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私は不安神経症(パニック障害、予期不安)で精神科に3か月前から通院しています。
今までコンスタンを飲み、快方に向かっていたのですが、ある日再び眩暈などが再発してしまい、2週間前からジェイゾロフトによる治療が加わりました。
しかし、やはり結局こういった病院は精神的なもので、自分の考え方などを根本的に変えないと治らない、あくまでも薬は治す助けをするものと思い、焦ってはいけないとわかっていますが、早く治したいと思い、薬だけに頼るのではなく、もっと気持ちを前向きにこの病気と闘っていきたい、強い気持ちで生活がしたいと思い始めました。

先日、主治医に上記のことと薬も極力増やしたくない旨を言いました。
今回ジェイゾロフトが増えたので、代わりにコンスタンを1日3回から2回に減らしてみようということになりました。
しかし、コンスタンを1日2回にしてみましたが、やはり普段より眩暈がするようになりました。
でも私は薬に頼ってはいけない、ここで自分は強くなるんだ、眩暈に勝つんだという気持ちで何とか許されている頓服でもう1錠コンスタンを飲まずに済みました。

しかしやはり症状が出た時は素直に薬を飲んだ方が良いのでしょうか?
私は出来ることなら徐々に薬を減らしたいので、飲まずに頑張れるものなら頑張りたいです。
主治医は薬が必要だと思ったら飲んで構わないとおっしゃっていました。

パニック障害、予期不安など完治された方や同じ病の方などわかる方教えて頂ければと思います。
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

薬を増やしたくないということですが、精神病のお薬を飲むと依存性が出てしまうのではないか、薬を増やし続けて薬漬けになってしまうのではないか、というような事を考えてしまう患者さんが多いと思いますが、パニック障害を治療していくためには、まずお薬で不安、焦燥感、息苦しさなどのパニック障害から生じる症状を完全に押さえ込んでしまうことが重要なのです。

必要最低限の薬では、完全にパニック障害の症状を押さえ込むことが出来ないのです。
お薬で完全に症状を抑えた後で、行動療法などを取り入れながら少しずつお薬を減らしていくという過程をとるほうが、早期に症状が改善するんですよ。自分に合うお薬を見つけて(副作用等の辛い症状がお医者さんに伝えてください)、まずお薬で症状を完全に取り除くことが重要だと思います。
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この回答へのお礼

実は友人に薬漬けになるからやめた方がいい、結局精神的な問題でしょと言われ、そうかもって思ってしまったんです。
でもpepe_37さんのおっしゃっている通りだと思いました。
本来自分でもわかっていたはずなのに、他人に影響されてしまったのと焦りが出てしまいました。
まずは完全に症状を薬で抑えることからですよね。
薬はやはりきちんと飲むことにしました。
参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2008/12/06 00:33

心の病気は、心を意図的に操作して治そうとはしませんでした。



というのも、もし気持ちや気合いで治るなら、とっくに治っているはずだからです。

心が擦りへって傷んでいるのに、それに鞭打って動かそうとしたら、せっかくできたカサブタがとれて、いつまで経ってもキズが治りません。長引かせる人は、大抵そういう頑張り屋さんです。

ですから、意識を変えて環境に合わせるのではなく、環境を変えることに重点を起きました。そうして、自分の心のスタミナで動ける範囲で活動してみる「リハビリ」をしていったのです。

骨折した人間がいきなり100m走でリハビリしないのと同じです。ゆっくり歩くところから始めるのが自然な治し方だと思って、ゆったりと対応しています。
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この回答へのお礼

確かにその通りですね。
気持ちや気合いで治るなら、とっくに治ってますよね。
パニックにもならなかったかもしれない。
長引かせる人は、そう頑張ろうとする人なんですか・・・初めて知りました。私は自ら長引かせてるってことですね。
リハビリですか・・・そうですね、私はまだまだリハビリ段階なんですよね。
焦り過ぎていました。リハビリだと思っていた症状出始めの方がよっぽど順調に快方に向かっていた気がします。
無理しないで出来る範囲で行動します。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/12/06 00:40

今起きている症状をどうにかしたいと思う気持ちがあるのなら


クスリなどに頼ってでも症状を抑えたくなるでしょう。

では今起きている症状をあっていいものとして受け入れることができる
のならば症状を抑える必要性を感じなくなると思います。

眩暈やパニック障害や予期不安に勝つ必要があるのでしょうか。
それに勝とうとすればするほど敵は巨大に感じるはずです。
受け入れることは負けではありません。
受け入れることはそんな自分でいいと許すことだと思います。
弱い自分を受け入れることが自分の強さの始まりになるのです。
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この回答へのお礼

>弱い自分を受け入れることが自分の強さの始まり
ですか・・・。深いですね。
確かにそうなのかもしれません。
今の自分はやっぱり弱いんですよね。受け入れているつもりでしたが、やはりどこか早く治したい、という気持ちが強くて受け入れきれてなかったのかもしれません。
もっとゆっくりいかないといけませんね。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/12/06 00:36

神経症は思い違いによって引き起こされています。

その事に気が付くには、幾つかを学ぶ必要が有ります。一つは自分は自分だけで生きているのでは無いと云う事です。言い方を替えたなら、自分のの生活は「自我意識」だけでは成り立たないと云う事です。

分かり易く説明をするなら、自分が自我意識だけではないと云う事を書いてみます。思わずに何かをする事はないでしょうか?自分の考えと違う事を自分に提案をしている自分は居ないでしょうか?又心の中で言い争い、或いは反対の事を云いあっている時は無いでしょうか。

