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なぜサラエボ事件がWW1の引き金に?

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  • 質問者:kan0802
  • 投稿日時:2008/11/25 01:16
  • 困り度:すぐに回答が欲しいです

第一次世界大戦のきっかけはサライェボで起きた墺皇太子暗殺事件といわれます。
なぜこんな些細な事件(といったら言葉が悪いかもしれません)が世界大戦のきっかけになってしまったのでしょうか?
言い換えるならば、なぜ他の、それより以前のタイミングで対戦が勃発しなかったかという事です。
1907年の英露協商と日露協商を最後に列強の同盟、協商関係は完成しました。
とすると、これより以後の事件は全て大戦勃発の可能性があったように思えるのです。(1910年代の建艦競争中ならなおさらです)
(1)第二次モロッコ事件(1911)
(2)伊土戦争(1911)
(3)バルカン戦争(第一次1912、第二次1913)
上記の3つは列強の利害が絡み大戦のきっかけになる可能性がありました。
しかし実際にはサライェボ事件が引き金に…。なぜ?
特に第二次モロッコ事件なんかは独対英仏の抗争であり即大戦の可能性を秘めていたように思えます。

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このQ&Aは役に立ちましたか?(役に立った:12件)
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  • 回答者:k16399638
  • 回答日時:2008/11/28 00:29

蛇足です。

当時のオーストリア・ハンガリー帝国のダメっぷりを書いた文学があります。
「兵士シュヴェイクの冒険」岩波文庫 4巻

プラハ3大文豪の1人、ヤロスラフ・ハシェクが書いたもので、チェコ人のシュヴェイクが軍隊で様々なサワギを引き起こす話ですが、まず戦争と聞いて「ボクは皇帝陛下のために八つ裂きになってもたたかうんだっ」と志願兵受付所に向かってプラハを歩いたら、民衆がハイになって大騒ぎとなり、いきなり主人公が騒乱罪で逮捕されるところから始まります。そして軍にはいったのですが、鉄道がメチャクチャで、部隊が前線に着かない内に作者のハシェクが死んでしまいました。大変面白く、また日本語訳には原典のヨセフ・ラダのユーモラスなイラストがほぼ全部掲載されているので、おすすめです。ハシェクは生涯に1000を越える新聞むけ文章を書いた人でした(プラハ3大文豪のあと2人はチャペックとカフカ)。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「兵士シュヴェイクの冒険」ぜひ機会があれば読んでみたいと思います。
現在ではほとんど跡形も無くなってしまったオーストリア帝国ですが、
この本で当時の、帝国主義時代の、ヨーロッパ最盛期の、ナショナリズムの高揚期の空気みたいなものが味わえたいです。

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  • 回答者:k16399638
  • 回答日時:2008/11/28 00:20

2です。また漫談ですが。

オーストリア・ハンガリーという国が、システムとして非常にややこしく、ムリヤリ作ったような国だったことも原因としてあげられるでしょう。これがドイツだったら対デンマーク、対オーストリア、対フランスの時のように一気に攻め込んで解決だったのですが、ウィーンとブタペスト両方の議会を納得させなければならなかったことは、小さくない要因だと思います。

あと、実はヴィルフェルム1世のドイツは、ビスマルクという有能な政治家と皇帝、そしてモルトケ率いる陸軍がうまく機能していて、当時の欧州では珍しい、社会保険制度などが整備され社会不安が鎮静化し、また実は新興国家ゆえユダヤ人への迫害があまりなく(ゼロではないでしょうが)、ビスマルクは国内整備で国と国民を豊かにできると考えていました。フランスの復讐には軍部と、王室婚姻外交で英国とうまくやり、これをおさえていた……のですが、ヴィルヘルム2世という若気の至りの象徴みたいなキャラクターが帝位につき、海外領土獲得に野心をもちビスマルクを失脚させ、ティルピッツという海軍畑の「日の当たらなかった」キャラが、海軍を増強すべく「艦隊法(どれだけの艦隊を維持しなくてはいけないか定めた法律)」をヴィルヘルム2世の野心に乗じて通してしまいます。これは当然海軍国の英国の不興を買いました。一方で陸軍も軍拡する→みなが警戒する、の悪循環に陥ったわけです。外交は破綻したが、条文は機能した、という恐ろしいメカニズムが働いてしまったのです。

