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例えば、
●沖田総司は、美形ではなくヒラメ顔だった
●長篠の戦は本当は行われなかった可能性が高い
●赤壁の戦いの本当の功労者は周喩である。
など・・・
他にも、世間一般で誤解されている事実があったら教えて下さい。

A 回答 (16件中1~10件)

こんばんわ。

こういう話は大好きです(^^)。
まだ出てないところで挙げますと、

●沖縄県にあった琉球王国は、現在の観光案内などでは
“軍隊の無い平和な島国”
という触れ込みになっていますが、史跡として残っている王国時代の石畳は軍用道路で、港の石垣は大砲台跡です。
大砲をぶっ放して海賊を追い返したこともあります。

正確に言うと、琉球王国時代の兵士は、普段はデスクワークをこなす役人で、非常時に戦闘に参加するので、“職業軍人がいない”という意味でなら、確かに“軍隊がいない国”です。
が、その場合、江戸時代の徳川幕府政権も同じ状況なので、オキナワもヤマトも大して差は無い、ということになり、御当地の方々が強調したがるような“沖縄(だけ)が軍隊の無い平和な島国”ではなくなってしまいます(^^;)。

なお、琉球列島の火薬兵器の導入(大陸原産の三眼銃。防戦用)は、種子島に火縄銃が来たのより100年ほど前です。これもあんまり知られていない気がする。

●火薬がらみでもう一つ。
江戸時代の「大塩平八郎の乱」ではロケット弾が使用されました。
(どこで仕入れたのやら…)

●江戸時代、武士の持つ刀は“いざとなったら人が斬れる”のがタテマエなので、幕府公認の“試し斬り専門”の一族がいました。
(試し斬りは、八代将軍・吉宗くらいの頃までは本当に生きている罪人でやったそうです。中期以降は死にたての罪人の死体を使用)

試し斬りの他に、切腹時の介錯役もやりました。確実に生身の人間を斬れる技術があるのが彼らだけなので。

●マルコ=ポーロは実は中国に行っていない可能盛大。

この時代、シルクロード途中の国や中国(元王朝)には、イタリアの商人や職人は沢山いて、北京にはカトリック教会までありました。
彼らの手紙や日記は今でも残っているのですが、そこにはマルコ=ポーロのマの字も無いそうです。

もしもマルコ=ポーロが世間で思われているほど出世した人物なら、同国人の記録にカケラも出てこないのは不自然なので、そういう人物はいなかった、と考えるほうが正解だということです。
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この回答へのお礼

●沖縄自体に行った事が無いので、琉球王国のキャッチフレーズも始めて聞きまし た。でも私も琉球王国って平和な国の印象持ってました。
 火薬兵器の伝来が日本より100年も早かったって言うのは驚きです。
 日本の応仁の乱なんかより、ずっと昔な訳ですよね。
 やっぱり沖縄は、日本であって日本とは別の文化を持つ国ですね。
●大塩平八郎の乱でロケット弾!? 本当に何所から仕入れてきたんだ…。
 日本まだ開国前なのに。先見の明があったんでしょうか。
●‘試し切り専門”の一族…。めちゃめちゃダークな一族ですね。 
 あまり継ぎたくない家業ですよね。
 こういった一族は、幕末まで存在したんでしょうかねぇ。
●マルコ=ポーロ中国に行ってない説
 こういうのって実際の真偽が凄く気になります。
 タイムマシンとか出来たら確かめにいけるのに。
たくさんの回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2003/01/16 14:27

#13です。

補足。
縄文時代のことについては、三内丸山遺跡、上野原遺跡の発掘・研究が大きいと思い
ます。
実際の功績は「理系」の研究者。残っていたクリの花粉のDNAを分析して「これは
野生のものを撮ってきたのでなく、意図的に栽培されたものである」と解明したり、
黒曜石の原子解析で、「長野県で産出された黒曜石が全国に流通していた」とわかっ
たり、農学部や工学部の研究発表が進みましたから。
これに対して、考古学の関係者は「偉い先生」の発表が優先しちゃうんだな。(文系
の皆さん、気に障ったらごめんね)
いまでも、三内丸山遺跡の建物の「復元模型」は、「縄文人がそんな立派なものをつ
くれるはずがない」という先入観から、各説のなかでいちばん粗末な「やぐら」にな
っているけれど、実際は屋根も壁もある建築物だった可能性が高い。

