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昨日ノーベル賞を受賞された日本の方は、宇宙の始まりについての理論で、発表は30年も前で、実証されたといっていい状況になったので今年度の受賞ということですが、この宇宙の始まりの論理について哲学者がコメントもしくは論破されているのをご存知の方がいらしたら、教えて欲しいです。
また、宇宙(=この世)の始まりという以下にも哲学的な命題を考察するに際して、有名だという受賞者の論文が引用とかコメントとかされないのは、哲学者の頭が悪いからでしょうか?
レベルは違いますが、論理の最先端を踏まえない考察は「地球が丸いわけがないじゃないか、丸かったら下の人は天に向かって落っこちるというありえないことが起きるので、そんな説は論ずる価値は無い」っていうのと同じ程度の、下等なものって気がするんですが、違うんでしょうか?
哲学者は「当たり前のこと」を前提にして考察していますが、その「当たり前の事」のレベルが低いと考察のレベルも低いでしょう。
例えば将棋では「手損してはいけない」という黄金律が昭和の頃まではありましたが、今は研究が進んで、手損してもいい場合があるが常識になっています。昭和の頃は手損する指し手は棋理にない手ということで非難され、プロ棋士であれば破門なんて話にもなりました。当時のレベルの低い常識を信じきったためのおろかな話です。手損をしてはいけないというのは99%は正しいというのは今も変わらないのですけど。
なので、最先端では常識である理論を踏まえない哲学のレベルはいかがなものかって疑念がわきました。
疑念なのかどうか教えてください。

A 回答 (9件)

<<因果でいうと、ビックバンは物質世界の始まりです。

物理学では心の世界は扱っていませんが、ざっくりこの世は物質世界と精神世界でできているとして、精神世界はビックバンの前にも存在しているとすれば、お釈迦様の因果のご説明も矛盾しません。また、物質世界も、前の物質世界から、今の物質世界にビッグバンで変化したと考えれば、こちらも矛盾しません。>>

仏教では当時から「宇宙のなかにある数多ある銀河系の中のこの太陽系の中にある地球」と言う視点で語ってますね。そしてブラックホールなどについて語っていたり。この宇宙自体が現れ無くなって現れると言う繰り返しをしているその時間を一単位に物事を語ったりしているようですね。

物質については、素粒子に似た考え方を物質の性質について四つに別けて語ったりしてますw

矛盾は無いですねw

仏教ではこれ以上は物質についてはあまり語ってないですね。

むしろ宇宙について調べることはしないほうがいい、語ってますね。終わる事無く、悩み苦しみの現象に対して無意味かつ、時間・人生の消費、人格の向上のチャンスを削ぐと。。。

<<宇宙にあまねくあるものが、宇宙背景放射という電磁波なんだそうで、これが宇宙にあまねくあることから、約137億年前に今の物質世界の始まりがビックバンだったことが、証明されるんだそうです。>>

そういう憶測の論がそれなりにたっているのですね。

<<こういったことに興味がなくてよく哲学者やってられるもんだって気がします。>>

自分の論に反する証拠を出されたらすぐに捨てて新たな論を立てられるぐらい柔軟じゃないと哲学者としては成り立たないと僕も思いますね。検証性柔軟性が無ければ、ただ我見にとらわれ、自分が正しいんだと騒ぎ立てるやかましいだけの傲慢な人となってしまいますもんね。

しかし、今現在の悩み苦しみをなくすことが出来る論理的道徳的実証的な論を出すような哲学者なら物質世界の有る程度根拠をもった憶測の論理に興味を持たなくとも、やってられると思いますw

ブッダぐらいしか知りませんがw

<<論理物理学もいろいろ流派があって、流派が違うと仲が悪いらしいですが、哲学なんていう流派だと、口も利かないくらい仲が悪くなるだろう事は想像できます。>>

そういう人は「範囲を限定した有る程度の根拠を持った憶測にすぎない」という科学的思考の限界を無視した感情論を伴った「自分が絶対正しい」という反科学的非柔軟なものに落ちいっている相対的な見方の出来ない方々なのでしょう。