机上の空論のシュリーフェン・プランは、鉄道で最前線に一気に陸軍を送り込むことを基礎にしていましたが、鉄道駅から最前線まで歩かされた兵士は疲労困憊。フランス軍はその隙に塹壕掘って機関銃すえてしまいました。かくして西部戦線は膠着状態に陥り、5年にわたる戦禍が世界をおおうこととなったのです。

ちなみに、大モルトケは「シュリーフェンだけは参謀総長にするな」と言っていたのですが……

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この回答へのお礼

再びご回答ありがとうございます。
>オーストリア・ハンガリーという国が、システムとして非常にややこしく、ムリヤリ作ったような国だった
二重帝国なんて現代では想像しにくい国家ですよね。
英仏独伊とは対照的に国民国家の建設に失敗したと僕は批評したいです。
>机上の空論のシュリーフェン・プラン
シュリーフェン・プランは現在も評価が低いようですね。
ロシアが想定よりも強く、東部戦線に計画以上に人を裂いた所為で西部戦線が崩壊したという見方もあるそうです。
やはり、失敗の原因ははっきりするが故にドイツのふがいなさが光ります。

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No.3ベストアンサー20pt

  • 回答者:TRJ
  • 回答日時:2008/11/27 12:43

1です。
確かにモロッコなどで列強の対立がありました。しかし、対立=戦争ではありません。例えば、1962年のキューバ危機は米ソの軍事衝突寸前までいきましたが、結局は外交で解決しました。ですから、1914年以前に大戦が勃発しなかったのは、それらの問題が外交で解決できる範疇にあったからです。解決というよりも問題を先送りにしたからかもしれませんが。それと、当時のヨーロッパの大半が君主国で君主同士が縁戚関係で結ばれていました。現在でも、ノルウェーのハーラル5世やスウェーデンのカール16世にオランダのベアトリクス女王といった君主やドイツ・ギリシャ・ルーマニア・セルビア・ロシアなどの旧王家や名家がイギリスの王位継承権を保持していますが、これは彼らがイギリス王室と縁戚関係にあったからです。ですから、対立があったとしても戦争までする気はなかったと思います。唯一、フランスだけは共和制でしたが、彼らは共和制の輸出をするつもりもありませんでしたし、ドイツに奪われたアルザス=ロレーヌ地方も武力で取り返そうとは考えていませんでした。
それと、戦争というものは簡単に始められるものではありません。戦争というのは外交問題の最終解決手段であり、後戻りできない選択肢です。例えば、ナチスのアドルフ・ヒトラーはいかにも戦争大好きみたいに見えますが、彼は戦争を望んでいませんでした(少なくとも1939年の時点では)。彼が軍事力を威嚇に使ったのは、それしか脅しに使える手段がなかったからです。その唯一の手段を危険にさらす戦争など迂闊にするわけにはいかないのです。戦争というのは勝っても負けても多大な出費と犠牲を出すもので、国の指導者ともなればアジア・アフリカの後進国ならともかく同じ列強の国と戦争なんてできればしたくありませんでした。
では、なぜ1914年に戦争が始まったのでしょう。その原因の一つがロシアとオーストリアの対立でした。オーストリア・ハンガリー二重帝国が1909年にボスニアを併合した時、ロシアはセルビアの独立を条件にそれを承認しました。ところが、サラエボ事件でオーストリアがセルビアの独立を脅かす要求をセルビアに出したために裏切られたと感じたロシアの軍部が皇帝に対オーストリア戦の圧力をかけ皇帝がそれに屈して動員を開始したのです。当初は対オーストリア戦のみを想定した部分動員を考えていましたが、軍部がそれは不可能と主張したため全面動員となりました。ですから、バルカンの問題が大戦の原因となったことは間違いありません。そして、それまで先送りにしてきた問題がこれを機に一気に噴出して世界大戦に発展したのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

