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テレビ放送でも生でも、感銘を受ける曲とそうでないのの差が激しく、放送を録画したものならば、たとえば3曲あると他の2曲はもう一生聴かないだろうのに、気に入った一曲は30回でも聴いてまだ飽きない、という感覚はどういうものなのでしょうか?クラシック向きではないでしょうか?

これと演繹させると、今まで何百曲か聴いたのですが、いいと思ったのは一割もないんじゃないかと思われます。これは、作曲家によるというよりも、その作品による傾向のほうが多いです。もちろん一曲も気に入らなかった作曲家も多いですが、おおくは、同じ作曲家で、この曲はいいがこの曲はよくないというほうが多いです。

A 回答 (5件)

 補足を読ませて頂きました。

こんにちは!ANo.2 hossannpapです。
 お好みの傾向は、私なりにイメージ出来た感は有ります。私の想像では、クラシックと言うジャンルに多少とも慣れている誰もが、仮に初聴きの曲であったとしても、音の繋がり・流れの中で、次に聞こえて来そうな「音」!メロディーの流れで、推測出来そうな候補の音がなる曲は御嫌いなのではないだろうか?(平たく言えば演歌の様に先のメロディーまで略解る様な曲!更に言い方を変えれば、一般的に聴き易い曲、安心して聞ける曲。時にはBGMに成るほどに神経の集中を要求されない曲)は、お嫌いな曲が多いいのではないかと想像致しております。
 又、メローな曲より音の輪郭や主張の強い曲の方がお好みではないかと推測しております。
 違っておりましたら、御免なさい!

【前置き】
 人は、誰でも、大なり小なり好き嫌いが有ります。私も質問者様と同じく、生理的に全く受け付けない曲が有ります。この中にも、
(1)今までの人生に於いて、全く揺らぐ事の無い強固に嫌いな曲! 
(2)昔は嫌いであった筈が、何かの切っ掛けで好きになっていた曲!
(3)好みではないと思っていた曲が、理由無く、何時の間にか好きな曲の仲間入りをしていた。
 そして、真逆な敬意を辿る曲(好き固定&嫌い→好き)
等、曲毎で、皆、程度が違います。
 私の場合、殆どの鑑賞時では、好みの曲(好みの曲想のもの)により強く好反応を示します。《多分、殆どの方が同じでしょう》
 でも、偶に、遠ざけている曲の中で、仲良しに成れる曲が、無いだろうかと思う事が有ります。若し、仲良くなれそうな曲に成っているかも知れないのに、決め付けの為に、出会いを失っているとしたら「人生が損だなッ!」と、思う事が有るのです。そんな時には、敢えて再会してみたりします。その結果として、仲良くなれる曲もあれば、変化無しもあります(変化しそうに思えた曲だけが、試されるのですが・・・)
 ANo.1 hikipapa様がお書きの・・・
>他の鑑賞仲間などが、私の琴線に触れない曲!悪琴線に触れる曲!に凄く傾倒したり好感想・好印象を持ち、それを熱弁で語られると、私には何故、その感覚が掴めないのか?私には感性の欠如があるのか?感性が劣っているのか?っと、自己嫌悪や焦りを感じて、嗜好心に逆らって無理矢理にでも解る様にしようとした事が有りました。でも、無理矢理は嗜好性拡張には、大して役立たなかった様に思います。「大して」と書いたのは、僅かですが例外的稀有に効果が有ったと言う事です。一旦ハードルが下がると、似た感覚の他の曲にもスピード感を伴って嗜好性拡張が進みます。この最中の手応えは「凄いお宝を発見した様な!音楽の鑑賞感性の厚味が増した喜び」の様な、至福の喜びを感じるのです(大袈裟・苦笑)。
と、私は同じ人種なのです。
 だからと言って、そうでない人に問題が有るなどとは思った事は有りません。
 私も、ANo.2の中で記しました・・・
>私の、鑑賞仲間にも、エルネスト・アンセルメ指揮/スイスロマンド管弦楽団の演奏しか聴けない人が居ります。聴けないと言うのは言い過ぎですが、他の演奏を聴いてもアンセルメ/スイス程に心が動かないそうです。又、イシュトバン・ケルテス以外は無用と言う者!ハンス・シュミット・一セルシュテットと見れば買わずにおれない御仁とか!
 の様な方も居られます。そんな方と会話を弾ませて、理解出来ない極端差も感じますが、その拘りが、時には羨ましくも有ります。その方自身は己の鑑賞スタイルに満足しておられます。それで幸せなのです。だからと言って、他の方に押付けたりはしません。何人もが皆違う好みを抱えたまま、お互いの話で盛り上がりますが、誰もが自分とは違う「好き嫌い」を認めます。否定はしません。
 それは、その様な中で、其々の方の人格と言いますか人間性が感じられて、其々の人の心の距離をチジメルからかも知れません。
 更に、質問者様の仰る・・・・
>作曲家によるというよりも、その作品による傾向のほうが多いです。もちろん一曲も気に入らなかった作曲家も多いですが、おおくは、同じ作曲家で、この曲はいいがこの曲はよくないというほうが多いです。
 私は、質問者様ほど強く思った事は有りませんが、一人の作曲家の作品にも、大好き!大嫌い!が存在しています。その両極の間の曲も有ります。