<<仏陀も当時の先端学問は理解していたんだと思いますが、今の学問は量が人間の時間をはるかに越えて存在しているから無理なんでしょうか。 >>

ブッダは、人間にとって危険な(苦しみを多く生む)無意味(ただ時間の無駄)な学問・知識・情報については無視するように学ばないようにしたほうが良いといいますね。全部知ろうとすればブッダの時代でも人生を消費しても不可能なぐらいの知はあったのですから。有害無益なものはほっておきなさいと、ちかずくんじゃないよと。

そんなことより人格を高め、悩み苦しみを無くすほうが先でしょうと。

どうせ学ぶなら自他生きとし生けるものに役に立つことを学んだらどうでしょうと。

<<最先端では常識である理論を踏まえない哲学のレベルはいかがなものかって疑念がわきました。>>

その最先端も不完全(最先端の研究をしているかたなら当然わかっているでしょうがwわからない事のほうが多くて、常識とされていることも調べると「多分~じゃない?」と言った単なる憶測で大した根拠の無い段階だったりすることも多い…と言うかほとんどがそんな感じですからw分析して分解して何とか使っているだけで本当はあまりわかってないのが現状だと、「私は思いますw。」)なものということもあるとは思いますが…。


しかし、論理的に実証的に明らかに間違っているものは「ただ言ってるだけ」の有害無益なものとして捨てれば良いと。そう思います。

ほとんどの哲学は結構危ういものと感じます。

言葉・一般的な範囲の論理(私は西洋論理学も結構怪しく感じてますからねw)や実際との対比・実証面など、気を付けて精査しないと、自分にとって有害になるかもしれませんし、人生の無駄な消費にもなります。

自分と他人と生きとし生けるものに役立つ(悩み苦しみを短期的中期的長期的に見て減少させることが出来る)ものの中から前提条件を持たず、「よりましなもの」を見つけるつもりで、見解に堅固にしがみ付かずに柔軟に。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

この回答への補足

「そういう憶測の論がそれなりにたっているのですね」
今の自分の知識と能力で理解できないものは、「憶測」とかいって済ますのが哲学者ってことでしょうか。
華氏3kだったかの温度を持つ電磁波が宇宙のあらゆるところで、あらゆる方向から飛び交っていることを理論的に考えると、遠い昔にビッグバンがあったことに理論的にたどり着くんですが、考える気も起きないということなんでしょう。
ここは、先端の話じゃなくって、基礎基本の話で、学生レベルだって理解できる理論だっていうのに、それを除けちゃうのが、今の哲学者なんでしょう。
少なくとも昔の哲学者は、こんな面白い理論は決して放ってはおかず、喜んで考えようと努力したはずだと思っています。
全てを否定するわけじゃないですけど、とっても高度な「ためになる話」としての存在意味はあると思いますし、人生に役立つこともたくさんありますが、やっぱりその程度だとおもいました。

補足日時:2008/10/10 09:52
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すみません。

 ANO8で回答したarayata333なのですが、その回答について 一応>疑念なのかどうか教えてください<という質問文の締めくくりに対応した補足要求の回答となっているかとは思えてはいます。

でも、そちらの意図したこととはずれているかもしれないな、 とも思えてきましたので 補足回答します。

私の中には 逆に科学者への疑問があるのですが、 それは最先端のその科学というのは私たちには簡単には説明が出来ない発見とかの世界となってしまっているのかもしれないのですが、  それがだいたいどのような発見であったりするのかは もっとテレビとかで解説出来るのではないのかな?と思えてしまうところからの疑問です。

科学の発展は もはや、それ自体は完成の域に近づいているのか? そのへんのニュースとか解説とかが それこそ重大だと思うのに伝わってこない理由が知りたいと 思っていたところに、  今回の30年も50年も前の理論の今となっての(実験機械の進歩とかその設置の資金とかを待つ必要とかがあったのでしょうが)受賞だったので、そのニュースの解説にも、一向にその理論の時間差への疑問とかに答える解説が出てこないのが気にかかります。



現在私はワーキングプアー状況に陥っています。 科学の勉強が出来ていない理由の一つです。


そこに陥った理由は、私の場合かなり複雑ですので略しますが、それが一つに最先端の科学にまで思索の目が向けられなかった理由です。

もう一つは、子供の頃ちょうど分数を習う時期に、体を壊し何度も死線をさまよっていたことから、 数学が理解できず(大学は推薦入学で入っています。)理数系に苦手意識を持って生きてきてしまった人間だからでもあるところです。

