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織田信長について教えて下さい

役に立った:3件
  • 質問者:tounyuutt
  • 投稿日時:2008/11/25 23:38
  • 困り度:困ってます

下に記載する信長に関するエピソードは、どの史料に書かれている話なのか、お心当たりがある分だけで構いません。ご存知の方、教えて下さい。

A:信長が朝倉氏を攻撃している最中、浅井氏に離反されたと知った時、
  エピソード1)信長は誰にも告げず、即座に撤退した。
  エピソード2)信長自身は撤退することを拒んだが、周囲に説得され、撤退することにした。
  〈それぞれ、どの史料に書かれている話でしょうか?〉

B:信長が比叡山を焼き討ちした際、
  一人の僧兵が信長に向かって矢を放ったが、当たらなかった。
  そこで信長は「お前達が神仏に見放された証拠だ」と言った。

C:足利義昭を追放した後信長は、義昭の子を将軍に立てようとした。

D:信長はある時、接待で出された餅を「皆も食え」と言って地面にぶちまけた。
  そこで、周囲の人達は土のついた餅を必死に頬張った。

E:稲葉一鉄は、部下の斉藤利三が明智光秀の部下になったことを不満に思って、
  信長に訴えた。

F:信長と上杉氏が対立関係になってから、上杉氏領内で、庶民が唄ったという唄
  「織田殿は、ひょっと出ては引っ込みひょっと出ては引っ込み、
   こんど出たら首を取ろ」

G:本能寺の変後、京都の人々はこんな唄を唄っていた
  「織田の五郎左は人でないよ、
   お腹召せ召せさせといて、おのれは逃げる卑怯者」

H:本能寺の変の際、誠仁親王は、自分も切腹した方がいいかどうか、
  光秀に問い合わせた。
  〈ルイス・フロイスの記録にありますが、それ意外(特に日本人の記録)にも、この記述があるでしょうか?〉

K: 本能寺の変後、明智光秀の娘、細川ガラシャは
  「あなたの悪い心のせいで、私は大変な思いをしています」
  と手紙に書いて父に送った。

たくさんあって申し訳ありませんが、
なにとぞよろしくお願いいたします。

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回答(5件)

  • 参考になった:1件
  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/11/29 00:10

こんばんは。
NO3.4です。

>>また、TV東京さんに申し訳ないですが、事件の日付や時間を現代人がいくら検討しても仕方がないと思います。
当時はまだ地域ごとに日付も時間もバラバラであったと思われるからです。

確かに、あなたのおっしゃる通りです。
私も、色々な「疑問」は残っています。

>>3.光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。

信長より毛利攻めの応援に行くよう光秀は命令を受けていますが、当時は、後世に名乗られたにせよ「戦国時代」。
なぜ、光秀は夜の8:00に出陣したのでしょうか。
当然、陽のある内に出陣するのが、当たり前。
暗くなってからでは、松明(たいまつ)などで「光」は取ったとしても、何万もの軍勢が、全員「松明」を持っていたはずもなく、どうやって老の坂を越えたか・・・暗がりの中?
そして、「戌の刻(午後8:00)」がどうして分かったのか・・・。
等々の「疑問」は残りますね。まあ、文書等もあるのかも知れませんが、まさに、「でっちあげ」の感もします。
私も、秀吉が好きで「研究??」をしていますが、光秀の「戌の刻進軍開始」は???です。
また、ルイス・フロイトにせよ、後世書かれた史料は、
「何とも、自分に都合の良い」
文書が多いですよね。

とりあえず、ご一読いただきありがとうございました。

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この回答へのお礼

bungetsuさん、こんばんは。
秀吉がお好きなんですか?いいですね~!
私なりの解釈ですが、秀吉は日本史のなかで、一般人として国政に参加した初めの一人だと思っています。
例えば信長などは、おそらくもともとは神社の宮司だった人で、当時としては「官」の人です。
だからその次に出てきた秀吉は、社会の主役が官から民へと移行する、大きな転換期を演じた人なのだと思います。
それに加え、官としての知識を、中年になってから学び、こなしていったのでしょうから、すごいと思います。