【疑問】
質問者様は、自分の好き嫌いの有り方に、問題を感じておられるのですか?

>テレビ放送でも生でも、感銘を受ける曲とそうでないのの差が激しく、放送を録画したものならば、たとえば3曲あると他の2曲はもう一生聴かないだろうのに、気に入った一曲は30回でも聴いてまだ飽きない、という感覚はどういうものなのでしょうか?クラシック向きではないでしょうか?
 質問者様が、放送局のクラシック担当のプロデューサーなど生業にするなら問題かも知れませんが、そうで無い限り、私は、何の問題も感じません。(生業でなくても他人への無理強いはいけませんが・・・)
 鑑賞するのに「クラシック向き」等と言うものが有ろう筈が有りません。お気の済むまで、擦り切れるほどに聴き、一方で、人生の中で二度と聴きたくないと感じ、今もそうならそれで良いでは有りませんか。
 たかがクラシック!されどクラシック!楽しむ側の特権ですもの(微笑み)!

この回答への補足

再度のご投稿ありがとうございます。
お礼はまた後ほどいたします。

で、この部分ですね、これが鍵だと強く感じました!

>仮に初聴きの曲であったとしても、音の繋がり・流れの中で、次に聞こえて来そうな「音」!メロディーの流れで、推測出来そうな候補の音がなる曲

この「予測できる」ことが我慢できません。

補足日時:2008/11/12 20:01
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この回答へのお礼

やはり、その違和感というか、不安の最もたるものは、「名曲」といわれているものにいいと思えるものがほとんどない、という感性のせいですね。世の中と自分の感性はどうなっているのか?自分は何者なんだろうという自己存在不安を感じるんですね。そういうトラウマチックなものがあります。これは、学生時代にも感じまして、流行の歌謡曲やらなにやら、人は興味があるみたいだが自分ではどうしてもよいと思えない、その一般膾炙度との落差が大きい、孤高の感覚ゆえの自己存在不安というか、寂しさというかです。

もっとも、おっしゃるように、私も嗜好の触手を広げられたこともあって、たとえば、弦楽四重奏など劇的効果の少ない作品もそれゆえに深いものを感じるようなれたり、不協和音的な曲などもその美しさを味わえるようになるなど、大人の味わいを要求されるようなものが好きになれました。