しかし、いつしか ある一つの表現ジャンルを研究してるうちに、それがすべての表現のジャンルと共通項を持っていて、それはそのそれぞれの本質をたどりつつも、総合的に考えてこそ それぞれが生きてくるということに気がつくようになり、  私はすべからく物事は総合的にこそ考えてゆくべきだし、そうすることによってより鮮明に物事は理解されてくるという考えにいたるようになりました。

いきなり そこから理数系にもさまざまな興味が出てきました。

総合の価値を知ってるものですから、すべてに対してとも言えます。

ほんの十年前には、私はまだ分母が下のあの分数の記号の分母と分子の意味さへ知りませんでした。 文明人ではなかなかそんな人はいないで笑。

もちろん、確率とか割合計算とかには その式を知らないなりに考えることは出来ましたけどね。

正直に告白しましたが、 ここからの科学への劣等感のようなものは、確かに大きい劣等感の一つです。

わたしこそ、たとえば「流体力学の計算」などとても出来る状態にはいないということです。

航空ドメスティックの現状とか未来のあり方とかを考えたりすることは出来ますが、 飛行機事故とボルト一つの関係すら何か思索の手がかりを得ることは出来ません。  整備はどうあるべきか、これにしても総合的に考えるのであれば抜かしていいような問題ではないはずです。  総合的思索家(哲学者)には、関係の無い技術者の力学知識の中での責任問題であるのだから関係ないと どうして事故という人間の問題をそう言えるのでしょう?

また、わたしは、 少し前に新聞でそれを知る前までは水が無ければ生物は生まれないと思っていました。 ところが今の科学では 水も酸素も無くても生物は生まれうるのはもう常識なのだそうです。

そうそると、わたしの宇宙感は、かなり違ってきてしまいます。

わたしには 熱で蒸発しない状態の星はまれであり、宇宙はほとんど地球のような青い星の誕生はありえないという感覚がありました。 宇宙は広大な砂漠のような星、あるいは熱した岩石と溶けた岩石しかないのが星達の実態だというイメージしかなかったところ、 もちろん他の星に生命の可能性なんて想像も出来なかったところなのです。 (青い星、つまり水のある大気の美しさの感性も持ってるつもりですが、 逆に無味乾燥な世界もリアルに感じてしまうところがある人間です。)

でも 宇宙人はともかく、 そんな世界にも 熱に強いなんらかのアメーバとか そこから地球とは別の進化を遂げた生物?が そこに歩いてたりする姿が、 現代科学では 可能性がある世界なのか?と  すっかりびっくりしています。

それは それだけのことでもあるのですが(^^:。



でも、では哲学ってでは何なのでしょう?

最も人間にとって必要なことは何か? そういう思索課題はあるのか?それはせっぱつまっているのか? ゆっくり考えていていいことなのか?  という点を見出し、最後に具体的なその見通しに時間的な行動の糸口を与えるところまでの思索のことなのではないでしょうか?

たぶん、ノーベル賞での この50年の時間差(その間にそれは哲学的に論破されてるかということも含めて)のあたりがうやむやなままなのは、あるいはそのように思えてしまうような情報の事態であるのは、  おそらく 双方の専門化が やはり分化しすぎてしまったのでしょうし、それでもいいのだというような無責任な認識に双方ともなんらかの形で陥っているという証拠なのでは と私には推理されてならないところです。

同じ「疑念」の段階なのかもしれませんが、 推理でも、ある程度推測されてしまうところかと思います。」
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この回答へのお礼

テレビは視聴者が瞬時に理解できないことは放送しません。
視聴率が下がってしまうからです。
例えば分数が理解できない人が多いと判断すれば、分数の話はタブーになります。
なんとなく意味が伝わりやすいと思えば、120%ありえませんとか、200%無いですなんて表現も平気です。
見ている人によりわかりやすいかどうかが基準です。内容が多少間違っていても視聴率のほうが大切です。
だから、本当に重要な事も(テレビがわかっているのかということもありますが)、視聴者が興味ないと判断すれば、ニュース価値はゼロで報道しません。
って、自分が解説していてどうするんだって感じですが、ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/12 13:40

