デカルトの『方法序説』を読みました。
疑問に思うのは、『方法序説』で彼は何が言いたかったのでしょうか?
単なる自分の今後の予定と自分の自慢話を展開させているだけに思えたのですが・・・。
自分としてはセカネの着眼点に関心しただけでした(セネカの本を岩波文庫は出版しろよ!と思ったり)。
デカルトの偉そうな口調に耐えて、耐えて、疑問に思ったのですが、デカルトは医者だったのでしょうか?
心臓の仕組みに詳しくないですか?(デカルトが、『方法序説』の中で書いていた心臓に対する記述が正しいものかは不明ですが。)
あの傲慢な口調からして見れば、「こいつ知ったかだろ。」としか思えないです、汗。
1・デカルトは『方法序説』を通じて、何を言いたかったのでしょうか?
2・何故、人間の身体の仕組みについて、あれ程詳しいのでしょうか?
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
なるべく平たく書きます。
高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義しなきゃいけないストレスで早死にしたとも言われてますし
実際は繊細な人がそういうスタイルを演じていたのかもしれません。好意的過ぎるかな?
1:『方法序説』について。
従軍時代の経験から、4つの方法論(精神を導く基準)を導き出しました。
一言で言うと要は「疑え」。つまり「自分で考えて検証しろ」。
その上で信ずるに足る基準を見つけたのならば、それを変えないということです。
この方法論こそが、日本語訳のタイトルになっているんでしょうね。
この考え方で現在の数学の根幹部分を作り上げ人類史に名を刻んだデカルト先生は、
世界の学問の根幹部分である"哲学"に飛び込んでいきます。
真理を求め、数年の旅で世界を観察したデカルト先生はあることに気づいてしまいます。
社会が信じる基準とは絶対的な真理ではなく、みんなが広く認めている旧来の風習であると。
最終的には真理へ変えることが必要であっても、
今現在において「幸福な生活を送るためにはその国の習慣やルールに従う必要がある」
と考えるようになります。
最後に付記されているガリレオの話や、公表しなかった自身の「宇宙と光の考察」は
その端的な例であると言えます。
では、真理が世界に無いのなら、いったいどこにあるのか?
デカルト先生は驚くべき結論に達します。
その結論により人類という生物は最後の進化を遂げることとなったのです!
続きは「方法序説」でね☆
2;人間のしくみについて
もちろん、学生時代にも勉強していますが
デカルト先生は真理を探究する過程で、「自然科学」者と多くの交流を持っています。
現在の常識とはことなり、当時は現在「応用科学」に分類される医学であっても
その「自然科学」に含まれるのです。
当時の自然科学の探求者が物理学と医学の両方を修めているという例は普通のことです。
デカルト先生が最も影響を受けたという従軍時代に会った人物も、多数の学問を修めていました。
『方法序説』が一般人向けに書いたというのは『方法序説』の中でも述べられていますが、あの口調は無理ですね(自分は嫌いです)。
あの様な口調があの時代の特徴なんですね(他の書籍も読んでみようと思います)。
>「疑え」「検証しろ」
やっぱり、それが主張ですよね。
他のはデカルトの自慢話しで終始してる印象を受けましたが。
教授に聞いてみましたが、デカルト自身はそれ程まで医学については詳しくはないそうですね(実践的な知識として)。
ありがとうございます。
No.3
- 回答日時:
お礼欄、拝見しました。
西欧の文化の中には、ふたつの大きな不連続面がある、と言ったのはフーコーですが、ふたつかどうかはともかくとして、人のものの見方、考え方というのは、漸次的に変わっていくものでなく、ある時期を境に劇的に変わっていくもの、そのような「時期」というのが歴史を振り返るとあきらかにあるように思います。