反対はあまりないですね。好き→嫌いという現象は起こらず、ここの登呂湖で私は本能的に好むものをチョイスしているという姿勢がまったく変わらないのでしょうね。

今回のご投稿は、音楽を聴く姿勢として、心強くなれ大変参考になりました。

お礼日時:2008/11/12 20:19

edison1207です。

色々な方の意見が反映されて、クラシック音楽をどう聴くのかというテーマになってきましたね?
私は、「通俗名曲」を取り上げましたが、これらの曲を聴きなさいといっている訳ではありません。
長い年月をかけ、淘汰されて現在も聴かれている曲には、やはり万人を引き付ける魅力がありますね?といっているのです。
その万人から外れた人は、これらの曲に嫌悪感を感じるのかも知れません。
チャイコフスキーなんて絶対聴かない!ラフマニノフなんてあの甘ったるいメロディ大嫌い!ヴィヴァルディの「四季」?聴きたくもない!
良いじゃないですか、それで。
クラシック曲も流行があって、SP時代の昔は小品が好まれました。
LP時代になって長い曲、ステレオになってオーディオ的な曲、CD時代になると、ブルックナー、マーラー等長大で大編成の曲、と変わってきました。
「通俗名曲」も変遷してきました。しかし、前にも書いた「田園」や「新世界」等を超える曲は果たしてこれから、出てくるでしょうか?
案外ビートルズの曲が100年後にクラシックとして生き残っているかも知れません。
同じ曲ばかり聴き続けるのではなく、新しいクラシックの流行曲を作っていってはどうですか?
今の現代音楽にその可能性はゼロです。今の音楽にはメロディがないからです。「春の祭典」は初演時に騒音?といわれたそうですが、メロディがあります。だから、名曲だし、これからも聴かれていくでしょう。
クラシックの最大の作曲家はベートーヴェンですが、彼の「合唱付き」はこれからも残っていきます。だって万人に受けているからです。
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この回答へのお礼

万人受けする
これが両刃の刃というか、どうも、すんなり受容できないところがあります。「万人」とはなんだろうか?本当に音楽に感銘する「万人」なのか、それとも、そう錯覚しわかったつもりになっている「万人」なのか。そもそも、音楽的感性を持っているのか?もってない人いっぱいいますよ。それらの人たちに受けているのではと感じる部分もあります。

メロディは大事ですね。今の現代曲はあまり知りませんが、確かにメロディを軽視しているかあるいはそれをこうつくする力がない。そこが人間に受けるか否かという基準だと私も同感。

メディアによってspからcdにっていうので大編成ってはっと気づきました。所詮媒介物を通してなんですからね。

お礼日時:2008/11/14 07:20

「通俗名曲」という言葉があります。

所謂、よく知っている、有名な曲です。「新世界」、「運命」、「合唱」、「未完成」、「田園」等々。
まあ名前のついている曲が多いですね。
私も40年以上、クラシック曲を聴いてきました。周りがPOPSやROCKが多かったので、どうせ聴くなら、通俗名曲は避けて聴いてみようと、アマノジャク的に聴いてきました。
その後、カタログ的にLPを収集し、CDを収集してきました。
そして、40数年を経て出た結論は、通俗名曲はやはり何度も聴くに値する曲が多いということです。
例えば、モーツァルトにしても、ベートーヴェンにしても当時の現代音楽でした。同時代に活躍した多くの作曲家の曲がいるにもかかわらず何故、彼らの曲が残ったのでしょうか?やはり、前衛性があったからではないでしょうか。個性があったからではないでしょうか。
だから我々が繰り返し聴いても、飽きないのです。常に新しい発見があります。演奏家が変われば、また違った魅力を発見できるのです。
もちろんベートーヴェンの全ての曲が優れているわけではありません。大したことない曲もあります。また作曲家によっては、たった1曲だけしか有名なものがない、ということもあります。
作品が良いか悪いかは、必ずしも聴かれているから良い、と単純にはいえませんが、やはり魅力はあるのだと思います。
自分の好みに合った曲は何度聴いても飽きません。それは皆さん同じだと思います。ショスタコーヴィチの15曲の交響曲、全部好きだという人は少ないと思います。私も若い頃、バーンスタインのマーラー交響曲全集を買いましたが、全部は聴きませんでした。それでいいのではないでしょうか。好きな曲を好きな演奏家で、何度も聴く、これがクラシック愛好家の姿でしょう。

この回答への補足

お礼は後でさせていただきます。
ちょっと具体例を挙げさせていただくと、
ショパンの夜想曲の有名なやつは嫌いで、無名の2,3曲がすごくいいと思います。シューマンの子供の情景なんていうのはすごく嫌いで、ピアノ協奏曲はすごくいいです。チャイコフスキーの悲壮なんていうのは大嫌いで、ヴァイオリン協奏曲がすごくいいです。リスト、バッハ、古典派はモツの短調交響協奏曲以外すべて嫌いです。近現代曲は好き嫌いはともかくどれも聴く価値があると思います。

補足日時:2008/11/11 11:28
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この回答へのお礼

おっしゃるとおり
>「通俗名曲」という言葉があります。所謂、よく知っている、有名な曲です。「新世界」、「運命」、「合唱」、「未完成」、「田園」等々。
これらですね、苦手というか、軽い憎悪嫌悪さえ感じるという作品です。こういうのって、作曲家は、自分の中で取り立てられるようなものだと思っているのでしょうかね。