再びご回答ありがとうございます。
>それまで先送りにしてきた問題がこれを機に一気に噴出して世界大戦に発展したのではないでしょうか
話し合いでの外交で解決できないほどの緊張が走ったのがサライェボ事件であったということですね。
国益を至上として目指すものの、武力行使はなるべく避ける
当時の列強の態度が少しわかった気がしました。

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No.2ベストアンサー10pt

  • 回答者:k16399638
  • 回答日時:2008/11/26 23:39

1番のかたの回答がすばらしいので、漫談を。

当時、動員をする、ということ=開戦となります。
鉄道ダイヤは軍用となり、国家機能すべて(道、橋、運輸の使用優先度)が戦争に向かうことになりますが、ロシアが部分動員をしたところ、ドイツの参謀本部が焦りました。ドイツはシュリーフェン・プラン(大失敗した机上の空論です)で、ベルギー方面に主力がいたので、東はスカスカだったからです。あげく、

この重大な瞬間、ヴィルフェルム2世はヨットツーリングで不在。

となると、ドイツ参謀本部の動員計画はだれも止める者がないままスタート。
「だれが動員していいといった!」
「計画にそうありますので……」
「いますぐ止めるわけには行かないのか?」
「国内の全鉄道ダイヤが金庫からだし開封した動員ダイヤになっており、もはや不可能です」

するとフランスが、すると英国が、ドイツと組んでいたトルコがと、連鎖反応が起きてしまい、こんなはずではなかったぞ、と。イタリアが中央同盟を裏切って中立になったのが意外といえば意外ですが、オーストリア海軍はイタリア海軍相手にしなければならなくなり、話はますます複雑に。バルカン情勢も、2次バルカン戦争の恨みをはらしたいブルガリアが……
ドイツ参謀本部長の小モルトケは「ここで流したドイツ国民の血で、勝利がえられないとすると、それは考えるだけで恐怖である」と言っているうちに神経衰弱となってしまい、参謀本部長が開戦早々病に倒れるという、「戦争を終わらせるための戦争」の始まりでありました。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なんだかドイツが間抜けに見えましたw
やはりなぜ1910年代前半の列強の衝突が大戦を引き起こさなかったのかが腑に落ちません。
うまく言葉にできないんですが、もっと早く大戦が起きてもおかしくなかったんじゃない? ということです。

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  • 回答者:TRJ
  • 回答日時:2008/11/25 11:18

まず、事件から大戦勃発までの経緯を。皇位継承者を殺されたオーストリアは激昂してセルビアに最後通牒を突きつけます。セルビアはほとんど受諾しますが、オーストリアがリストアップした政府職員を解雇するといった主権に関わる要求は拒否しました。オーストリアはそれを口実にしてセルビアに宣戦を布告します。ここまでは二国間の戦争ですが、セルビアにはロシアが後ろ盾として控えていました。セルビア独立を支持するロシアは対オーストリア戦を決意します。しかし、オーストリアにも同盟国ドイツの支持がありました。さらにロシアはフランスとも同盟を結んでおり、これだけで列強の大半が戦争に巻き込まれることになります。
しかし、当時の国際世論は戦争回避を望んでいました。19世紀からの科学の急速な進歩と普仏戦争から40年以上経過していることもあって
ヨーロッパの人たちは戦争は外交で回避できるか勃発しても短期間で終結できると信じていました。各国の政府も戦争回避のために交渉を続けていました。ところが、当時の軍隊は兵士の総動員を途中で中断する術を考えていませんでした。それが、お互いの疑心暗鬼を生みドイツの対ロシア・フランス宣戦布告で大戦は不可避となったのです。このことについてあるオーストリアの高官は「なんで俺たちの問題をそっとしておいてくれないんだ」とぼやいたそうです。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
とりあえず当時は世紀の大戦争を進んでおっぱじめようという輩はいなかったということですね。
各国が自国の利益のために動いたと。ことオーストリアはセルビアに対する復讐心があったのみで、大戦を起こす気などなかったのですね。
各国が戦争回避をしようとしたが、大戦は想定していなかった。
で、結局なぜ1914年なのでしょうか。1911年、12年、13年にも列強の衝突が考えられたと思います。
やはりバルカン情勢の緊迫が戦争不可避の状態を作ったと考えるのが妥当でしょうか。

  
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