頂いたアドバイスにある、光秀の出陣時間はどうなんでしょうね・・・
どの史料に、どんな調子で書かれているのか分からないので何とも言えません・・・ 今の時点で思いつく仮説は、「光秀は夜行動が好きだった」とか「行軍中、時刻を知らせる鐘音が聞こえた」ぐらいです。私もその史料に興味を持ちました。

フロイスは確かに「自分に好都合」の文章かも知れませんね。
しかし「後世」ではなく、同時代を生きた証言者ではあったと思います。
彼は確か、秀吉の一年前位に亡くなったのではないでしょうか・・・ 
ただおっしゃるように、フロイスの証言から歴史を知ろうとする時、当然、彼の立場や性格を念頭に置いて読む必要はあるのでしょうね・・・
これは、他の証言者にも当てはまることなのかも知れません・・・

ともかくとして、
今後も秀吉研究が多いに捗ることを願っています。
親切なご返答を下さり感謝致します。ありがとうございました。

  • 参考になった:1件
  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/11/26 20:04

No3.です。
ミステイク・・・。

E:稲葉一鉄は、部下の斉藤利三が明智光秀の部下になったことを不満に思って、
  信長に訴えた。

これは、定かではないのですが、確か「稲葉家文書」だったような気がしますが、私も見たことがあります。
>>稲葉一鉄の子が稲葉利三<<で、その子に「春日局(お福)」がいます。
「稲葉家文書」?によると、二人とも「頑固」で意見が合わず、利三は明智光秀の家臣に鞍替えをしました。その時、一鉄が信長に訴え、信長は利三を返すよう光秀に命じましたが、光秀は、
「これは信長さまの御ためです」
と、命令を拒否した、とあります。

稲葉一鉄は、稲葉利三の弟・・・でした。

すみません。

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この回答へのお礼

細やかなご回答、本当にありがとうございます。
質問させて頂いた内容は、Bは津本陽氏のエッセイ本にありました。
(小説ではないので何か史料を根拠にしたのだろうと思ったのです)
Kは、デアゴスティーニの雑誌『日本の100人』で紹介されていました。
具体的には「あなたの腹黒きお心故に自らも夫に捨てられ~」となっています。
それ以外はどこかで聞いたり読んだりしたという朧げな内容です。


ともあれ、bungetsuさんのおっしゃるように歴史と言うのは難しいものですね。

史料を残した人、いわゆる「証言」を残した人の立場や性格によって、その言葉は変わるでしょうし、
現在歴史を研究する人の立場や性格によっても、研究成果、いわゆる「仮説」も変わるのだと思います。

そんなわけで私は、
当時を生きた人の「証言」こそ見てみたいと思い、先のような質問をさせて頂いた次第です。
掲載史料を知って、エピソードの信憑性を自分なりに考えてみようと思ったのです。

bungetsuさんに本能寺の変を「どう思うか」と聞いて頂いたので少し書かせて頂きますが、
私はあの事件にイエズス会の関与はないと思います。

フロイスが言う「信長の神格化」は、外国人らしい勘違いであったと思います。
『お湯殿上日記』によると、貴族には天皇誕生日を祝う習慣があったので、
信長はそれを民衆に呼びかけたのではないでしょうか。
当時神であった天皇を、外国人は理解できなかったのだと思います。
また、フロイスは信長を「未曾有の著名で傑出した武将」とか「彼の人柄や政治が放つ豪壮と威厳に対して日本国民は尊敬と評価を寄せていた」(『完訳フロイス日本史』より)などと、最後はとても褒めている様子を見ると関与はなかった気がします。