私は、ちょっと聞いてもうだめなので、聞きなおす気になれません。おしゃるような「衝撃性」がこれらの「定番」にはあまり感じられません。聞きやすい凡庸という印象で、これらで作曲家が有名になってしまうのは心外な気がします。

やはり、捨てるべきものが多いというのがクラシックの世界と思ってもいいのでしょうかね。

お礼日時:2008/11/12 19:32

 この質問が成されて丸一日が経過しました。

一読して、私の事を言われている様で思わず笑ってしまいました。でも、感覚を言葉に置き換えた為に、心のスタンスが極端なポジションに固定されたかの様な表現になっているのではないかと思いましたが、如何ですか?
 還暦直前の私ですが、子供の頃から聴き役専門にて、演者の立場に成りたいと思った事は無く現在に至っております。それも今日まで未知(未聴曲)との遭遇を積極的に欲して来た事はあまり無かった様に思います。言い換えれば、気に入った曲は浴びるほど聴き、お気に入り所持盤の演奏は曲の長短に関わらず、隅々までの如何な些細な情報も摺り込まれてしまっています。が、誰もが知っている有名な曲でも知らない曲はかなり有る。と、言う具合です。
 人は一般的に、「人生最初に心の傾いた音楽ジャンルの影響が一生を支配する」とか「最初に気に入った曲想と似たものに惹かれる」とか「同じ曲でも初出会いの演奏をベスト演奏と捉えがちである」と、言われます。

 ここからは、以前、他の方の質問にお答えした際の極端な事例です・・・・・
>人は、皆ぞれぞれ言葉では伝えきれない違いが有ります。それが、嗜好性であったり、拘りであったり、経験起因の縛りであったり!説明に因って理解出来る気になる事も有れば、努力虚しく解らず仕舞いに終る事も有ります。
 私の、鑑賞仲間にも、エルネスト・アンセルメ指揮/スイスロマンド管弦楽団の演奏しか聴けない人が居ります。聴けないと言うのは言い過ぎですが、他の演奏を聴いてもアンセルメ/スイス程に心が動かないそうです。又、イシュトバン・ケルテス以外は無用と言う者!ハンス・シュミット・一セルシュテットと見れば買わずにおれない御仁とか!
 その様なスタンスではない者にとっては、理解出来そうでも、やっぱり出来ないのですよ(笑い)!
 フルベン礼賛団塊とかカラヤン神様団塊は有名で、そのアンチ派も大勢力ですが、この中には、前出と同じ種類の拘りもあれば、人が言うから何となく私もとか、格好良さそうだからとか、意味不明な数も含まれている様で、全ての意見を真面目には受取れない疑い心も浮びます。
 が、質問者様の様な拘り派(私の知人が同類なのかも判然とはしませんが・・・)
 ここまでが、以前、私が記した他所への回答記述の部分的コピーでした。

 ここまで、自分の趣向をはっきり言える人は珍しいかも知れませんが、誰でも潜在意識には、同傾向が存在します。
 私も、成り行き任せならズバリこの様なリスニング・ポジションの人間だと思います。
 しかし、上記の説明だけで、私の全てを言い表せているのか?
 当っている部分も有れば、当っていない部分もある!が正解です。
 これは、何方であっても大なり小なり同じでしょう・・・
 では、その当っていない部分とは・・・?
 ここで、ANo.1 hikipapa様の記述が素晴らしいと感じました。私も、過去、折に触れて、同じ様な気持ちで新たな趣向を拡げて来た様に思います。
 同じならば、投稿する必要は無かったのですが、チョッとだけ、私の気持ちの有り様を知って頂きたくて、敢えて投稿させて頂きました。
 ええッ!ここまでが前振りカイ??と、嫌がられそう・・・・・