ある時期「AはBである」と、だれもがなんの疑いもなく感じていたのが、つぎの時代にはだれもそんなことは思わなくなり、こんどは「CはDである」と感じるようになる。
そういうとき、その切断面の向こう側にいる人が、かつての「A」「B」という言葉だけをとりだして、自分の時代の「A」という言葉に込められた意味、「B」という言葉の使い方に乱暴に当てはめるということはできません。
たとえば「もののあはれ」という言葉をいまのわたしたちが理解しようと思えば、当時の人びとにとって、「もの」という言葉はいったい何を指すものであったか、それを「あはれ」とする思想というのは、どのような社会史的・精神史的条件をも含む、トータルな歴史的条件によるものなのか、ということを無視するわけにはいきませんよね。
同じようにデカルトが、たとえば「身体」と呼ぶそれは、わたしたちがその言葉から漠然とイメージする「それ」とはおそらくずいぶん隔たっていたはずです。
なにしろ中世後期の病気のおもな治療は瀉血で、床屋が外科医を兼ねていたのです。デカルトの時代でも、「医学」というのは、もしかしたら一年か二年でマスターできるものだったのかもしれません。
> 疑問に思いますが、「量」と捉えていたのは「古代」からずっとだと思いますね(自分は)。
もちろん「科学」ということに即して言えば、量的、質的の区分というのは、かなり荒っぽい、後の時代から見た、むしろ便宜的な区分であるように思います。詳しく見ていけばいくほど、そう言えるのかもしれません(わたしはここらへんのことはそれほど知らないから)。
たとえば寺田寅彦も
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2350_ …
「量的と質的と統計的と」でも、そういう趣旨のことを言っていますね。
ただ、やはりデカルトが生きた時代というのは、ひとつの不連続面の時代であり、彼自身がそうとは気づかないまま新しい時代への橋渡しをしていった、という側面があるわけです。そういうふうに考えたうえで、ふたつの時代を比較しようとするとき、「質的」「量的」という対照の仕方は有効であるように思います。
> 教授に同じ様な質問しましたが、デカルトが生きていた時代では、デカルト本人の本音は記述出来ていないと言っていましたが。
それはほんとにそうだろうと思います。
そもそも思想という営み自体がいまとはまるでちがうものだったことをわたしたちは忘れちゃいけないでしょうね。
もうひとつ、デカルトというと、「コギト」がもうお題目のように出てくるのですが、この「コギト」がほんとうに問題になってくるのは、カント以降の近代哲学においてです。
少なくとも、デカルトが「我思う ゆえに我あり」と言ったときの「我」は「人間としてのこの私」ではなかった(「人間」という概念が生まれたのは近代以降です)。むしろ、ここでの「我」とは、「思惟実体」、つまり、「心もしくは精神」たるかぎりでの「私」、身体から区別され、存在するために身体を必要としない、「精神」「理性」としての「私」ということです。
どうも「我思う ゆえに我あり」というのは、なんだか一種のスローガンみたいな受け取りかたをされてしまうのですが、これは、人間にあって「実体」をなしているのは「精神」すなわち「理性」であり、「理性」というのは身体とは独立に存在しているのだ、という確認がここでなされた、と理解すべきだろうと思います。
そうしてデカルトは、それを哲学の基礎としよう、と言っているのです。
それは何のためか。自然諸科学を数学を基礎とした「体系」として構想するためです。
よかったら木田元の『反哲学史入門』を読んでみてください。
こういったことがとてもわかりやすく書かれていると思います。
我思う、故に我在りは精神を指すのであって、身体を示している分けではないと書いてある気がします。
まぁ、断片的に取り出してしまうから、本を読まないから、そういう誤解が生じてしまうんでしょうね。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
★ 『方法序説』で彼は何が言いたかったのでしょうか?