ご質問に対する疑問を提示させていただきますが、 その前に



>宇宙(=この世)の始まり<についての私という哲学者(自分に出来る限り深く厳密に総合的に 価値や物事の見通しなどを思索してその結果解ったことについて他の人や社会に対してに責任を持って回答できると思えてる人の。、実際はそのレベルではないかもしれない。)の見解を書いてみます。

私は 肉体労働者として結構忙しく生きてきてしまった人間ですのでアカデミックな哲学の知識はほどんどありません。

あくまで解答じゃなくて、回答ですが、その回答に間違いがあるなら、間違いならはそれはそれとしつつ、回答としては そちらの意図とかと対峙する責任の下にこれを書いています。 (ややこしい書き方となってしまいました^^)。

私には 存在の存在する原因は 最初からそれがあったからとしか考えられないのですが、 これって一次元的な見方なのですか?

大地を端まで歩いてゆけば、巨大な空間に落っこちるに決まってるという単純な感覚と同じレベルのものですか?

わたしの場合は これに関して「いや違う」という理論をいちいち考え出すのがめんどうだったので、考えなかっただけですが、 

ここから神についても、 そういう存在に意味という存在があることを人間は知ってしまったのだから、最初からあったのは物質だけで無いという考えがあるだけです。 なんでそれ以上論議をする必要のあることなのかな?と思ってしまうところがあります。

まあ、最初に読んだ有神論と無神論の対立についての論文というのが、有神論の方は、なにかが支えれてるのはそれが雲の上からの手であれ何かの支える手があるからであるのと同じで、雲に隠れていまはそれが見えなかったりしても、存在してるという事実が意味するのは、神がそれをささえているからだ。 こんなあたりまえのことが解らないのか?という有神論者に対して、 雲の上に支えている神は誰が支えてるのか?という無心論者のお話、 あまりに馬鹿ばかしかったのでそれがトラウマになって その手の本とかを読む気がしなくなってしまったのですけどね。

いずれにしても、なんで最初からあったという「当たり前」のことについては前提としても 聞いたことが無いのか が気になります。


クォークですか、最小単位の数が3個でなく6個だと解ると ビックバンの時点での物質の半分が消えてしまったという謎が解るとかのテレビでの解説  最小と最大の極限の世界の話で すごすぎますが、   私にはビッグバンの時点で物質が半分も消えてしまったというのも初耳です。

でも これ 私の場合の宇宙の始まり(=この世の始まり)論とは関係ないのですけど。   そちらが考えて何か関係ありそうですか?

あるいは、私の考え(というか感覚ですが)間違っていますでしょうか?

私の中では、厳密もなにも、矛盾は無いのですが?



では、 そちらの質問に対する私の方からの疑問をこれから書かせていただきますね。

この世の始まりが解っても、 この世についての哲学がなんら少しでも解るとは思えないので この命題自体哲学的な価値があるのかどうか私には解りませんが、 物事の価値やその見通しの世界をより深くより鮮明により誰にもわかるように哲学してゆくにあたって、  この世(この人生)における「必要思索カテゴリー」って無限だとは私は思っていません。

このOKウェブの分類カテゴリーも たしかに大雑把とはいえ、あきらかにこの世の現象のほとんどをその立場から分類しているわけです。 哲学的価値から私が価値的と思う分け方をすると 私の場合は7つの大カテゴリーに別れます。  それは五感という生物の特徴の延長である人間の感性の世界と、 感情も含めた表現世界(大きくは 映像、言葉 演劇、歌舞踊、絵画、の6つ。 絵画を映像と分けるのは映像か機械的構成によって心を扱うのと、絵画のように直接心が現れもする世界との違いが大きいためです。) を 組み合わせて考えて そこから人間の生涯を考えて出てきた答えが 7つです。

その奥は、もちろんまだまだ分析途上ですけどね。(当たり前の話ですけど)

全体的に言えば組み合わせの思索の量とかは人生でのカテゴリー別けからの組み合わせの方が(質については、ここで組み合わせたお話とは考えないでください。)(また 将棋については「手損」って何かかさえ知らないですが)9マスの縦横の中での駒の動か方の数よりはるかに多いというのが一般常識なのでしょうが。  

