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日本の政治形態についての質問です。特に武家社会前、つまり天皇が最高職だった次期から明治維新後までの政治形態の流れを知りたいです。

鎌倉時代前??までは、最初に記載したように朝廷(天皇)が政治のトップだったと思いますが、その下には公家といういわば官僚?の人々がいましたよね?たとえば、太政大臣とか中納言とか小納言などなど、、
その後、武家政権になってから、武士も公家になれる機会?も増え、官僚の人々ではなく武士も、政治にかかわるようになり、最終的には天皇の位を武士(将軍)がトップに躍り出ましたよね?

その後武家政権が約700年間?続き徳川慶喜後の明治維新には、太政官制度が導入された。
と、かなりあやふやですが、質問です。
武家社会の時は、太政大臣、小納言などの役職は武士が就いていましたよね?もしそうなら、それまでの公家の人々はどこにいったのでしょうか、約700年間??

そして、明治維新後にいきなり公卿の三条実美が太政大臣となりましたがそれはなぜでしょうか?彼は、武家社会の間はどういう地位にいたのでしょうか?公家と武士の関係がよくわかりません。

お願いします。もし、私の解釈に訂正がある場合は
お願いします。

A 回答 (5件)

歴史は、その時代の権力者が改ざん(作成)します。



日本の天皇は初代から現在まで継続している、世界で唯一の世襲です。
天皇の継続図から、150歳以上生きた天皇がおり、100歳以上生きた天皇が沢山いた事になります。
この継続図は、第2次世界大戦前に作成されたと言われています。
戦国時代終焉、明治維新、世界大戦、天皇が御旗となりました。つまり天皇は戦争を正義化する為の道具です。

天皇陵(古墳)を宮内庁が管理しているのは、この歴史を守る為です。

現在の大阪城の堀は、徳川家康が豊臣秀吉の堀を埋めて作成した事は昭和後期に判ったことです。
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武家政権はトップではありません。

そもそも「征夷大将軍」という役職は天皇から与えられたものです。ということは、将軍は天皇の部下にあたります。

武家政権は権力や影響力があったとしても、天皇の権威には勝てません。例えば、戊辰戦争では錦の御旗を幕府軍に見せつけ、幕府軍が朝敵であるこおとを示しただけで兵の戦意を喪失させたみたいですし。
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最終的には天皇の位を武士(将軍)がトップに躍り出ましたよね?


>違います。
日本は現在に至るまで、天皇を統治者とした官僚社会です。
織田信長も徳川家康も明治維新の立役者たちも目指したのは官僚つまり行政のTOPです。
決して国家統治者を目指したわけではありません。
明治以降立法が行政から分離しましたが基本的には其の体制は変わっていません。
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 元々、大納言・中納言・少納言は複数おり、武家社会のときは公家と武家のどちらもが同時に任命されていました。

室町幕府のとき以外は武家は京都にはいないので(室町幕府のときであっても、幕府の中央組織の人間以外は普通京都にいない。)、京都で行われる朝廷の会議に出席するのはほとんど公家だけでした。

 武家の朝廷における官職は、実質的に名前だけの「名誉職」であったわけです。

 太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣はさすがに一人だけで、(太政大臣は、通常は空席のことが多い。)武家と公家が同時に同じ職に就くことはありませんが、これら4人の全てが武家になったことはなく、武家が大臣になっても普通一人だけで他の大臣は公家のままです。

 ですから、朝廷の運営は欠席している武家の大臣を省いて、公家の大臣を中心に、公家の役職者によって行われていました。
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江戸時代は徳川家と公家の間で結婚などしていました。


公家と武士の関係は、親戚関係になります。
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