また、TV東京さんに申し訳ないですが、事件の日付や時間を現代人がいくら検討しても仕方がないと思います。
当時はまだ地域ごとに日付も時間もバラバラであったと思われるからです。
「日付と時間が全国統一されたのは明治時代に入ってから」という説明が、
ある暦学者の方の著書にもありました。


ただ、とは言っても、歴史はなかなか見えてこないこともたくさんあると思います。
本当に難しいものですね。

いずれにせよ、様々な史料を教えて下さり、内容なども添えて下さり、本当に助けられました。
改めてご親切に感謝致します。

  • 参考になった:1件
  • 回答者:bungetsu
  • 回答日時:2008/11/26 17:52

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、どのような「本」または「史料」から出題された問題でしょうか?
「歴史」というものは、まさに、「虚々実々」で、
賞賛するために、後世に書き加えられたもの。
敗者にするために書き加えられたもの。
あるいは、おもしろくするために創作されたもの。

まさに、「講釈師、見てきたような嘘をつき」が基本です。
これが「真実だ」というものは、極端に言ったら「非常に、数は少ない」のが歴史の「真実を発(あば)く」楽しさでもあるのです。

お答えできる範囲で・・・。

A:信長が朝倉氏を攻撃している最中、浅井氏に離反されたと知った時、
 エピソード1)信長は誰にも告げず、即座に撤退した。
  エピソード2)信長自身は撤退することを拒んだが、周囲に説得され、撤退することにした。
  〈それぞれ、どの史料に書かれている話でしょうか?〉

1.2を書かれた史料は、「ありません」。
ただし、エピソードとしては、浅井が離反したことを知った「お市の方」が密かに、長い袋に入れた小豆(あずき)を入れ、袋の両端を縛って信長に送った。
この贈り物を見た信長は、しばし考えて、
「浅井が裏切った」
と、叫び、撤退を始めた、という逸話は「信長公記」などに残されています。
これは、袋ですから、入れる方だけ縛れば良いものを、わざわざ両端を縛った・・・ということは、「袋の鼠」つまり、「挟み撃ち」になっている、と、いうことを知らせた・・・としうものです。

B:信長が比叡山を焼き討ちした際、
  一人の僧兵が信長に向かって矢を放ったが、当たらなかった。
  そこで信長は「お前達が神仏に見放された証拠だ」と言った。

これも「実際」は分かりません。
ただ、言えることは、朝倉や浅井は、古くから比叡山を信奉しており、庇護していました。そして、信長が浅井を攻めた時、浅井の落ち武者が比叡山へ逃げ込んで匿ってもらった。
さらには、当時の商業を営む「利権」を寺院は持っており、つまりは、「ショバ代」をせしめて、当然、それらに反発する者を守ったり、威嚇するために「僧兵」が登場し、武士と同じように「武装」をして「戦い」をしたことへの怒りが「比叡山焼き討ち」の一つの原因、と言われています。
つまりは、僧侶なのだから、宗教だけに関わっていれば良いものを「武力」を行使するようになったことへの怒りだった、とも言われています。
まあ、それが証拠かどうかは分かりませんが、信長は一向一揆とも戦い、「一向宗禁制」までしていますが、一向宗(真宗)の本山でもある「本願寺」には、一切、手を出していません。
僧侶が僧侶として宗教だけに携わっていれば、信長の怒りをかうことにはならなかった、のではないでしょうか。

C:足利義昭を追放した後信長は、義昭の子を将軍に立てようとした。

これは、無かった、と思います。
なぜなら、すでに足利幕府は地に落ちており、また、信長自身「天下府武」を唱え、自らが、この世で一番、だと思っていたようですので、足利義昭の次の将軍などは考えていなかったのではないでしょうか。
ただし、義昭が永禄11年(1569)9月26日に信長に支えられて京へ入り、10月18日に従四位参議、左近衛権中将、征夷大将軍に任じられますが、この時、義昭は長男の高山(こうざん)2歳を「人質」として差し出して、信長の機嫌を取っています。この頃、義昭32歳前後。
ちなみに、義昭の次男義喬(よしたか)は、後に、滋賀県大津市の坂本に住し「坂本氏」を名乗るようになり、三男義在(よしあり)は大分県日田市に住し「永山氏」を名乗るようになった、と言われています。