本質を考え価値を追いかけてゆくならば、 将棋と同じようなものと私には言えてしまうように思えます。 これは こんなに簡単に書いてしまっては反論が無数にでてきそうですけどね^^)。

ともかく無限にあるとは思わないでおいてください。

さて、「最先端(の科学)では常識である理論を踏まえない哲学のレベルはいかがなものか。」との問いなのですが、

ここで詳しく 科学の世界のカテゴリーをも分析する必要はないかと思いはぶきますが、(天文、気象、電気、熱,音、光、力、生物、鉱物、化学、考古学とかの分類のことです。 これもさらに詳しくは 力学ならば
最先端の流体力学はいかに、といったことにもなるのでしょうが)

☆ よし、今回のノーベル賞の中の 「宇宙の始まり」についてのビックバンでの現象の大きな解明は、 哲学の中のどのカテゴリーの進展と結びついたものとして ここにその疑念がわいたのですか?

という疑問です。


おそらく もしかしたらですが、 今の哲学界がかなり非総合的な思索の遊び的な世界に逃避してるという疑いがあり、それを、浮かび上がらせたいための 引っかけ質問だったのかもしれませんね。 

わたしも、最近、ここで質問とか回答とかし始めてなんか、これはおかしいぞ、量ばかり膨れ上がってしまっていて、もはや自らの考えてることの位置すら考えるのを放棄しながら それでもその遊びに中毒してしまっているだけの世界がかなり蔓延してるのかもしれない? という疑問がいろいろと起ってきています。

中性子論については まったく知らない者の回答 やはり浅いですか?

一応 回答するために不足している情報などを質問者に質問する補足要求をともなう回答とさせていただきましたが。

oeelee-boyさんの次の指し手をお待ちします。  「損手」についても 素人にも解ると思えるものでしたら説明をお願いします。

この回答への補足

「損手」じゃないですよ。
「手損」ですよ。
手損も損手も同じに見える人なんだって思っちゃいましたので、突然にこのカテを締め切る危険があると思っていただいて正解です。
手損ですけど、符合で書いた方が解りやすいんだろうと思います。
始まってすぐに角交換する人がいますが、それは、「棋理に無い手」です。符合で書くと▲76歩、▽34歩、▲22角成、▽同銀のことです。
この局面を考えると、お互いに角道を開けた歩が突いてあって、持ち駒に角があって、後手だけさらに▽22銀と一手余分に指した形です。
将棋は、先手が指して、後手が指しますから、後手が先手と同じように指した場合は、先手が一手余計に指した局面と先手後手同型の局面とが交互に現れます。
先手後手同型の局面であれば、次に手を指せるのは先手な訳です。
しかし、上記の例の進行だと、先手後手同型にするには、先手が▲88銀と指さなくてはいけなくて、そこで始めて先手後手同型になって、先手後手同型の局面で次に指せるのは先手のはずが、上記の手順を進めた場合は後手になってしまっています。
あたかも先手と後手が入れ替わった様になってしまいます。
将棋はきちんと指すと形勢不明のまま終盤に入りますので、お互い最後までちゃんと指すと王様を獲られた側が後一手指したら、こちらも王様を取れる状態で終わります。つまり、お互いに王様を取り合って終わり、勝敗は王様を先にとった方が勝ち。
うっかり王手を見逃すんじゃないですよ。先手後手共に王様を取られるのを防げない状態になって、その時に手番を持って指せる方が勝ちになるってことです。(普通はその一手前(=先に詰まされた時)に投了しますので、そこからさらに一手進んだ、お互いの王様が詰んだ局面はあまり見られないと思いますが)
こう考えると、一手先に指すというのは大変大切なもので、その大切な一手先にさせる立場を、みすみす相手に渡すのは棋理に反するという訳です。
しかし、「後手一手損角換り戦法」というのが発見され、ある特殊な局面では、あえて手損しても、ぜんぜん不利にならない順があることがわかりました。大雑把に言うと、後手の攻めの桂馬が▽73桂▽85桂と進んでいくには、▽85歩は指さずに、▽84歩の地点で止めておいたほうがいい場合があるって戦法のことです。
この戦法の出現で、「角換り」という戦形にでの、後手の勝率がアップし、後手でしかも一手損しても、この場合はちゃんとした指してであることが証明されました。