☆ 考えてみると 何を言おうとしていたのでしょうね。ガリレイが裁かれるというような事態を知って つつしむというのとは別に その上にも 何か 奥歯にものがはさかったような言い方をしていますね たしかに。
No.1の方が 『省察』のほうから解説されているので ほかにもう あまり 持ち合わせていないのですが わたしの質問に回答を寄せてくださったので お返しにと思って 投稿します。
いちど 《QNo.4232249 :デカルトの良さをおしえてください。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4232249.html》という質問を わたしは しています。例のコギトの言明を 神の存在証明と一緒におこなったから 合わせて 思考する精神ないし理性の信仰のような方向を 社会一般的にも みちびいたのではないかと問うています。
《QNo.4250027 :デカルト曰く「私以外の全ては無根拠」なのに何故皆平然と生きているのですか? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4250027.html》そのANo.6に わたしは コギトが アウグスティヌスの《あやまつならば(あざむかれるならば) われあり》の焼き直しだという点を指摘しています。
ここでは そのアウグスティヌスの文章で 同じような趣旨を書いた箇所を 別の著書から 引いてみます。
*
すなわち わたしたちは存在し その存在を知り かつその存在とその知識とを愛する。わたしたちはここにあげた三つの実在(存在・知識・愛)に関して 真理の仮面をかぶった虚偽によって惑わされることはない。・・・
これらの真なる実在に関して アカデミア派の議論を少しも恐れない。彼らは言う。《もしきみが欺かれているとしたらどうか》と。しかし もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在する。なぜなら 存在しない者が欺かれることは まったくありえないのだから。
それゆえ もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在するのである。・・・
*
お粗末でした。
No.1
- 回答日時:
まず、1.に関して
以下の回答は木田元の『反哲学入門』(新潮社、2007)におもに依拠しています。
十三世紀から十四世紀ルネサンス期にかけて、ヨーロッパでは自然観が大きく動いた、ということはご存じのことと思います。
それ以前の自然観というのは、アリストテレスを下敷きにした森羅万象を「有機体」としてみる見方です。
これをあらっぽくまとめると、こういうことになります。
すべての存在は「実体形相」という一種の生命的原理を持っている。
↓
人間が感じ取る存在の諸性質は「実体形相」が外へ発現したもの
そこから言えることは、個々の自然というのは、量的ではなく、質的な存在である、ということです。要は「量」というのは「実体形相」ひとつだけ。それがさまざまな「質」を持って現れている、という質的自然観を持っていたわけです。
ところがルネサンスの時代に入ると、実験や観測を経て、自然を「量的」に見ようとする人が登場します。もちろんガリレオがいきなり現れたわけではなく、コペルニクスやケプラーによってその筋道は準備されていたわけですが、ともかくガリレオは自然を量的・機械論的にとらえようとした。そうして「自然という書物は数学的記号で書かれている」から、それを読み解くのが自然科学研究である、とする。ここで数学的自然科学というものが確立するのです。
ところがつぎに出てくるのは、数や図形の観念が、いったいどうして個々の自然現象に対応していると言えるのか、という疑問です。
たとえば、抽象的な2や3といった数の観念、二次元の平面に幅のない直線で描かれた三角形という観念、これに対応する対象を、わたしたちは現実に見たりさわったりすることはできません。にもかかわらず、わたしたちはそうした抽象的な観念を誰もが抱くことができる、ということは、神が人間の精神に等しく植え付けた「生得観念」であると当時の人びとは考えていたわけです。
数学的諸観念が、こうした経験によらない「生得観念」であるとするなら、どうしてそれが感覚経験によって与えられる自然の研究に適用できるのか。この両者の結びつきが、偶然ではなく必然的なものであることを論証する必要があります。
その適用が可能である、という根本的な理由の説明、哲学史では一般に「基礎づけ」と言うんですが、この基礎づけをおこなったのがデカルトだったんです。