 私に限った事かも知れませんが、昔、何時もでは有りませんが、他の鑑賞仲間などが、私の琴線に触れない曲!悪琴線に触れる曲!に凄く傾倒したり好感想・好印象を持ち、それを熱弁で語られると、私には何故、その感覚が掴めないのか?私には感性の欠如があるのか?感性が劣っているのか?っと、自己嫌悪や焦りを感じて、嗜好心に逆らって無理矢理にでも解る様にしようとした事が有りました。でも、無理矢理は嗜好性拡張には、大して役立たなかった様に思います。「大して」と書いたのは、僅かですが例外的稀有に効果が有ったと言う事です。一旦ハードルが下がると、似た感覚の他の曲にもスピード感を伴って嗜好性拡張が進みます。この最中の手応えは「凄いお宝を発見した様な!音楽の鑑賞感性の厚味が増した喜び」の様な、至福の喜びを感じるのです(大袈裟・苦笑)。
 だからと言って、何時も無理矢理をやってはいけません。下手をすると逆効果で、音楽そのものを聴きたくなくなってしまう経験もしました(汗)!
 今になって思う事は、その効果が有った時の私のコンディションを思い返すと、心だけでなく、仕事にも、家庭にも、人付き合いにも、最高に充実出来ていた時の少し下方のタイミングだったか、その全てに何かしらの問題を抱えて八方塞の様な感覚になっていた時のどん底より、少し上の時だった様な気がします。
 真逆な様な情況のようですが、どちらの時にも最低限の心の遊びが有った時ではなかったかと思うのです。何れにしても両極にある時は、音楽にさえ心が向かない!全てが中庸な時は、保守的で安定的な趣向心に依存した鑑賞姿勢になり、趣向性拡張には向かわなかった。
 私に限った事かも知れませんが、面白いですね!
 最後に、決め付けたければ決め付けて良し!時が人を変える!その中でも、変わらない事も有れば、自分で自分に驚く変化もある!
 ただ、全く拒否してしまうと、変化のチャンスの時にも知らざるが故に拡張出来ない!知らないのだから悔しさは無いかも知れないが、客観的には勿体無いなァ~!ット・・・
 まあ、生業にしてなければ、たかがクラシック!されどクラシック!ですね(微笑)!
 あまり、お役には立たなかったかも知れませんが、心に近付いて来ない曲にも敬意を払い、冒険心を時々出しつつ、普段は心のたゆたう揺らぎに逆らわず楽しめれば、それが一番だと、私は思っています。

この回答への補足

お礼は後でさせていただきます。
ちょっと具体例を挙げさせていただくと、
ショパンの夜想曲の有名なやつは嫌いで、無名の2,3曲がすごくいいと思います。シューマンの子供の情景なんていうのはすごく嫌いで、ピアノ協奏曲はすごくいいです。チャイコフスキーの悲壮なんていうのは大嫌いで、ヴァイオリン協奏曲がすごくいいです。リスト、バッハ、古典派はモツの短調交響協奏曲以外すべて嫌いです。近現代曲は好き嫌いはともかくどれも聴く価値があると思います

補足日時:2008/11/11 11:32
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この回答へのお礼

長文のご回答、ありがとうございます。
素直な私の感覚を表現できたと思っています。好きなものは嫌い、嫌いなものは嫌いという、しかしそういうのもクラシックの聞き方なのだろうか?という怖れというか不安というかですね。
クラシックと一言で言っても、その指す音楽は幅広いわけで、この全域をカバーして嗜好を働かせる人というのが逆に不思議であり、またこういう人は本当に音楽が好きなのか?という疑念さえ抱きます。

ちなみに、私もロマンドアンセルメは特別な印象を受けますね。

人の嗜好が理解できない!そんなにいいかよこれ?どう聞いていも好きになれんなぁっていう思いからどうやって脱却できるかですね!結局、人の多様性を知るという哲学で終わるという感じがします。つまり、お前はこういう女が好きでおれはこうだ、そのわけはわからない、そういうスタンスで音楽は味わえばいいというかそういうものなのかと感じます。もちろん「頭」での理解はあるべきですが、それによって嗜好が動いても、本能が好ましいと感じるようにはなれません。

嗜好性を動かせる時期というのが、いわば五段階の2と4であるというところも、実感がありますね。そういう不安定さは必要なのでしょう。
おっしゃるとおり、触手をなるべく伸ばして、新しいものをかかるようにという姿勢を維持して、出会いを大事にして、志向性を広げたいものだと感じませう。