補足日時:2008/10/12 09:58
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この回答へのお礼

大雑把な感じですが、物理は精神を扱っていないので、ビックバンが真実だとしても、精神の世界はその前後もずっとあり続けて問題ないと思いますし、ビッグバンも今の物質世界の始まりですから、今の物質世界の前には、違った世界があってちっともかまわないので、例えばTVでも、ごく短い時間ですが、物質と反物質が並存する世界があったはずだと解説していました。
宇宙にあまねく存在する宇宙背景放射線がなぜ存在する鹿野を離婚的に考えると、ビッグバンにしか行き着かないらしいですが、なぜこの理論に物理学者は興味を示さないのかってことで、私の疑念は、頭悪いからじゃないか、もしくは怠け者じゃないか。
宇宙にあまねくあるんだから、宇宙背景放射線って最も普遍的なものだと思うんですけど、考えることのプロだと思われる哲学者がなぜ無視できるのかという疑念です。
本質とか価値とか、そういうものを持ち出すと、宇宙放射線について考える「価値」がないって導けるんであれば、それは便利な魔法の杖ですね。

お礼日時:2008/10/12 09:25

アナタが頭悪いと言ってるんだから頭が悪いんでしょうね。


分からないものは分からないを認め、何故なんだろうって追求する
のが哲学でしょ?クオークだってクオークって誰が作ったんだろう
ってあなたはアタリマエの疑問湧かないの?
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この回答へのお礼

かなり乱暴な表現であったことはお詫び申し上げます。
クオークを「誰かが作ったもの」かもしれないなんて、一瞬も思い浮かびませんでした。そう発想する方もいらっしゃることを知り、とても勉強になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/11 08:26

こんにちは、DELTA=蘇芳と申します。

将棋に関しましてはあまり知識がないのでなんとも言えませんが、もしかして昔の「天動説が支持されていた頃に地動説を唱えると弾劾に遭う」というのに似た境遇とDELTAは理解しておりますが、いかがでしょうか…?

>有名だという受賞者の論文が引用とかコメントとかされないのは、哲学者の頭が悪いからでしょうか?
これは理論の問題というよりかは、受賞者の意向などで変化する問題だと思います。今出ていなかったとしても将来学校の教科書に出てくることは十分にあり得るでしょうね。ただ今出ていないだけ、というのもあるかもしれません。

>論理の最先端を踏まえない考察は「地球が丸いわけがないじゃないか、丸かったら下の人は天に向かって落っこちるというありえないことが起きるので、そんな説は論ずる価値は無い」っていうのと同じ程度の、下等なものって気がするんですが、違うんでしょうか?
一時期地球は「楕円か球か」という理論がなされておりました。聖書では「水の上に丸を描いて…」と球であることを訴えておりますが世界全体を示している世界地図は南極や北極海を含めていても楕円であることが多いです。(地図によりますが、楕円が多いです)
さて、哲学者さんによりますが通常球でも落ちないことなら今の科学では証明されているはずです(最もDELTAは詳しいことはわかってないので間違っているかもしれませんが…)太陽の引力と他の惑星との引力の関係、そして宇宙空間は無重力であること…。銀河、恒星、惑星の核に向って重力が働く(しかも表面に大気があってこそ物が地面に向かって落ちる)はずなのですが…。
しかし、この考えがないと基本哲学ができないはずですよ。それを生業としている哲学者さんはきっと私たちの思う「1+1=2」と同じと感覚なのでしょう…。「そんなイージーなことなど考えう必要はない」と思っているのでしょう。(しかしそう考えると1+1=2を証明しようとされている方々に失礼に思えるのですけどね…)

昔から人間は手探りでした。今もそうです。種痘のワクチンは牛痘でできてますが、当時の人々は「牛痘なんて注射したら牛になってしまう」と言って拒絶しました。天動説支持、病気は祈祷や血抜きで治るというものも今となっては「お前はアホか」と笑われるかもしれませんが、昔では立派な「方法」だったのです。
今は下等な理論かもしれません、しかし同じくこれは下等な考えでは、と思ってらっしゃる方々がしっかりした考えを突き止めてくれるはずでしょう。…このような問題は人々の頭と時間が解決するのかもしれません…。

