、気持ちのいいこと、親切なことには、とろけてしまうのです。
 孤独で、いろんな状況の方がだまされるのは仕方ないのでしょうが、そういうだます詐欺やビジネスを宗教といって、ご質問の中にお入れでしたか。それは混在していることになりますね。
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釈尊、そしてイエスキリストが出現してから約二千年がたちます。

釈尊やキリストは、暗闇の恐怖や自然の驚異による恐れから、生まれた信仰を理性の勝(まさ)った宗教としての大木に育て上げました。その大木は博愛精神であり、悟りの世界であります。
そして二千年後の今日、その大木に枝葉が茂り、そして茂り過ぎ、大木が見えなくなりました。
でもその大木は依然として聳(そび)え立っています。
二千年後の今日、この日本に、現代のお経とも言うべき書物を書き残されたお坊さんが現れました。認知度は低く一般に知られてはいませんが、釈尊の仏典を訳したものではなく、ご自身が釈尊と同じ境地に入られての心境を、そして世の理(ことわり)を現代の言葉で、文章として残されました。
そして二千年後には、根底に共通する一つの宗教観が生まれるのではないかとひそかに思っています。
私は最近、そこここに心の世界についての自論を述べています。
深みのある内容ではありません。でも、浅くはありますが本質を捉えているのではないかとうぬぼれています。
人は精神世界に神や悪魔を想像しました。人の心も精神、好ましい心も好ましくない心も在ります。宇宙の精神も人の精神も同質と思えば、人の好ましい心は神や仏の心の反映したものであると思えるのではないでしょうか。人の好ましい心(良心)の延長線上に、行き着くところに、神や仏の世界があると思えるのです。
ですから、これからの宗教は、人々の好ましい心(良心)を土台にして発展していって欲しく思っています。
ちょっとずれた回答になってしまったかもしれません。ごめんなさい。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。
>これからの宗教は、人々の好ましい心(良心)を土台にして発展していって欲しく思っています。

ある意味では私も同感です。裏を返せば全ての宗教は人間が作りあげてきたものであり財産にもなると思います。「南無阿弥陀仏」ではうまくいかないと思えば「南無妙法蓮華経」を作り出し、神の存在を認めるとうまくいかないと思えば、無神論を唱える人も出てくるわけです。これらは全て人間の良心が土台であったものと思います。神を利用した悪い独裁者がいた場合には無神論が救いにもなるでしょう。神が存在するか否かはわからないものですが、どちらかを信じればそれは宗教になります。わからないことをわからないままにしておくことができないのが人間です。ですからほとんどの人は宗教をもってしまうものです。私としては宗教は発展するものではないです。宗教を信じさせるための理屈が発展していってるのです。

お礼日時:2008/09/14 00:50

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