お礼日時:2008/11/12 19:27

好みと言えばそれまでですが,自分の好みに合うか合わないかという感性によるものと,


その曲を理解できるか,できないかという…能力?と言っていいのか分かりませんが,
理解力によるものの差はあると思います。

私もご質問に書かれている通りの人間で,せっかく買ったCDなのに,
あまり聴いていないものもあれば,30回どころか何年も飽きずに聴いているもの…と,
いろいろです。気に入ったものなら,マーラーやブルックナーのような長い曲でも
続けて2回も聴くこともありました。しばらく聴いていなくて聴きたくなって聴く曲,
その曲を聴きたくなる周期のようなものがある曲もあります。

聴かない曲については,興味がないというふうに片付けないように心がけています。
というのは,理解できていないからとも思えるからです。
他の人がいいと思っている曲は,何かの良さを知っているわけですから,
きっと良さがあるわけで,自分がその良さを理解できていないだけと受け止めています。

その良さを理解できるようになりたいと,努力することもあります。
楽しむために聴くのでなく理解するために聴くというのは趣味ではなく学習のような話で
妙な行動かもしれませんが,それで理解でき,楽しめるようになった曲もあります。
そんな努力は何も無しで,初めて聴いてすぐに好きになった曲ももちろんたくさんあります。

バッハのミサ曲ロ短調は10年以上,努力の継続中ですが,未だに楽しめるところには
至っていません。この曲が大好きな友人がいて,何種類もの演奏を集めています。
名曲として多くの人達に親しまれてきている曲なので,必ず,良さはあるはずと思っています。
マタイ受難曲は一発でピンときたのに不思議なものです。

自分のことを振り返ると,若い頃に積極的に聴いていたものと,最近,よく聴く曲の傾向も
変わっています。中高生の頃は,中年の人達を見ていて,自分もその年になると
弦楽四重奏のようなものを好むようになるのだろうかと思っていたら,
そういったものを好む時期がきて,交響曲や派手な管弦楽曲を好んでいた頃には
全く興味がないと思っていた宗教音楽や声楽曲も好んで聴くようになり,
自分自身が変化しています。変化というよりは理解能力に幅が広がったのかもしれません。


>作曲家によるというよりも、その作品による傾向のほうが多いです

>たとえば3曲あると他の2曲はもう一生聴かないだろうのに、
 気に入った一曲は30回でも聴いてまだ飽きない、という感覚はどういうものなのでしょうか?

すぐにピンとくるもの,なかなかピンとこないもの,誰にもそんなものはあるのではないでしょうか。
好みの面と理解の面の両方が関係していると思います。
今の時点では一生聴かないだろうと思っている曲でも,経験や年齢とともに好みの傾向が変わり,
理解できる力も幅が広がってきますので,積極的に聴くようになるものもあるかもしれません。
中には,一生,(積極的に)聴かないままで終わる曲もあると思います。
誰にも好みの傾向はありますので,クラシック・ファンは,クラシックなら何でも好んで聴く…
ということはないと思います。

この回答への補足

お礼は後でさせていただきます。
ちょっと具体例を挙げさせていただくと、
ショパンの夜想曲の有名なやつは嫌いで、無名の2,3曲がすごくいいと思います。シューマンの子供の情景なんていうのはすごく嫌いで、ピアノ協奏曲はすごくいいです。チャイコフスキーの悲壮なんていうのは大嫌いで、ヴァイオリン協奏曲がすごくいいです。リスト、バッハ、古典派はモツの短調交響協奏曲以外すべて嫌いです。近現代曲は好き嫌いはともかくどれも聴く価値があると思います

補足日時:2008/11/11 11:33
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この回答へのお礼

「好み」と「理解」の問題は大事なことでしょうね。
私の場合、「理解しよう」という意欲が残念ながら希薄です。本能で音楽と向き合っている要素がすごく大きいです。それも、ジャンルにかかわらず、ジャズだろうが歌謡曲だろうがロックだろうが、その聞こえてくる音列、和性、旋律、その物体的な物理的刺激、形態そのものに、心が喚起されるかということが大きいと自分では思います。

ですので、回答者さんのような姿勢は敬服に値します。

おっしゃるように、年の功というか、昔は興味がなかったようなものが好きになることはあります。しかし、嫌いなものは嫌いであり続けることが多い。それはもんぎり型の曲というか、人口に膾炙するような、親しみよいメロディー印象を持つ曲でしょうか。そうでなくて、一般受けしないもので興味がなかったものにマニアックな興味と嗜好が動いてくることはあります。

お礼日時:2008/11/12 19:16

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