最後に、長文をお詫びいたします…。
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この回答へのお礼

ガリレオの時代にも、地動説の理屈はわかるが、主張すると教会に弾圧されるので、自分の頭の中だけにしまっておこうって思った人はいると思います。しかし、そういう人は少数で、多数は、頭が悪くて、そもそも理論を理解できない悔しさから、むきになって弾圧に加担したのではないかと想像します。
学問がどんどん進んでしまった今の哲学者は、後者じゃないかって、私は疑念を持っています。さすがに教会という権力と結びついていませんから、弾圧はしていませんが。
最先端まで知ることを求めていないですが。最先端から判明した、その道の基礎とか常識とかは、いわゆる大学で基礎として講義されるレベルまではは知っておかないと。
例えば、人の犯罪を裁く刑法の世界では、Aがある時間に甲という場所に居たことが証明されれば、同じ時間に乙という別の場所で発生した犯罪の犯人ではありえないって、アリバイっていうんですか、そういったことは、刑法の世界では正しい理論ですけど、素粒子の世界では、範囲は原子とか原子核の内部って限定はされるんでしょうが、その中では、ひとつの素粒子が同時に別の場所に存在するそうで、それはもう常識らしいんですけど。
理解できないからという理由で、そんなことはありえないって否定するには、ガリレオを率先して糾弾した頭の悪い学者ってことになるんじゃないかって疑念をいだいているわけです。
まあ、そんな哲学でも、精神科の臨床医の様に、哲学に迷う患者を正しく導くスキルとテクニックは持っておいでにはなると思うんですので、それなりに意味があるお仕事だとは思いますけど。というより、患者と通じ合う部分を持っていないと、そもそも会話も成り立たないですから、その部分はむしろ哲学者にとって大切なものかもしれませんが。

お礼日時:2008/10/11 09:21

科学者は自然がそうあるのは必ず理由があるといって、その原則又は原理を探求してますね。

今回のノーベル賞の理由は対称性が壊れるためには6個のクオークが必要だということですね。これは自然の探求の結果ですから立派なものですね。
さて、逆に対称性が壊れるためには6個で十分というのはわかりましたがその6個はどうして存在してるんでしょう?と問われると科学者はどう答えるかなんですね。偶然に6個ができたことはないでしょうから6個が必然だとすれば誰かが設計しないと先に進みません。科学者の立脚点は現在がそのように有るのでさかのぼればこうでないといけない。という論理のたてかたなのです。これは例えていいますと、家がある、この家は10年ほど経っている、木と金属を使っているなどなどを分析探求する賢いあり方式なんですね。家は私が建てたという発想法ではないですね。つまり哲学者はどちらの発想もできるんですが特にミクロの積み上げ方式に固着しない方が多いということでしょう。
それから、聖書の創世記の冒頭に「光りあり」と書かれていますので始まりがあったことは遥かなる昔から信じられていたことですね。思想家にとってビッグバンなどは目新しいことはないのです。
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この回答へのお礼

クオークは、必然的に6個あるなんて、科学者は言ってませんよ。6個のクオークを想定すると物質世界の事が矛盾なく説明できるっていってます。
このことを哲学者はキンプンカンプンなんじゃないかって私は言っているんです。
論理物理学は紙と鉛筆があればできる学問です。それを検証するには巨大な設備が必要ですが。
物理学者が言っている事を理解しようともしないで、「何が哲なることを求める」のかって意味です。
私は哲学者じゃないので、お勉強するのは時間ができてからにしようと思っていますが、正しく考えることのプロはそれじゃ失格じゃないかって思います。
「光りあり」のくだりも、論証としては死を考える人に向かって、とにかく死は訪れるんだからそれでいいじゃないかって言っているのと同じですから、ってわからない人はわからないんだけど。

お礼日時:2008/10/09 09:55

一ついえることはあなたの将棋の話はおかしいということです。


つまり将棋を挿入して勝手な疑念を提出している。
まず、宇宙と将棋の関係性から説くべきですね。

議論はそれからです。
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何かの参考になれば幸いです。



<<宇宙の始まりの論理について哲学者がコメントもしくは論破されているのをご存知の方がいらしたら、教えて欲しいです。>>

ブッダ(ゴータマさん)は全ての現れている現象は前の現象の原因であり結果であるから始まりと言うものは成り立たない「無始」だと言うようなことをおっしゃっていたと思います。始まりがあったならその原因は?と。。