ただ、デカルトがいた時代というのは、まだガリレオが裁判にかけられたような時代です。自然研究を数学的にとらえる、つまり量的にとらえる、という考え方は、従来の質的自然観を取っていたスコラ哲学と真っ向から対立することになります。そうなると、数学的自然研究は、キリスト教の信仰に背くものではない、というところから、まず論証して行かなくてはならなくなります。おそらく、今日のわたしたちから見ると、何とも言えない奇妙な感じ、なぜ神の存在証明と数学が関係してくるのか、と思ってしまうんですが、それにはこういう歴史的背景があった。
さて、この「質」と「量」の問題を、わたしたちのデカルト先生はなかなかアクロバティックに解決していきます。
自然現象のさまざまな「質」は、わたしたちの肉体的な感覚器官に与えられるものである。
一方、数学的な「量」は、わたしたちの精神によって洞察されるものである。
したがって、肉体的な感覚器官に与えられる質的な諸相は、真の姿ではなく、精神の洞察する量的関係が真の姿であることを論証すれば、自然研究と数学の結びつきの必然性を、キリスト教の信仰に反することなく、証明できると考えたのです。
さて、こうなるとまず何をしなければならないか。
それは、わたしたち人間にあって、精神と肉体というのはそれぞれ別個のものであり、肉体は偶有的なもの、真の姿(実体)は精神であることを論証することです。
そこからデカルトは『省察』を著していくのですが、この正式な標題は『神の存在、および人間の精神の身体からの区別を論証する、第一哲学についての省察』という、出版社の困りそうなタイトルなんです。でも、こうやってみると、デカルトが何をやろうとしたかがよくわかりますね。
そうして『方法叙説』というのは、この『省察』を広く一般の人にも理解してもらおうとして書いた、ということになっています。
ただ、わたしもこれ、最初に読んだのは高校生のときで、なんだかちっともわからなかった、森の中で道に迷ったときは、うろうろせずにじっとしてればいい、なんてほんとだろうか、ぐらいにしか思わなかった記憶があります(笑)。
確かにわかりにくい、というのは、よくわかるように思います。
木田さんはこのようにまとめています。
----(p.123)---
デカルトの主張したいのは、次のことだけなのです。つまり、そうだからこそ、肉体的感覚器官に与えられる感覚的諸性質は「物体」の、つまり「自然」の実在的構成要素ではなく、単に私たち人間にとって偶有的なものである身体への現われにすぎないのであり、「物体」つまり「自然」を真に構成しているのは、私たちの「精神」が洞察する「量的諸関係」だけなのだ、と。
-----
2.に関して
デカルトはポワティエ大学で一年間医学と法学を学んでいます。でも、そこで学士号を取得したのは法学博士だけのようで、医学に関してはどこまで学んだかはよくわかりません。
ただ、人間の身体を精神から切り離すことで、身体をほかの自然現象と同様の「対象」としてとらえる考え方は、デカルトから始まったと考えていいでしょう。
「それほど詳しい」というよりも、観察対象としてとらえていた結果である、と考えることができると思います。
哲学史には詳しくないので、というか無知なのでその様なアリストテレスの発見・見方は知らないでした。
デカルトが物質と精神を分節化した背景について、詳細に記述して頂きありがとうございます。
『省察』については、今読んでいる最中です。
教授に同じ様な質問しましたが、デカルトが生きていた時代では、デカルト本人の本音は記述出来ていないと言っていましたが。
疑問に思いますが、「量」と捉えていたのは「古代」からずっとだと思いますね(自分は)。
キリスト教―宗教―が出現してから、自然界を「量」で捉えていると思います。
というのも、宗教は自然を人間が暮らす為の道具に過ぎないと言っていた方が自分の身内にいましたが(彼は聖書にそう書いてあると言ってました。本当かは分からないですけど)。
もし、それが本当であるならば、古代から既に自然を「量」で捉えていたと思います。
まぁ、それが今更どうのこうのという分けではないですけれども(そういう見方は、今はなくなったようなので)。
つまり、「量」でなく「質」で自然を捉えている、見ている考え方は現代では拡散していると思います。
wikipediaの記事ですが、デカルトは一・二年医学を学んでいた様ですね。
しかし、その知識レベルは当時の医学としても、研修生レベルだと思いますね(そんな少ない期間で医学を基礎知識、全てを学べるはずがないです)。
ですが、その体験がデカルト二元論を生み出したと言っても過言ではないですね。
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