暦でいえば、陰暦(旧暦)では「月の満ち欠け」が基準なので、当然、「太陽基準」
の陽暦と「ずれ」が出てきます。旧暦では「1月1日は必ず新月」大晦日は真っ暗だ
し、「お盆は必ず満月」だから、炭坑節の「月が出た出た」の盆踊りが成り立つ。年
に何日もずれるから、調整のためには「月」単位であわさないと、正月を夏にしなく
てはいけなくなってしまう。
ちなみに、うるう年の微調整を2月末にするのは、それが「年末」だったから。

織田軍の持っている鉄砲は、当時、全軍あわせて1000丁しかなかったから、3000丁の
鉄砲隊自体が不可能なんですね。昔の火縄銃は、筒先から粉末の火薬を入れ、棒で突
き固め、弾をこめ、また棒で突き固め、発射した後、火薬カスを掃除して…、という
作業が必要だったけど、
100m先から迫ってくる敵(丸い鉛ダマではせいぜいコの暗いの射程でしょう)を連発
でとめるには、騎馬隊のスピードを10秒/100mとしても、30秒で一連の作業を終
えて次の構えに入らなくちゃいけない。
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#9のものです。


まずhurubaさんの質問に答えると:
>昭和天皇が不快に思われたのは、靖国神社が先走って合祀をしたからなのでしょうか。それとも、合祀そのものが気に食わないものだったのでしょうか…。

 後者です。それで昭和天皇の側近が反対したにも関らず当時の宮司が合祀を強行したそうです。

 秦氏の論文によると、A級戦犯を合祀したことは、靖国神社の百年史には載っていないそうです(その他の中に入っているのではないかと秦氏は述べています)。また、昭和天皇の意向に気を配る宮司の時代には、靖国神社の中に分社があってそこに祀られるだけだったそうです。(戦犯が祀られていないというのはこの時代のことかもしれません)

>確かに、松井被告一人の責任ではないし、その罪を1人にかぶせる訳には行かないけれど、中国側の心情を考えると何が一番最善だったのか難しいと思います。

 中国人の心情はともかく、南京虐殺の裏には、休みもなく(上海を攻撃した直後の軍隊が南京に回されました)、食料も支給せれず(現地に住んでいる人から取り上げろ)、娯楽も用意せれず(アメリカ軍は一度戦闘に出ると後方に戻って休みをもらうローテーションがあるそうです)こきつかわれた兵士たちの爆発という側面があります。

 それはともかく、何が一番最善だったかということになると、公式記録や当時現場にいた兵隊の証言、日記をきちんと保存するべきだったでしょうね。それを怠ったから水増ししたしないの水掛論になっていますから。
 これも意外と知られていないことなのですが、旧陸軍士官学校在籍者の同窓・親睦団体である偕行社がは南京での虐殺などなかったということを証明するために調査を行いました。ところが、彼らの意に反して虐殺を肯定する資料がみつかってしまいました。
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/index.html
あたりに詳しい経緯がありますからこちらをご覧ください。


>文芸春秋は、図書館でバックナンバーを探せば簡単に見つかりそうです。機会があったら読んでみます。
パル判事判決書の方は・・・ちょっと難しそうですね。日本語? もう少し簡単そうなの見つけて調べてみます。

 日本語です。大きな図書館に入っていると思います。
 分厚くて字が細かくて読むのがしんどい本です。ただ、「もう少し簡単そうなの見つけて」というのはお勧めできません。「簡単そうなの」にはパール判事が無罪論を展開したことは書いてあっても、虐殺はあったと認めているところまでは書いてないと思います。図書館で探して関連しそうなところだけ拾い読みされるのがいいと思います。

あと、#14の方が「靖国神社への、A級戦犯の、合祀を、諸外国が認めた」と主張されていますがこれは誤解ではないかと思います。

先に挙げた秦氏の論文(文藝春秋の2001年11月号)に拠ると、
「日本政府は条約当事国(旧連合国)と戦犯たちの仮釈放を交渉、最後のA級が出所したのは31年3月、BC級は33年5月だった。戦犯刑死者(法務死と呼んだ)遺族への年金や扶助料の支給も、超党派の立法府に後押しされ、援護政策の一環としてこれより早く28,9年より始まっていた。
それを戦犯の法的復権とみなして34年から靖国合祀が始まったのだが
<以下略>」
という記述はありますが、それ以外に諸外国が何かを認めたことについて述べているところはありません。
 この論文は、諸外国が首相の靖国参拝に口を挟むことに関してその不当性を主張する論文ですから、もし本当に諸外国がA級戦犯の合祀を認めていたのなら自由主義史観の旗手の一人である秦氏がそのことを書き落とすことはないと思います。
 まぁ、戦犯を釈放したり、戦犯の遺族に年金等を給付することに関して諸外国に対してお伺いを立てたことは上記の通りですし、それに社会党などが関っていたことは当然あったと思いますが、それにOKを出したことを持って戦犯でなくなったとか、靖国合祀に賛成したことにはならないでしょう。(そういうことにしたい人はいるでしょうけど。)
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靖国問題について少し詳しく。