<<論理の最先端>>

僕にとっては「パーリ語の仏典」に記されている論理が最先端の常に論理と感じています。

<<哲学者は「当たり前のこと」を前提にして考察していますが、その「当たり前の事」のレベルが低いと考察のレベルも低いでしょう。>>

でしょうね。語る人にとって「当たり前のこと」にしがみついて壊そうとしない。そのことから数多なる誤知が生まれますね。。。

自分が考えた範囲とそこらえられたその結果という範囲をきちんと提示せずに、根拠は無視して何かを「絶対に事実!」と捉える姿が良く観られますね。

<<最先端では常識である理論を踏まえない哲学のレベルはいかがなものかって疑念がわきました。疑念なのかどうか教えてください。>>

「最先端では常識である理論」も疑って検証しなければなりませんね。そうじゃなければ上記したものとおなじことになってしまいます。

世間で最先端と言われていても「世間の評価」なんて結構いい加減なものです。世に見る科学信仰の様子を見れば一目瞭然でしょう。

大切なのは自己の理性をもって論理的に道徳的に実証的に穴が無いか常に根拠を論拠を証拠を大切にして自己の見解にしがみつかずに検証していくことでしょうね。

ブッダ(パーリ語の仏典)はこの方法を具体的に詳細に語られているのだと私は理解しています。

哲学も最初の命題なるものの立て方が間違ってしまったら、どんなにもがいてもただのゴミですね。結構言葉を使うことは難しいですw

出来るだけ分析的に我々が感じられる根拠・データを中心に始めなければ、失敗する可能性は大きいですね。

評価されているされていないに関わらず。。。

この回答への補足

因果でいうと、ビックバンは物質世界の始まりです。
物理学では心の世界は扱っていませんが、ざっくりこの世は物質世界と精神世界でできているとして、精神世界はビックバンの前にも存在しているとすれば、お釈迦様の因果のご説明も矛盾しません。
また、物質世界も、前の物質世界から、今の物質世界にビッグバンで変化したと考えれば、こちらも矛盾しません。
前の物質世界の物質って何?っていわれても、それは解りませんが。

補足日時:2008/10/09 09:33
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私も、1,2回ググった程度なんですが、宇宙にあまねくあるものが、宇宙背景放射という電磁波なんだそうで、これが宇宙にあまねくあることから、約137億年前に今の物質世界の始まりがビックバンだったことが、証明されるんだそうです。
観測の結果が、世界にあまねく宇宙背景放射がある。
で、そのことの論理的帰結が、今の物質世界の宇宙のはじまりにビックバンがあった。になるんだそうで、論理的にどう考えるとそういう帰結になるのか、私には解りませんが(勉強すればわかるのでしょうが)、こういったことに興味がなくてよく哲学者やってられるもんだって気がします。
論理物理学もいろいろ流派があって、流派が違うと仲が悪いらしいですが、哲学なんていう流派だと、口も利かないくらい仲が悪くなるだろう事は想像できます。
気の会う同士で評価しあっているっていう、まあ、俳句とか日本画壇とかがそうなんですが、それなりの芸術性はあるんでしょうが、哲学なんかもそんな世界のひとつだと思っているんですけど。
宇宙にあまねくあるものとして、宇宙背景放射っていうのが見つかっても、気分じゃないってことで、無視するのも解る気がします。
ギリシャの先哲も、仏陀も当時の先端学問は理解していたんだと思いますが、今の学問は量が人間の時間をはるかに越えて存在しているから無理なんでしょうか。

お礼日時:2008/10/08 13:20

こんにちは、



科学と哲学では考察の対象がちょっと違うのでお互い参考にならならいように思いますが。
例えば、人が生きる意味や価値について科学はどんな回答をするのでしょうか。
また、この命題について研究している科学者がいるのでしょうか。
科学と哲学はそれぞれベクトルが違うのでお互いに踏まえろといわれても困るのではないでしょうか。
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