D:信長はある時、接待で出された餅を「皆も食え」と言って地面にぶちまけた。
  そこで、周囲の人達は土のついた餅を必死に頬張った。

このことは、はっきり言って知りません。そのように書かれた史料は見たことがありません。

E:稲葉一鉄は、部下の斉藤利三が明智光秀の部下になったことを不満に思って、
  信長に訴えた。

これは、定かではないのですが、確か「稲葉家文書」だったような気がしますが、私も見たことがあります。
稲葉一鉄の子が稲葉利三で、その子に「春日局(お福)」がいます。
「稲葉家文書」?によると、二人とも「頑固」で意見が合わず、利三は明智光秀の家臣に鞍替えをしました。その時、一鉄が信長に訴え、信長は利三を返すよう光秀に命じましたが、光秀は、
「これは信長さまの御ためです」
と、命令を拒否した、とあります。

F:信長と上杉氏が対立関係になってから、上杉氏領内で、庶民が唄ったという唄
  「織田殿は、ひょっと出ては引っ込みひょっと出ては引っ込み、
   こんど出たら首を取ろ」

これは、分かりません。
ただ、言えることは、上杉謙信は無類の「酒」好きで、上杉家に伝わる「杯(さかずき)」や上杉神社へ奉納した「杯」の中に、直径12cm前後の杯で「馬上杯」と呼ばれるものがあります。謙信は戦闘に行く馬上でも酒をあおっていたぐらいですから、酒盛りの余興として、そのような唄が出た、そして、庶民にも広がったかも知れませんね。

G:本能寺の変後、京都の人々はこんな唄を唄っていた
  「織田の五郎左は人でないよ、
   お腹召せ召せさせといて、おのれは逃げる卑怯者」

どなたかが書かれている『義残後覚』かどうかは不明ですが、「知田の城物語」には、次のように書かれています。
「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて 我は安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」
と、京の雀たちに笑い者にされた、と、ありますね。
源五は、確かに「武士」で信長の弟でしたので信長の側近として仕えましたが、もともとは、「茶人」で「優雅さ」を好んでいて、「武士」には向かなかった、とも言われています。

H:本能寺の変の際、誠仁親王は、自分も切腹した方がいいかどうか、
  光秀に問い合わせた。
  〈ルイス・フロイスの記録にありますが、それ意外(特に日本人の記録)にも、この記述があるでしょうか?〉

誠仁親王は信長から献上された二条御所(後の、二条城)で、老齢であった正親町天皇に替わって政務を執り行っていましたが、「本能寺の変」の直前に、「虫の知らせ」でもあったかのように、織田信忠と「休戦協定」を結び、信忠自身が誠仁親王を二条御所から正規の御所へ連れて行った、というのが、日本では「定説」となっているようです。

K: 本能寺の変後、明智光秀の娘、細川ガラシャは
  「あなたの悪い心のせいで、私は大変な思いをしています」
  と手紙に書いて父に送った。

これは、「あり得ない」と思います。
なぜなら、明智光秀は本能寺を攻めた6月2日の後、6月13日に「山崎の戦い」で秀吉との戦いで破れ、そして、農民の竹槍で殺された、となっていますよね。この2日から13日の間に手紙が来たとしても、信長を討った時点では、「英雄」か「卑怯者」かは判断できなかったのではないでしょうか。もし、光秀が天下人になっていたら、「英雄」ですよね。