この事は分かり難い事です。ですがこれは本当の事です。心の内面から説明をしてみます。自我意識が感じている事は、実は感じさせる者がいるからです。これをお釈迦様は仏性と云いました。

神経症と云っても精神疾患と云っても実のところは、自我意識と仏性との矛盾と対立の事です。判り難い表現になっていますが、先に進みます。

神経症とは自我意識だけで人生に対応しようとしている事です。処が人間がうまく生きている時には、本当は自我意識は余り関っていません、眠る事を例にとって話します。普通眠る時には自我意識は眠ろうとします、そうして眠りに入る時には自我意識は無意識に体を、心を預けています、そうして無意識になってから体は眠りに入ります。

不眠症は眠ろうとします、眠りに入れない事から、意識の力、或いは意志の力で無理にでも眠ろうとしている事です。これには無理が有ります。無意識の力を借りていないからです。

全ての精神疾患の元は今言った事が原因とも言えます。人間の心が二つあると云う事を理解していない事に因ります。人間の行動は全てが、自我意識と無意識との共同作業、或いは協調作業と云えます。話す時でも自我意識だけで「意識」して話をしようとすればうまくゆきません、是が「上がり症や吃音」の原因です。

不安と云う事も今言った事に関係が有ります。不安を感じた時に自我意識だけで対応しようとする事が、不安障害を生み出しています。そうして更に意識して不安を追い出そうと意識した場合には、初めは、ちょっとした胸の痛みや、ちょっとした不安が、どんどん大きくなってしまいしまいには恐怖にまでなってしまいます。これがパニック障害の正体です。これ等は皆、心と云うものを知らない事から起きています。

心に湧きあがる漠然とした不安、罪悪感、又何もない所に湧きあがる恐怖感等は、実は自分で作っている事です。それは自我意識が仏性を無視した事、或いは共に生きていない事に因っています。

神経症は自我意識と仏性が、仲たがいを起こしている事に因ります。仏性の働きは、無意識を統括しています。そうして生きてゆくための働きをしています。それは自我意識に外界の危険や、安全を不安や、安堵などの感情を抱かせる事等で、導いています。

処が今言った事が分からない事によって、必要以上に警戒する場合が有ります。是が先端恐怖や、広場恐怖や、対人恐怖や、高所恐怖となって顕れています。対人恐怖の場合にも言えます、知らない人に会う時には必要以上の警戒心を抱きます、誰の場合でもそう言えます。この事に過剰に反応しているのが対人恐怖症と云えます。

うつ病の心が沈むと云う事も仏性を無視した事によって、仏性が自分の存在をアピールをしている事です。自我意識だけではうまく生きてゆけない事を教えようとしているだけの事です。

精神疾患の解消は自分自身を知ると云う事によって、完全に解消できます。人生は何か?自分は何者か?死ぬのが怖い?と云った悩みも実は仏性と自我意識の対立と矛盾の結果です。この事の解消が「悟りを開く」と云う事になります。お釈迦様の教えは精神疾患の解消方法、或いは心の癒しの完全版と云えます。

お釈迦様のお経に因らない教え「禅」に少し触れてみます。是は自我意識が「意識」して不安になっているものを、根本から根こそぎ不安の解消を図る方法と云えます。或いは心の訓練方法と云っても良いものです。

人間の不安は何処から来るのかと云うと、それは「意識する事、或いは分別をして自分を他のものと比べて、比較する」と云う事が出来ます。是は一概に言うと「分別をする」と云う事になります。聖書によるところの、知恵のリンゴを食べた事によります。是が人間が天国から追放されたと云う事の意味になります。

天国に一番近い存在は幼子と聖書にあります。この事の意味は、分別しないと云う意味です。ところが幼子は分別しないのではありません。分別出来ないのです。是は脳の発達が未熟だからです。人間に悩みが始まる頃日本では中学二年ころかと思います。中二病と云う言葉が有りますが、この事が意味している事が有ります。脳の機能の分化が完成に近ず板と云う意味になります。右脳と左脳の機能の分化が完成に近くなった事を意味しています。

人間の心に二つの心が混在するようになった事を意味しています。この混在を誰も教えてくれない事が、精神疾患の原因の特定を不可能に近くしています。

自我意識では解けない問題が心に生じてくる思春期頃に、悩みが始まります。是は無理もない事なのです。左脳の自我意識の機能が関係してきます。自我意識は分別脳です。分別出来ない問題は専門外です、自我意識では「人生問題や、感情の問題は」解決できません。理論する、論理で割り切れる問題は、有限の事に限られます。

割り切れる問題しか自我意識には解く事が出来ません。この事から「禅問答」なるものが研究して編み出されたと云えます。人生の矛盾の多い問題は左脳の自我意識では解く事が出来ません。この問題を解く事が出来るのは右脳の仏性が出て来ないと解けない問題と云えます。

禅問答が解ける時に自我意識と仏性が出会うと云う事になります。是が悟りです。悩みの解消となります。心がもう二度と言い争いをしなくなると云う事になります。心が静かになって心に平和が戻ってきたと云う事になります。

精神疾患、悩み、苦しみ、不安とは、ふりかかったてきた問題を自分の脳のどちらに割り振るのかが分からなくなった状態、不安のない健常者と云う人達は、問題を知らない内に専門の機能の脳に振り向けた人と云えます。そうして禅と云うものは脳の機能の違いを教えて不安になり易い人の心の訓練をする具体的な学問と云えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
少々難しいお話でしたが参考になりました。

お礼日時:2008/12/06 00:29

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