社会党が「A級戦犯を合祀しろ。」といった時点ではまだ戦犯扱いでしたが、さすがに戦犯を合祀するのはまずいだろうということで、関係各国に罪を許して欲しいと要請したところ関係各国総て、中国、韓国含めて総ての国が了解し、一般人として合祀されました。
ということらしいです。
罪を許すと言っておきながら、そんなことは無かったかのように文句をいってくる中国、韓国はまともな国ではありませんね。

この回答への補足

たくさんの回答をありがとうございました。
予想していたよりずっと多くの回答をいただけて、その中には始めて知った事や、興味を刺激するような事がたくさんあって、読んでいてとても楽しかったです。
私の歴史への興味は、律令政治の天皇家や、平安の貴族にときめいて、武士の時代の到来にワクワクし、幕末でそのワクワクは最高潮に達して、明治以降の政治中心の歴史になって急にテンションが下がるといった感じなので、戦後については全然知りませんでした。
今回、極東裁判や靖国問題などの話が聞けて、近代にも新しく興味が持てそうです。
XOPCさんの補足覧をお借りして、お礼を言わせて頂きます。
本当にありがとうございました。

補足日時:2003/01/16 15:16
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この回答へのお礼

2度目の回答ありがとうございます。
靖国問題の合祀の経緯がやっとハッキリしました。
現在靖国神社に合祀されているのは、戦犯ではないのだから、中国・韓国が文句をつけるのは正当ではないですね。
確かに心情的には穏やかでないものがあるでしょうけど、それを公式に文句つけるのは一度下した決断を蒸し返す事になるはずです。
話題の事件を全然知らなかったのはちょっとショックだったので、新聞くらいこれからは目を通したいと思います。

お礼日時:2003/01/16 15:15

「長篠の戦い」そのものがなかった、というより、「3000丁の鉄砲隊による3段撃ち」の戦いがなかった、ということだと思います。

この戦いで死んだ部将もいるから、戦い自体がなかったわけではないと思います。

●「September」以後の月の読み方が2ヶ月ずれているのは(Sept・・は7の意味)、「July」と「Augusut」が割りこんできたから。
→もともと、「3月」が年の始まりだったから、Septemberが7番目の月で正しい。いくらなんでも、2ヶ月も割りこんだら1年が何日になるんだ?

ちょっと前まで、縄文人は野蛮人だった、農耕は弥生人が始めた、というのが教科書でも大手を振っていました。
某「神の手」の先生の発表を信じて「旧石器時代」を公認していた考古学会も。
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この回答へのお礼

「長篠の戦い」については、大学のオープンキャンパスで、
「3000丁の鉄砲隊が三段撃ちしたとすると、敵方の武将は3キロに並んだ鉄砲隊にまっすぐ突進した事になる。」
といった話を聞いて(なんでこんな事に気づかなかったんだ!?)って、
目から鱗でした。
確かに戦い自体はあったんですよね。ちょっと言葉不足でした。

●Septemberって、7の意味だったんですか?
じゃあ外国人は日本に来て混乱しますね。 
3月が年の始まりという事も始めて知りました。
でも、2ヶ月も割り込んできたら絶対に混乱しますね。
そういえば昔は閏月があったそうな。こういうのもその時に一括に整えられたんでしょうか。
●縄文時代にも農耕があった。コレって何時から認められたんでしょう。
小・中学生の時は、普通に農耕は弥生時代からって教えられていて、3年後高校で日本史をやっているときに初めて縄文時代に農耕があったことを知りました。
単に高校生になったから、学習内容が増えたのだと思っていたのですが、教科書から誤解されてたんですね。
歴史って色々と事実が発見されるからおもしろいです。
かいとうどうもありがとうございました。

