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青年イタリアがせっかく作ったローマ共和国を潰しにかかったのがなぜフランスだったのでしょうか?
何か関係があるのか、それともただの偶然なのか、どなたか教えて下さい。

A 回答 (2件)

ローマ共和国といえば1849年2月にマッツィーニが建国した方でしょう。


フランスがこれを潰そうとした直接の理由は、ローマから逃亡していた教皇の要請があったからですが、
基本的にはルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)は
隣国であるイタリアが統一されるのを望まず、利権を探していました。
当時、イタリアの大部分はオーストリア領であり、サルディニアと戦争していましたが、
南部で活動しているローマ共和国とガリバルディがこれに合流する前に
ローマから追い出して統一を妨害するのがフランスの主な目的です。

ちなみに
フランス革命戦争の頃にできたローマ共和国というのは、
フランスがポー平野でオーストリアと戦争をしていたのに
教皇庁が参戦したことがきっかけで、完敗した教皇ピウスVI世は
講和するわけですが、イタリア全土に革命的熱狂が伝わり、
ローマ市でも暴動騒ぎがおこって、その煽りでフランス大使(ナポレオンの兄)のそばにいた
Lデュポン将軍が(恐らく流れ弾で)射殺されるという事件がおきます。
そこで1798年2月にその報復を口実に、ローマ共和国を宣言して
ベルティエ将軍がローマ市とその周辺を無血占領したわけです。
教会の支配に不満を高めていた市民はこれを歓迎しますが、
敬虔なカトリックである農村部などでは反発が強く、ゲリラ戦も始まりました。
教皇領は分割されることになりましたが、隣接するナポリ王国の侵攻や
国内で頻発した蜂起によって支配は安定せず、
11月からは戦争が再開されたこともあって、
一時は半島の大部分をフランスが押さえた時期もあるのですが、
翌年に(ナポレオンの東方遠征の間)スヴォーロフのロシア軍がやってきて北イタリアで圧勝すると、
南イタリアからフランス軍は撤退して、ローマ共和国は消滅します。
ただこのローマ共和国というのはフランスの衛星国家のひとつであり、
全く重要ではありません。
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この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございます^^

お礼日時:2009/06/10 00:18

イタリアの歴史は結構複雑ですので順番に列挙します



1 教皇の力が大きかった中世は教皇国家であった
2 ミラノ ナポリ ベネチア ローマなどの都市国家が
  オーストリアなどの外国勢力により衛星国家となっていった
3 教皇の力の衰退とナポレオンのイタリア進行により
  フランスの力が増大していった
4 チザルピーナ共和国のようにフランスの衛星国となる
  国がでてきた
5 教皇領ローマもフランスが占領していた
6 都市国家ローマ市民(全体のイタリア市民ではなく)の中よりロー  マ共和国を宣言する人々がでてきた、フランスもこれを承認した
6 ローマをめぐる戦いがあったが、最終的にフランスがローマ(イタ  リアではなく)を併合し(潰しにかかったのではなく)
7 ナポレオンはイタリア全土を統一併合するためにイタリア共和国
  (チザルピーナ共和国をベースにして)を作りイタリアを統一した

結論としてお問い合わせの「ローマ共和国」は1798年~1800年の「わずか2年」だけイタリアでなくローマ市民が外国に侵略されていたイタリアの状況に憤慨し、また教皇の力が弱くなったため、ローマだけの共和国を宣言(ローマ市民の小さな反抗・日本の地方の百姓一揆のようなもの)し、フランスに承認されたが、イタリア全土を取りまく状況は変わらず、わずか2年でナポレオンによりすぐに「併合」されてしまった、イタリア統一併合というナポレオンの大きな目的には「ローマ共和国」はやはり「めざわり」な存在だったようですが、イタリアの歴史上あまり大きな出来事ではなかったようです、

後に1861年イタリア王国として統一されるが
ローマはこの中に入っていなかった、イタリアの歴史は結構複雑
で難解ですよ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF% …

参考になれば幸いです
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この回答へのお礼

すごく遅くなってすいません…
丁寧な回答ありがとうございます!

お礼日時:2009/06/10 00:16

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