(よもやま話)
2008.10.14TV東京「日本ミステリー」より
「信長は明智光秀にころされたのではない」
(1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老の坂(おいのさか)の峠を越え、京都に入り桂川を渡って本能寺に着いた。
1.このルートは、各種の史料等で、現在では「定説」となっている。
2.しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。
3.光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。
4.本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。
5.とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。
6.当時の具足(鎧、兜)は、鉄砲に対する防備で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。
7.城下はともかくとして、老の坂は、だらだらとした登り坂で、馬であれば、1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば3~4人が横並びでも通れた。
8.京都に入ってからは「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流か下流にあったが、そこを通ると、さらに時間は延びる。従って、一番早く着くには「桂川」を渡るしかなかった。
9.ところが、公家の「山科言経(やましなもとつね)」の日記「言経卿記」によると、6月1日は「前日から雨」。
10.当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができないので、上流または下流の橋を「迂回」せざるを得ない。
と、なると6時間で本能寺に着くには、時速4Km以上の速さで進軍しなくてはならない。また、雨が降った後であれば、老の坂は「ぬかるみだらけ」で、馬上の者は別としても、雑兵などはとても早足で越えることはできない。
11.従って、光秀は「本能寺の変」に間に合っていなかった。

(2)では、誰が・・・。
1.結論から言うと「イエスズ会の宣教師たち」であった。
2.イエスズ会の宣教師ルイス・フロイトの記した「日本史」によると、
「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放ち背中に命中した。(中略)、直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」
と、あたかも「現場」を間近でみていたかのように記述されている。
3.光秀の軍が襲ったのであれば、何万もの兵のうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。

(3)では、なぜ「イエスズ会」か。
1.信長は、イエスズ会の布教活動を許し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエスズ会とは仲が良かったはず。
2.イエスズ会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイトの記録によると、
「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため、(中略)、その魂は地獄に葬った」
と、ある。
3.「かくのごとく傲慢」とは・・・。
信長は居城である安土城跡に残る「廟(びょう)」の上に、現在でもあるが、「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、
「この岩を、わしと思い神と思え」
と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」であるかのように「命令」していた、と、言われ、それがイエスズ会にとっては、神はデウスのみであって、信長ではない、との反感をかった。

(4)本能寺の発掘調査で判明したこと。
1.2007.3.3「産経新聞」の報道によると、本能寺は北は六角通、東は西洞院通、南は蛸薬師通、西は油小路通に囲まれた120m四方と言われていたが、信長の宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方くらいの小さな建物で、寺に付随した「武家住宅」あるいは「小御殿風」であったことが分かった。
2.と、なると、信長をはじめ側近の者たちが「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。
3.これまで、100人余りの兵と共に宿泊していた、と言われているが、とても収容できない。
4.従って、イエスズ会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。

(5)イエスズ会のバックボーン。
1.イエスズ会は、南蛮貿易で火薬の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。
2.従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは「たやすい」ことであった。
3.また、イエスズ会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。

(6)では、なぜ、光秀が罪人なのか。
1.光秀が到着した時には、すでに、イエスズ会により信長は「暗殺」されていた。
2.光秀は、確かに、信長を討とうとして本能寺に向かった。
3.これにより、光秀に「謀反の罪」が着せられた。

と、いうものでした。
「歴史」は書き換えられるのか・・・。
あなたは、どうおもいますか?

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  • 回答者:nene-k
  • 回答日時:2008/11/26 01:36

A2)『朝倉記』では、松永久秀の助言を聞いて、信長が撤退したとされてます。

G、『義残後覚』では、「織田源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて 我は安土へ逃ぐる源五」となってます。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。とても嬉しいです。
早速、上記史料を自分なりにではありますが、書かれた時期や書いた人などを、調べてみたいと思います。
今気付きましたが、執筆時期や著者も、同時に質問させて頂いてよかったのかも知れないですね・・・
それはともかく、とても感謝致します。

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  • 回答者:tanuki4u
  • 回答日時:2008/11/26 00:10

信長公記
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
A 2)は元亀元年

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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。
深く感謝致します。

  
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