お礼日時:2003/01/16 15:07

hurubaさん、こんばんは。

だいぶ回答が集まっていますね。

>少し詳しい人には常識だが、世間一般には誤解されている歴史事実
「少し詳しい人」が、どの程度なのかが難しいですが、思いついたものをあげてみました。

●日吉丸(豊臣秀吉)は、蜂須賀小六と矢作川にかかる橋の上で出会っていない。(「太閤記」より)
その年代には、矢作川にまだ橋はなかったという調査結果を読んだことがあります。

●織田信長の「桶狭間の戦い」は、上洛を目指す途中の今川義元軍を破ったのではなく、通常の国境紛争だった。(実は義元を討ったのは、予想外の戦果)
「信長記」著者の小瀬甫庵が、桶狭間の勝利をよりドラマチックにするために偽ったという説を、聞いたことがあります。
(小瀬甫庵は「太閤記」の著者でもあります。参考URLをどうぞ)

●豊臣秀吉の有名な馬印「千成瓢箪」は、実際には使用されていなかった。
戦さに勝利するたびに、瓢箪の数を増やしたというあの有名な馬印は、実際は創作だったという文章を読んだことがあります。(記録が見当たらないらしい)

上記内容がどの程度正確なのかは、私もよくわかりません。「真実の歴史」というような本に書いてあることが、本当に客観的な事実かどうかも疑問ですね。(著者の意見、自説を述べているものが多い)
歴史になっていても、それが事実かどうか確認することは、とても難しいと思います。(だから、面白いのかも)
将来は、ぜひそちら方面に進んで、いろいろ教えてください。

参考URL:http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon09.h …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
色々な回答がいただけて本当にありがたいです。
「太閤記」は、小学生の頃、子供向けに編集されたものを読んだ事があるのですが、随分前のことだし記憶がおぼろげです。凄く面白く読んでいた記憶はあるのですが…。落ち着いたら(今、受験生)、のんびりと読みたいです。

信長や秀吉といった、日本史界の超大物(笑)だと、やっぱり創作も多いですよね。
創作が抜けると味気なくなっちゃうし、創作だと思っていてもおもしろいものは面白いので、それはそれで良いのだけれど、ハマってくると真実も気になりだすんですよね。

歴史の事実を確認するのは、本当に大変な事だと思います。
いくら想像や理論を膨らませても、証拠がなければ机上の空論になってしまう事も多いでしょうし。
将来自分が歴史家になるという予定は無いのですが、色々調べてそれをホームページなどにアップしたりできるといいなぁとは思っています。

お礼日時:2003/01/16 14:46

こんばんは。

ネタをと思って確認に検索してたら、新しいネタが出て来てしまいました。(爆)

私が思い出したのは、ガリレオが「それでも地球は動いてる」って話は有名ですが、ブルーノという人は地動説を主張してゆずらず火あぶりになってます。
ガリレオは軟弱だ!!・・・と言いたかったのですが、これを念のために調べてたら、こんなページが出て来てしまいました。

http://www4.justnet.ne.jp/~n.takemoto/chidousets …

これによると、地動説を最初にとなえたのは、コペルニクスじゃなく、「古代ギリシアのアリスタルコスという人」だそうです。
私も知りませんでした。(爆)

ついでに、アメリカ大陸を発見したのはコロンブスでもアメリゴベスピッチでもありません。
そこにいた原住民、アメリカインディアンです。

当然、マゼラン海峡だって、そこに原住民の焚くかがり火(あるいはたき火かも)をマゼラン自信が確認してます。

ちょいと入門編的ですが、アメリカ南北の大陸の間の大西洋側にある小さい島々を西インド諸島というのは、コロンブスはそもそもアメリカじゃなくてインドに行くつもりだったので、その島々をインドの一部だと勘違いして命名した結果だそうです。

こういった大航海史では、全てがヨーロッパだけによる視野で見られている事は、結構、誤解を呼んでると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。教えていただいたページ少し覗いてみました。
私は、アリスタルコスの方は聞いたことあったけれど、ブルーノの名前は始めて聞きました。(多分世界史の授業で)
ガリレオは軟弱だ!!に笑いました。確かにブルーノに比べたら軟弱ですよね。
それでいて、知名度はガリレオの方が高いのだから、ブルーノさん、お気の毒です。

