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第一次世界大戦前のハプスブルグ帝国の光の面と影の面はそれぞれなんだと思いますか?どんなことでもいいので、教えてください。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

この時期はハプスブルグ帝国の最後の残照にあたるころです。


オーストリア帝国は多民族国家として広大な国土を有してきましたが、ハンガリーが独立の意思を示してきたのでついに独立運動を抑えるため二重国家の形態をとらざるをえなくなりました。
それでも国内の独立機運を抑えきれず不穏な状況が続きそれが皇太子夫妻のセルビア訪問時に暗殺事件を生じてしまい、皇帝はついにセルビアに最後通告をせざるをえず第1次世界大戦の勃発となりました。

しかしこのころはウイーンは芸術の都として、世界の中心的位置を形成して自由な機運に満ち満ちていました。

皇帝は国家の衰運をなんとか立て直そうと努力を重ね、弟をメキシコ皇帝に送り出しましたが、メキシコ国内の反乱で銃殺されるという不運に見舞われまさに八方塞がりの状態の中で帝国の終焉を迎えたのです。
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光の面


1867年オーストリア・ハンガリー二重王国をつくった。
1858年、排他的な民族主義と対峙するコスモポリタン的な近代都市としてのウィーンを完成させる目的で、フランツ・ヨーゼフの命により、それまでウィーン市内を囲んでいた城壁は撤去され、リングシュトラーセ(環状道路)が建設され、環状道路沿いにウィーン宮廷歌劇場などが建設された。
1873年にはウィーン万国博覧会が開催され、ユダヤ人をはじめ、民族に関係なくウィーンに人が移住するようになり経済が発展した。

影の面
1914年6月28日(日)ボスニアの首都サライェヴォにてオーストリア皇太子フランツ=フェルディナント大公夫妻が暗殺された。

皇太子フランツ=フェディナントはフランツ=ヨゼフ皇帝(実質的な最後の皇帝)の甥にあたる。
フランツ=ヨゼフの皇子ルドルフは1889年に情死、変死。皇后のエリザベート(シーシー)は1989年にジュネーブにて一無政府主義者により暗殺された。
エリザベートの時まで、ハプスブルク家では皇后は王室の出身でカトリック信徒でなければいけない家訓があったが、フランツ=フェディナント皇后、ゾフィーはボヘミアの伯爵であったため、ホーエンベルク大公妃の称号は与えられたが、フェディナントとの間に出来る子供にハプスブルク家の帝位を継がせなかった。
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