アメリカ大陸の発見も、マゼラン海峡もそりゃあ原住民が一番ですよね。
そういえば、アメリカ大陸を一番最初に発見したのは、コロンブスの船に乗っていた水夫で、コロンブスは事前に彼らに
「一番最初に新大陸を見つけた者には賞金をあたえる」
と言っていた為、水夫は喜んで報告したのですが、結局水夫は賞金も貰えず、最初に大陸を見つけたという名誉もコロンブスに奪われてしまったという話を聞いた事があります。なのでコロンブスは嫌いです。
西インド諸島の話は有名ですね。コロンブスの誤解が現代人をもたまに混乱させるのだから迷惑といったら迷惑です。

考えてみたら大航海史は、ヨーロッパばかりのもので<世界史>としては、ちょっと違和感がありますね。
時間が出来たら世界史についてももっと調べてみたいです。

お礼日時:2003/01/16 14:05

そうですねぇ。


 A級戦犯を合祀したのは靖国神社の先走りで、昭和天皇はそのことを不快に感じて、靖国に参拝するのをやめた、というのはいかがですか?
 また、A級戦犯を合祀したのは昭和53年ですが、当時はさほど問題にならなかった、というのも意外と知られていません。(詳しく知りたいのであれば、文藝春秋の2001年11月号の秦郁彦氏の論文をご参照ください。)

 ついでに書くと、東京裁判で日本無罪論を展開したパール判事が南京虐殺に関するいくつかの証拠については却下してから、それらの証拠を否定してもなお、虐殺があったことは否定できないが、訴えられている松井被告にその罪をかぶせるべきではない、ということで無罪を主張した、つまり無実ではないが無罪であると主張したことも知られてませんねぇ。(こちらはパル判事判決書を丁寧に読めば載っています。)
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この回答へのお礼

A級戦犯の合祀って戦後から結構時間が経ってなされたんですね。
昭和天皇が不快に思われたのは、靖国神社が先走って合祀をしたからなのでしょうか。それとも、合祀そのものが気に食わないものだったのでしょうか…。
小泉首相は戦前生まれとはいえ、年齢からして戦時中の記憶はほとんどないはずです。その点も何か関係しているのかもしれませんね…

南京大虐殺は、中国人が主張するほど大規模なものではなかったらしいですけど、中国人から見たらそのパール判事の主張は不愉快に違いないでしょうね。
確かに、松井被告一人の責任ではないし、その罪を1人にかぶせる訳には行かないけれど、中国側の心情を考えると何が一番最善だったのか難しいと思います。

文芸春秋は、図書館でバックナンバーを探せば簡単に見つかりそうです。機会があったら読んでみます。
パル判事判決書の方は・・・ちょっと難しそうですね。日本語? もう少し簡単そうなの見つけて調べてみます。

お礼日時:2003/01/16 13:46

1)ほかの質問の答えにも書きましたが 靖国神社に戦犯も祭るよう 推進したのは社会党だった。

 社会党の女性議員が国会で 遺族が肩身の狭い思いをさせられている、もう靖国に祭ってあげたら 吉田内閣に詰問したので 合祀がなされたの言う事実。

2) 源義経、 昔習った漢文の 日本外記だったか外史だったか 面白(オモシロ)く、歯出でてとありました。 色白ででっぱで 確かちびだったようです。 悲劇の英雄、いい男の代表のイメージとはかけ離れていたので思い出しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
1)え~と、No.6の方の答えとごっちゃになって(?)になったんですけど、
つまりは、靖国神社に祭られている人たちは、合祀された時点では戦犯ではあったけれど、その後外国に罪を許されたので、今祭られている彼らはA級戦犯ではなくて、一般人である。
ということでしょうか。
すみません。理解力不足で、ちょっと混乱です。。

2)義経が、実は出っ歯でチビって話は以前にも聞いた事ありますけど、それって、中国の歴史書に残ってたんですか。これは知らなかったです。
歴史上の英雄を格好良く書いている小説なんか読むと、すっかり自分の中にイメージが出来ちゃって、後でがっくり来る事ありますよね。実は義経もその1人です。
勝手に想像して勝手にガッカリするなんて、向こうから見たらいい迷惑なんでしょうけど(汗)

お礼日時:2003/01/16 13:29

すいません  #4の者です


織田信長と書かないといけないのに
尾田になってましたー!!
とっても恥ずかしい間違いです
すいません  でも分かってもらえて良かったです
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この回答へのお礼

尾田でも織田でも、意味が通じれば0Kです。
全然大丈夫ですよ~。

お礼日時:2003/01/16 13:11

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